葦津耕次郎は昭和13年に刊行した『日支事変の解決法』において、次のように書いている。
(②より続く)
〈一、支那ヲシテ、道義国家タラシムルニハ、支那ノ国政ノ基礎ヲ家族制度ニ置カシメ、親心政治タル、堯舜政治ヲ、顕現セシムベキデアル。
一家ハ、親(家長)ヲ以テ、絶対的、綜合、調和、統一者トシ、一家ノ家長ハ、一村ノ親(村長)ヲ選挙シ、一村ノ親(村長)ハ一郡ノ親(郡長)ヲ選挙シ、一郡ノ親ハ、一県ノ親(県長)ヲ選挙シ、一県ノ親ハ。一国ノ親(大統領即ち堯舜)ヲ選挙スルノデアル。(コヽニ選挙トハ必ズシモ投票選挙ヲ意味スル者ニ非ズ)
親ハ、慈悲ノ本元デアル、国政ノ基礎ヲ親トスルハ、大慈悲国家ヲ顕現スル所以デアツテ、道義国家ヲ建設スル所以デアル。コレ、我國體ト合致シ、宇宙万有一貫ノ原理ト合致セシムル所以ニシテ、東洋平和ヨリ、世界平和ヲ顕現セシムル、唯一方途デアル、之ヲ、堯舜国家ト云フノデアル。
近来流行ノ、一国一党主義ハ、自ラ強要シテ、親タルヲ僣称スルモノニシテ、覇者ノ道デアリ、ナチスデアリ、フアツシヨデアリ、蔣政権デアル、断ジテ支那ニ許スベキデナイ。
欧米ノ如ク、個人ヲ基礎トセル、大統領選挙ハ、功利的、相剋的、非道義的ニシテ、闘争分裂ニ陥ル、我国現行ノ衆議院議員選挙法モ亦然リデアル、故ニ、其ニ支那ニ採ルベキ道デナイ、況ンヤ、日本ニ於テオヤデアル〉(続く)
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日中対立打開の道─葦津耕次郎『日支事変の解決法』②
葦津耕次郎は昭和13年に刊行した『日支事変の解決法』において、次のように書いている。
(①より続く)
〈一、我国ノ教育勅語ハ、宇宙万有一貫ノ、根本原理ノ発露ニシテ、人類最高ノ道徳規範デアル、故ニ、古今ニ通シテ謬ラズ、中外ニ施シテ悖ラザルモノデアル。而シテ、教育勅語ヲー貫スルモノハ、慈悲デアリ、親愛デアリ、親切デアル、然ラバ則チ、慈悲、親愛、親切ハ、宇宙万有一貫ノ精神ニシテ、人類天賦ノ性命デアル、孔子、釈迦.基督ヲ始メ、古今東西ノ聖賢、哲人ハ、何レモ皆、慈悲、親愛、親切ノ国家ヲ顕現スベク、努力奮闘シタモノデアル、然ルニ遂ニ、其ノ理想タル、天国、浄土ヲ、此ノ国土ニ顕現シ得ナカツタノデアル、コハ.宇宙一貫ノ根本原理ノ顕現神タル、天皇ノ大稜威ニヨルノ外、顕シ得ベキモノデハナイカラデアル、換言スレバ、教育勅語ノ、実現実行セラルヽ国ニアラズンバ、世界ヲ指導シテ、世界平和ヲ実現スルコトガ出来ナイノデアル、支那ヲ直義国家(堯舜国家)タラシムルモ、我日本天皇ノ大稜威ニヨラズンバ実現シ得ベキモノデハナイ、現ニ、堯舜政治ハ、支那民族ガ、幾千年間、自国ノ性命トシテ、熱望スル処ノモノナルモ、今ニ、実現シ得ナイノデアル、今回ノ.日支事変ハ、我日本ヲシテ、天賦本来ノ自性ニ立チ還ラシメ、以テ、天皇国家ヲ顕現セシメ、支那ヲシテ、堯舜国家ヲ建設セシメテ漸次、世界平和ヲ実現セシメントノ神慮デアル事ヲ、覚悟セネバナラヌ。
一、日本ヲシテ、道義国家タラシムルニハ、左ノ条項ヲ実行スルニヨリ、神国日本、即チ、天皇国家ヲ顕現シ得ベキモノデアル。
一、政府、官吏(縦ノ国家機関)及議会、議員(横ノ国家機関)ヲ始メ、教育家、宗教家等、苟モ、国家ヲ経綸シ、国民ヲ指導啓発スル者ノ任免、詮衡ハ、先ヅ、道義(教育勅語)ノ実践躬行者タルヲ、必須要件トスベキコト。
二、議員選挙権資格ハ、現在ノ功利的、対立的、相剋的、個人主義的普通選挙法ヲ廃止シテ、綜合的、調和的、統一的、家長選挙法ニ、改ムベキコト。
三、教育ハ、小学ヨリ、大学ニ至ル迄、如何ナル学府タルヲ問ハズ、教育勅語ノ実践躬行ヲ励行セシムベキコト。〉
(続く)
日中対立打開の道─葦津耕次郎『日支事変の解決法』①
葦津耕次郎は昭和13年に刊行した『日支事変の解決法』において、次のように書いている。
日支事変の原因として、日支両国が功利的、打算的になったことを明確に指摘している。
〈日支事変ノ解決ハ、先ヅ、日本ガ自己ノ性命ト、使命トヲ、反省、自覚シテ、道義国家(天皇国家)ヲ顕現シテ、以テ、支那ヲシテ、道義国家(堯舜国家)ヲ建設セシムベク、強要スルコトデアル、コハ、事変解決ノ絶対唯一ノ道ニシテ、将来日支両国ハ勿論、世界万邦ヲシテ、無現ノ幸福ヲ享有セシムルノ途デアル、決シテ、他ニ方策アルベキデナイ、以下其ノ理由ト、其ノ方策トヲ述ブル。
一、功利的、打算的、政治ハ対立、相剋ヲ起シ、互恵的、親愛的政治ハ平和幸福ヲ、招来スルモノデアル。
一、日支事変ハ、日支両国ノ政治ガ相互ニ、功利的、打算的トナツタ結果ニシテ、其責ハ、日支両国政治家ノ負担スベキモノデアル。
一、日支事変終局ノ目的ハ、東洋平和デアリ、日支親善デアラネバナラヌ、然ラバ則チ、日支両国ハ、相互ニ過去ノ功利的、打算的、政治ヲ清算シテ、互恵親善ノ、内治外交ニ終始スルノ外、他ニ途ナキモノデアル。
一、我国ガ、地球上ニ、国ヲ肇メタノハ、互恵親善ノ国家、即チ。道義国家(天皇国家)ヲ顕現シ之ヲ延長シテ、世界平和ヲ実現センガ為メデアル。コハ、我国ノ性命デアリ、使命デアリ、皇祖肇国ノ神命デアル。
一、我国ハ、明治以来七十年間、欧米文化ノ所産タル、功利的、打算的学理、学問ニ陶酔シ、我国独特ノ性命タリ、使命タルベキ、道義国家ノ経綸ヲ忘却シテ、欧米直訳ノ、功利、打算、対立、相剋ノ権利義務ノ観念ヲ以テ、諸法律、諸制度ヲ制定シ、国家ヲ経綸シ、且ツ、国民ヲ教育シタノデアル、故ニ、我国ノ百政ハ、勿論、国民ノ思想道徳ハ、悉ク、我國體ト乖離シ 我国固有ノ国民道徳ト背馳シテ、内治外交トモニ、対立、相剋ヲ起シ、遂ニ、平和ヲ破リ、幸福ヲ失フニ至リシモノデアル。〉
(続く)
東和洋行─吉島徳三夫妻が創業
「興亜の歴史を上海に見つける」②─『上海歴史ガイドマップ』で紹介した東和洋行について、陳祖恩著・大里浩秋訳『上海に生きた日本人―幕末から敗戦まで 近代上海的日本居留民(1868‐1945)』に説明がある。同書によると、東和洋行は、一八八六(明治一九)年に、鉄馬路(今の河南北路)と北蘇州路が交わる辺りに開業した。創業したのは、吉島徳三夫妻である。
初期の上海の日本旅館は、日本人商人や旅行者に宿泊の便を提供するとともに、上海で売春をしていた日本人娼婦に、売春のための場所を提供していた。こうした中で、東和洋行は『上海新報』一八九〇(明治二三)年十月に告示を出し、「醜業婦」の宿泊を拒絶すると宣言し、さらに、「御婦人にては、御夫婦達の外は、相当の御添書にても有之の外、あいまいなる婦人は一切御断申す事と致候」と声名した。
これを機に、上海日本人社会における東和洋行の知名度は急速に高まっていった。
西本省三「論語と労資問題」より(『支那思想と現代』)
東洋諸国の「君臣の義」
〈元来欧米政治の弊は其尚ぶ所権利に在り、其奨する所又武力的及経済的帝国主義に在る、而して之に物質文明の偏重を以てせる弊を加へて居る、故に君、臣を使ふるに礼を以てし、臣、君に事ふるに忠を以てし、上下の間に礼儀を以てする様な東洋諸国の国柄とは自ら其趣きを異にして居、即ち上下権利を以て相売るの弊ある欧米と、上下礼儀を以て主とする東洋とは自ら其趣きを異にして居る、欧米が過去に於ける貴族の強権より平民階級を解放し得たにも拘らす、今日貴族の強権と変らない資本主義が代りて生れた以上、礼儀なき彼の国上下に、人理を立てしむるの容易ならざる怪しむに足ない、即ち資本主義に対する労働者が衆力を恃むで貧を疾み、労資問題を醸し、更らに過激派の跋扈を来す様になつたのは、勢ひあり得べき儀で、各国が何れも此両者に困るのは又決して怪しむに足りない〉
美風善俗の逸却
〈更らに重要なるは民国以来十三経二十四史を熟読もせず、上下礼儀を以てせる其美風善俗を逸却し、礼儀を窮窟に感ずる様になつた結果に由るのであらう、随つて真の過激派とも云へない、要するに支那には礼儀が形式に流れ、其実を失し、其弊に絶へない点があるのは、固より否むのではないが此弊があるからとて、天理の節文、人事の儀則たる礼は人類社会を維持すべき自然力で、トテも人為的に之を無にすることは出来ない、此礼儀ある国柄に向つて労資関係を悪化せしめんとする政客青年は、或は自滅の期を早める結果になりはすまい歟。〉
(大正9年2月2日)
西本省三「道と器」より(『支那思想と現代』)
政治の自然に帰れ!
〈支那の文明が退歩し、或は停滞しつゝあるは、政治の自然に基づかずして三代以後、唯統治者の私意に支配されたが為めに文明の進歩と発達を人為的に阻害し杜塞し、世界の大勢に時代後れとならしめたのであつて、文明其者は希臘羅馬以上、即ち欧米文明の淵源たる文明以上の文明的大本が四億万民族の心理中に潜勢カとなつて居る〉
(大正9年1月26日)
西本省三『支那思想と現代』(春申社、大正10年)目次
以下は、西本省三が大正10年に刊行した『支那思想と現代』の目次。
道と器
論語と労資問題
礼教の国
徳の力
大春秋と小春秋
之を如何、之を如何
支那の所謂新思想
支那の領土問題
人気取り政治
黄梨洲と王船山の学生論
支那の知識労働階級
鄙夫患夫の語と現代
学ばざるの黄老家
愿民と傲民
民心即ち天心
支那の民本思想
続きを読む 西本省三『支那思想と現代』(春申社、大正10年)目次
西本省三と忠臣・鄭孝胥
戦前の興亜論を再考する上で、孫文支持派と一線を画した清朝復辟論者の存在に注目する必要がある。その中心人物の一人が西本省三である。
明治10(1877)年に熊本県菊池郡瀬田村で生まれた西本は、中学済々黌(現在の熊本県立済々黌高等学校)卒業後、東亜同文書院で教鞭をとった。
西本は、清朝遺臣の鄭孝胥と交流するとともに、同じく清朝遺臣の沈子培に師事し、清朝復辟論を唱えていた。辛亥革命後の大正2(1913)年には、鄭孝胥、宗方小太郎、島田数雄、佐原篤助らと上海に春申社を設立し、『上海』を創刊する。西本は同紙上で、清朝復辟を唱え、孫文の思想を「欧米直訳思想」と批判していた。昭和2(1927)年夏に西本は病のために郷里熊本に帰国、再び上海の地を踏むことなく翌28年5月に死去した。
一方、鄭孝胥は溥儀の忠臣として人生を全うした。1912年に溥儀は退位宣言をし、1924年には紫禁城を退去したが、鄭孝胥は忠臣として付き従った。鄭孝胥は1932年、満州国建国に伴い、初代国務院総理に就任した。
*写真は鄭孝胥
「興亜の歴史を上海に見つける」②─『上海歴史ガイドマップ』
「日支提携の先鋒たらしめん」馬場鍬太郎(東亜同文書院第18期旅行記念誌序文、大正10年5月)
東亜同文書院生の卒業旅行とはいかなるものであったのか。彼らに期待されていたものは何だったのか。藤田佳久『東亜同文書院 中国大調査旅行の研究』(大明堂、2000年4月)には、書院教授・馬場鍬太郎が第18期旅行記念誌(大正10年5月)に寄せた序文が引かれている。
〈凡そ生を人生に享くる者其時と所を問はず人類文化発展の大業に参し、身に応じ、分に従ひて努力するの覚悟あるを要す。吾人が支那大陸の開発経営に資するに当たりても亦文明の潮流時勢の要求に順ひ、物質的及精神的両文化の円満なる発達を期待せざるべからず。然るに我が邦人の真に支那を解するもの極めて少なく、支那と言へば直ちに荒寥たる僻陬を連想し、或は一獲遺利を拾ふに適すと思意する者比々皆然り、之れ固より、不究者自身の罪たりと雖も一は亦我邦に於ける調査研究基幹の寂寞たりしに帰せずんばあらず。
惟ふに支那に関する邦人の研究は日支両国の関係上頗る古くより行はれ、殊に近時に至りて著しき高潮を呈し学者、政治家、実業家等職業階級を通じ相競ひて之が研究に遅れざらん事を勉むるに至れり、然れども其範囲未だ漢籍の外に出です、或は西人著書の抄訳により、その糟糠を甜むるに止まる。
千言満語口に日支親善を唱へ、唇歯輔車、日支共存を論ずるも其実の挙がらざる寧ろ当然なるべく、今や更に具体的日支親善案の論議を見るに至れり。
然るに支那研究の道程如何、固より一言にして尽し得ずと雖も親しく風俗、習慣、物情、民意の機微を究め人心の趨帰を察し支那は謎題なりとして不究の罪を糊塗せんとする従来の弊習を打破するにありて其第一着手としては須らく先ず地理の研究に起り、親しく其地の視察調査に志を要す。
松陰先生の所謂「地を離れて人なく、人を離れて事なし、人事を論ぜんと欲せば先ず地理を審かにせざるべからず」所以爰に存す、我が東亜同文書院夙に見る所あり、毎夏上級学生を十数班に分ちて禹城の南北を周游せしめ、親しく地理、人情、習俗の機微を究めて日支提携の先鋒たらしめんとし、よく支那事情研究の資料を蒐集して剰す所なし。
昨夏第十八期生を分つこと二十、三伏の溽熱を冒し、足跡本部十八省に遍ねく更に内蒙、東三省に及ぶ、昿漠険阻の地を過ぎ、艱苦欠乏の厄に耐へ、長途或は魂を驢騾の孤鞍に驚かし夜半夢を木舟の中に破り、旅宿孤燈の下に視察を随記し帰来編して紀行成る。
予書院に職を奉じ旅行計画の任にあること年あり毎夏各地を巡游するに当り親しく各班辛苦の実況を目撃し私かに感激の意に不堪、聊か感想を舒べて序に代ふ〉