「近藤啓吾」カテゴリーアーカイブ

「心神」を守るための不断の反省修養─山崎闇斎の神道開眼

 近藤啓吾先生は、『崎門三先生の学問―垂加神道のこころ』において、山崎闇斎が心神の語に触発されて、我が心は天祖天御中主尊の分霊の宿りたまうところであり、同時に天児屋命の天孫守護の任をそのままに我が任とするものであると開眼したと指摘し、以下のように続けられている。
 「即ち是れ神人一貫の自覚であり、これを我が国家についていふならば、神代即人代といふことになつて、曾てその統中断なく、神代のままが今に連つてゐるを知られたのである。
 しかし、明なる鏡もその明を保つためには常にその面にたまる埃塵を払拭しなければならず、いかなる名刀もその鋭利を保つためには常に手入れを怠ることができない。その道理にて先生は、この神与の心神も不断に省察を加へざれば忽ち欲望に覆はれる恐れがあり、そのために不断の反省修養を必要とすることと考へて、それが神道にいふ『祓』であるとせられた。ここに於いて先生の神道に於いては『日本書紀』の神代巻とともに『中臣祓』が重要なる依拠となつて来る」

『崎門学報』第4号刊行

 待望の『崎門学報』第4号が平成27年7月31日に刊行された。
 堅い内容ながら、日本を救う鍵がここにあると筆者は信じている。
 10カ月前の平成25年10月1日に創刊された同誌は、崎門学研究会(代表:折本龍則氏)が刊行する会報である。創刊号では、発行の趣旨について、折本氏が「いまなぜ崎門学なのか」と題して書いている。
 まず、山崎闇斎を祖とする崎門学の特徴を、「飽くまで皇室中心主義の立場から朱子学的な大義名分論によって『君臣の分』と『内外の別』を厳格に正す点」にあり、「主として在野において育まれ、だからこそ時の権力への阿諛追従を一切許さぬ厳格な行動倫理を保ちえた」と説いている。
 さらに、肇国の理想、武家政権による権力の壟断の歴史から明治維新に至る流れに触れた上で、戦後日本の醜態を具体的に指摘し次のように述べている。
 「我が国は、今も占領遺制に呪縛せられ、君臣内外の分別を閉却した結果、緩慢なる国家衰退の一途を辿っているのであります。
 そこで小生は、この国家の衰運を挽回する思想的糸口を上述した君臣内外の分別を高唱する崎門学に求め……闇斎の高弟である浅見絅斎の『靖献遺言』を読了し、更にはその感動の昂揚を禁ずること能わず、今日における崎門正統の近藤啓吾先生に師事してその薫陶を得たのでありました。最近では同じく崎門学の重要文献である栗林潜鋒の『保建大記』を有志と輪読しております」
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反省懺悔と精進辛苦─度会延佳『陽復記』

 
 伊勢神道を再興した度会延佳の『陽復記』に次のような言葉がある。
 「神とは鏡といふ和訓を一字略せしなれば、かの明徳を鏡にたとへ侍るに替る所もなし。誰も誰も心をかゞみのごとくせば、吾が心則ち天御中主命・天照大神に同じからんか。其上、心は神明の舎といへば、もとより人々の心中に神はやどりましませども、くらましたる心は、舎の戸を閉ぢたるがごとく、又鏡にさびうき塵積りたるに同じ。急ぎ神明の舎の戸をひらき、鏡のさび塵を去るべし。古はしらず、近頃の仏氏の中に、鏡にうつる影もまよひぞ、影もさるべし、と教ふる方も有りとなん、僻事と覚へ侍る。その故は、鏡のさびを去りては、万像の影をのづからうつる。いよいよ磨けばいよいよすなほに影うつる物なり。さびをさるこそ修行ならめ、影をさらんとおもふは、是れぞまよひなるべき」
 近藤啓吾先生の「度会延佳を思う」で、この言葉を「尊く思ふ」と書かれ、次のように述べられている。
 「彼れは『神代巻』と『中臣祓』との間の相通ずるものを最も深きところに於いて把握し、それを反省懺悔と精進辛苦として、その神道説の根本に置いた。延佳のこの神道把握こそ、後年、闇斎をして神道に開眼せしめる契機であり、そして闇斎より若林強斎へと継承せられた垂加神道の根幹をなしてゆく」

若林強斎『神道大意』の真髄⑤─近藤啓吾先生「日本の神」⑤

若林強斎『神道大意』第五段
 「総じて神道をかたるは、ひらたうやすらかにいふがよしとなり。忌部正通の、辞を嬰児にかりて心を神聖にもとむ、といへるこれなり。あのあさはかにあどない(子供つぽい、あどけないの意)やうなる中に、きつう面白くうまい意味がある、理窟らしい事を甚だきらふ事なり。(下略)」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第五段。忌部正通の辞とは、忌部正通の著と伝へる『神代口訣』の凡例のうちに見える語であつて、その意、「神代巻」の記述、一見荒唐無稽の如くであるが、それは古代人の未開未熟の眼をもつて見た儘を写したものであるから、我れも当時の人となりて当時の眼をもつてその荒唐の記述を見れば、おのづからその真実を知り得るであらうといふものである。そして闇斎も、初め神代の記述の不合理なるを解しがたしとしたのであるが、この辞を知るに及んで、その記述に込められた真実を理解するの道が開けたることを述懐してゐる。強斎のこの語は、闇斎のその意を受けたものに外ならない。そして強斎はその辞によつて、神道はいたづらに理窟を言ひたてるべきでなく、その説、平易なるべきであるといふのである。
 以上をもつて強斎『神道大意』の紹介とその略解を終へる。読者みづからこれを熟思し、その神道説の本旨をみづから把握して頂きたい。そしてこれに因り、日本の神の特色を明らかにしてほしいと思ふ」

若林強斎『神道大意』の真髄④─近藤啓吾先生「日本の神」④

若林強斎『神道大意』第四段
 「……苦々しき事は、上古神祖の教を遵(したがひ)守らせたまはぬ故と見えて、上はおそれあれば申し奉られぬ御事なり。下一統の風俗、唐の書のみ読みて、却つて我が国の道はしらず、浮屠は信じて却つて神明はたふとび奉らず、かの君上を大切に存じたてまっり、冥慮をおそるるやうなるしほらしき心は殆んどむなしくなりたり。まことに哀れむ可き事ならずや。然れども天地開闢已来、今日に至るまで、君も臣も神の裔かはらせたまはず、上古の故実もなほ残りて、伊勢神宮を初穂をもて祭らせ給はぬ内は、上様新穀をめしあがらせたまはぬの、伊勢奉幣、加茂祭の時は、上様も円座(わらふだ)にましますの、僧尼は神事にいむなどいふ類なり。さあれば末の世というて我れと身をいやしむべからず、天地も古の天地なり、日月の照臨、今にあらたなれば、面々の黒(きたな)き心を祓ひ清め、常々幽には神明を崇め祭り、明には君上を敬ひ奉り、人をいつくしみ、物をそこなはず、万事すぢめたがふ事なければ、おのれ一箇の日本魂は失墜せぬといふものなり。余所を見て悲しむ事なく、唯々我が志のつたなきことを責め、我が心身のたゞしからぬ事のみをうれひ、冥加を祈りてあらためなほすべし」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第四段。我国に古風古儀の存するありて、天地も古の天地であり、日月の照臨も今にあらたであるから、各人それぞれの汚き心を祓ひ清めて、神を崇め君を敬ひ人をいつくしみ物をそこなはず、万事筋目たがふことがなければ、己れ一個の日本魂は失はれぬことであるから、人を見て我が足らざるを悲しむことなく、ただ我が志の拙きことを責め、我が身の正しからぬことのみを憂へて、神の冥加を祈り、我れの至らぬところを矯め改めよ。かく説くが本段の主旨である。なほ本段の用語に見える「上様」は、当時一般にその大の属する封建君主をいふものであつたのと異なり、天皇を指し奉ることであさて、強斎に於いては、上様と仰ぐは天皇御一人の外なく、この講義を聞く人、よし封建君主の家臣であつても、その人の立場を越えて天皇の直臣との立場に於いてこれを聞くことを求めたことが、この語の用法にうかがはれる」

若林強斎『神道大意』の真髄③─近藤啓吾先生「日本の神」③

若林強斎『神道大意』第三段
 「志をたつるというても、此の五尺のからだのつづく間のみではない、形気は衰へようが斃れようが、あの天の神より下し賜はる御賜を、どこまでも忠孝の御玉と守り立て、天の神に復命して八百万神の下座に列り、君上を護り奉り、国家を鎮むる霊神となるに至るまで、ずんとたてとほす事なり。さるによりて死生存亡のとんちやくはなき事なり。若しも此の大事の御賜ものをもり崩して(もりはもぐ、ねじつてとるをいふ)、不孝不忠となさば、生きても死にても天地無窮の間、其の罪逃る可からざるなり。(中略)道は神道、君は神孫、国は神国といふも、抑々天地開闢の初め、諾册二尊天神の詔を受け(中略)共にちぎりて天下をしろしめす珍(うづ)の御子を御出生と屹度祈念し思食す誠の御こころより、日の神御出生ならせられ、二尊かの天柱をもて日の神を天上に送り挙げたてまつりて、御位に即かせたまふより、天下万世無窮の君臣上下の位定まりて、さて日の神の御所作は、但父母の命をつつしみ守らせられ、天神地祇を斎ひ祭りて宝祚の無窮、天下万姓の安穏なるやうにと祈らせたまふより外の御心なし。神皇と一体といふも是なり。祭政一理といふも是なり。あなたを輔佐成らるる諸臣諸将も、上様のかう思召すみことのりを受けて宣ぶより外なうして、児屋(こやね)・太玉(ふとだま)の命の宗源を司らせらるるといふは、其の綱領なり。(中略)諸臣諸将は申すに及ばず、天下の蒼生までも上の法令をつつしみ守りて背き奉らぬやうに、天地神明の冥慮をおそれたふとびて、あなどりけがす事なければ、おきもなほさず面々分上の(それぞれの身分の上でいふの意)祭政一理といふものなり」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第三段。神道の教たる、忠孝の徳を全うせんとの努力は、その人の生存中のみの務めではなく、死するも猶ほ続けて、つひに八百万の神々の末にその座を与へられ、君上を護り奉り、国家を鎮むる霊神とならざるべからざるを語り、それ故に死生存亡の頓着はなき事であると説いてゐる。この段、まさに垂加学派の神道説の精彩をここに凝縮したる思ひがする」

若林強斎『神道大意』の真髄②─近藤啓吾先生「日本の神」②

若林強斎『神道大意』第二段
 「まづさしあたり面々の身よりいへば、子たるものには、親に孝なれと天の神より下し賜はる魂を不孝にならぬやうに、臣たるものには君に忠なれと下し賜はる魂を不忠にならぬやうに、どこからどこまでもけがしあなどらぬやうに、もちそこなはぬやうに、この天の神の賜ものをいただき切つてつつしみ守る事なり。(中略)神様の屹度上に御座成られて、其の命をうけ其の魂を賜はりて、一物一物形をなすゆゑ、内外表裏のへだてなくいつはらうやうもあざむかうやうもけがしあなどらうやうもそこなひやぶらうやうもなき事と屹度あがめたてまつりてつつしみ守るが神道の教なり」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第二段、この世に存する一木一草もその本体、神の霊を受けたるものであるから、これをみだりに扱ふべからざることを説き、進んで人間みづからの間題として、我れが我が本質として神より賜はりし君に忠、親に孝たらんとするの徳と全うするため、平生これを慎み守ることが神道の教たることを述べてゐる。」

若林強斎『神道大意』の真髄①─近藤啓吾先生「日本の神」①

 若林強斎の『神道大意』は、享保10(1725)年8月、多賀社の祠宮大岡氏の邸で強斎が行った講説を門人の野村淡斎が浄書し、強斎自ら補訂を加えたものである。
 この『神道大意』の真髄を理解するために、まず近藤啓吾先生の「日本の神」(平成24年4月25日)を精読したい。この論文は近藤先生著『三續紹宇文稿』(拾穂書屋蔵版、平成25年1月)の冒頭に収められている。

〈「(神道大意)おそれある御事なれども、神道のあらましを申したてまつらば、水をひとつ汲むというても、水には水の神霊がましますゆゑ、あれあそこに水の神罔象女(みづはのめ)様が御座成られて、あだおろそかにならぬ事と思ひ、火をひとつ焼くというても、あれあそこに火の神軻遇突智(かぐつち)様が御座成らるる故、大事のことと思ひ、纔かに木一本用ふるも句句廼馳(くぐのち)様が御座成られ、草一本でも草野姫(かやのひめ)様が御座成らるるものをと、何につけかに付け、触るる所まじはる所、あれあそこに在ますと戴きたてまつり崇めたてまつりて、やれ大事とおそれつつしむが神道にて、かういふなりが即ち常住の功夫(くふう、平生のエ夫をいふ)ともなりたるものなり」
 以上第一段、古伝を素直に受け、伊勢神道の説を継ぎ、この世に存在するあらゆるもの、すべて神の生み給ふところであつて、その神霊を得てその存在価値としてゐることを述べて、一木一草にも神の分霊がまします故、これを戴き奉り崇めたてまつりて、やれ大事と恐れ謹しむが神道にて、そのこころを守らんとする努力が、即ち神道を奉ずるものの平生の工夫であることを述べてゐる。〉

國體の真髄─「皇統無窮、万世一系とは当為の努力である」

 近藤啓吾先生は、崎門学正統派の若林強斎の「皇統ヲ仰ギ崇ブハ勿論ナリ。但シ何時何様ノ変ガ有ラウカト、常々恐怖スルガ今日ノ当務ナリ。日神ノ詔勅ニ違ヒノ有ラウヤウハナケレドモ、清盛モアリ頼朝モアリ、何時将門・純友出ヨウモ知レズ。神代ニ既ニ天稚彦アリ。何時迄モ動キハナキコトト落チツクハ惰ナリ。甚ダ危キ事ナリ」という言葉を引いた上で、次のように述べている。
 「皇統無窮、万世一系とは、本然の事実にあらずして、当為の努力である。言ひかへれば、これは、わが国体の最高の理想目標を示したものに外ならない。たゞこれは、絶ゆることなき努力の継承によつてのみ、現実たらしめ得る。しかもこの当為の努力が、肇国以来一貫せられて来たところに、わが国の道義の本質を見る。観念でなく実践であり、中断なき継承であらねばならぬ。これ乃ち絅斎が、赤心報国の大刀を横へて逢坂山はわが死処なりといひ、強斎が楠公を慕つて望楠軒を設立し、而して成斎が、某、年いたく老けては候へども、今、朝廷に何事も候はゞ、王城の南門は、某一人して警衛候べしと常言した所以である」

山崎闇斎の「天人唯一」①

 儒学の「天人合一」と山崎闇斎の「天人唯一」の違いはどこにあるのか。
 近藤啓吾先生は、『山崎闇斎の研究』において次のように書いている。
 〈「天人唯一」が宋学で重んじた天人合一の語より出るものであることは明らかである。そして伏義が仰いで天文を観、俯して地理を察て易象を作つた(繋辞伝上)といふのであるから、『易』が天人相応の理によつて構成されたものであることはいふまでもなく、周濂渓の『太極図説』といひ張横渠の『西銘』といひ、ともにこの『易』の理に本づいて天人合一を説くものであつた。闇斎が『闢異』を著はし、『周子書』を編纂し、『西銘』を表章刊行してゐるのも、この天人合一の理に、人のよりて立つ根本かあるを信じ、その理を明らかにしようとしたものである。しかし漢土に於いては、天は所詮、思惟によつて生れたものであり、「乾は父と称し坤は母と称す、予が茲の藐焉、乃い混然として中に処す」(『西銘』。闇斎の加訓による)といつても、それは天人合一をその観念上に体認することであつても、天と人と血統の上に接続するところなきことは自明のことである。朱子学に深く沈潜しながら、最後の依拠を確信することができぬ辛苦と焦心が、闇斎のうちにあつたことは疑ひ得ない。
 しかるに眼を『神代巻』に転ずれば、そこに展開されてゐる高天原の世界は、神の世界ではあるが漢土の天と異なり、まさしくわが血脈上の父祖の世界である。血脈に中断なきところ、神代は即現代に継承せられ具現せられてゐるのである。これは歴史と信仰とを統合し一体ならしめるものといつてよい。闇斎はわが国のこの事実を「天人唯一」の語をもって表現したのである〉(316頁)