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若林強斎『神道大意』の真髄④─近藤啓吾先生「日本の神」④

若林強斎『神道大意』第四段
 「……苦々しき事は、上古神祖の教を遵(したがひ)守らせたまはぬ故と見えて、上はおそれあれば申し奉られぬ御事なり。下一統の風俗、唐の書のみ読みて、却つて我が国の道はしらず、浮屠は信じて却つて神明はたふとび奉らず、かの君上を大切に存じたてまっり、冥慮をおそるるやうなるしほらしき心は殆んどむなしくなりたり。まことに哀れむ可き事ならずや。然れども天地開闢已来、今日に至るまで、君も臣も神の裔かはらせたまはず、上古の故実もなほ残りて、伊勢神宮を初穂をもて祭らせ給はぬ内は、上様新穀をめしあがらせたまはぬの、伊勢奉幣、加茂祭の時は、上様も円座(わらふだ)にましますの、僧尼は神事にいむなどいふ類なり。さあれば末の世というて我れと身をいやしむべからず、天地も古の天地なり、日月の照臨、今にあらたなれば、面々の黒(きたな)き心を祓ひ清め、常々幽には神明を崇め祭り、明には君上を敬ひ奉り、人をいつくしみ、物をそこなはず、万事すぢめたがふ事なければ、おのれ一箇の日本魂は失墜せぬといふものなり。余所を見て悲しむ事なく、唯々我が志のつたなきことを責め、我が心身のたゞしからぬ事のみをうれひ、冥加を祈りてあらためなほすべし」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第四段。我国に古風古儀の存するありて、天地も古の天地であり、日月の照臨も今にあらたであるから、各人それぞれの汚き心を祓ひ清めて、神を崇め君を敬ひ人をいつくしみ物をそこなはず、万事筋目たがふことがなければ、己れ一個の日本魂は失はれぬことであるから、人を見て我が足らざるを悲しむことなく、ただ我が志の拙きことを責め、我が身の正しからぬことのみを憂へて、神の冥加を祈り、我れの至らぬところを矯め改めよ。かく説くが本段の主旨である。なほ本段の用語に見える「上様」は、当時一般にその大の属する封建君主をいふものであつたのと異なり、天皇を指し奉ることであさて、強斎に於いては、上様と仰ぐは天皇御一人の外なく、この講義を聞く人、よし封建君主の家臣であつても、その人の立場を越えて天皇の直臣との立場に於いてこれを聞くことを求めたことが、この語の用法にうかがはれる」

若林強斎『神道大意』の真髄③─近藤啓吾先生「日本の神」③

若林強斎『神道大意』第三段
 「志をたつるというても、此の五尺のからだのつづく間のみではない、形気は衰へようが斃れようが、あの天の神より下し賜はる御賜を、どこまでも忠孝の御玉と守り立て、天の神に復命して八百万神の下座に列り、君上を護り奉り、国家を鎮むる霊神となるに至るまで、ずんとたてとほす事なり。さるによりて死生存亡のとんちやくはなき事なり。若しも此の大事の御賜ものをもり崩して(もりはもぐ、ねじつてとるをいふ)、不孝不忠となさば、生きても死にても天地無窮の間、其の罪逃る可からざるなり。(中略)道は神道、君は神孫、国は神国といふも、抑々天地開闢の初め、諾册二尊天神の詔を受け(中略)共にちぎりて天下をしろしめす珍(うづ)の御子を御出生と屹度祈念し思食す誠の御こころより、日の神御出生ならせられ、二尊かの天柱をもて日の神を天上に送り挙げたてまつりて、御位に即かせたまふより、天下万世無窮の君臣上下の位定まりて、さて日の神の御所作は、但父母の命をつつしみ守らせられ、天神地祇を斎ひ祭りて宝祚の無窮、天下万姓の安穏なるやうにと祈らせたまふより外の御心なし。神皇と一体といふも是なり。祭政一理といふも是なり。あなたを輔佐成らるる諸臣諸将も、上様のかう思召すみことのりを受けて宣ぶより外なうして、児屋(こやね)・太玉(ふとだま)の命の宗源を司らせらるるといふは、其の綱領なり。(中略)諸臣諸将は申すに及ばず、天下の蒼生までも上の法令をつつしみ守りて背き奉らぬやうに、天地神明の冥慮をおそれたふとびて、あなどりけがす事なければ、おきもなほさず面々分上の(それぞれの身分の上でいふの意)祭政一理といふものなり」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第三段。神道の教たる、忠孝の徳を全うせんとの努力は、その人の生存中のみの務めではなく、死するも猶ほ続けて、つひに八百万の神々の末にその座を与へられ、君上を護り奉り、国家を鎮むる霊神とならざるべからざるを語り、それ故に死生存亡の頓着はなき事であると説いてゐる。この段、まさに垂加学派の神道説の精彩をここに凝縮したる思ひがする」

若林強斎『神道大意』の真髄②─近藤啓吾先生「日本の神」②

若林強斎『神道大意』第二段
 「まづさしあたり面々の身よりいへば、子たるものには、親に孝なれと天の神より下し賜はる魂を不孝にならぬやうに、臣たるものには君に忠なれと下し賜はる魂を不忠にならぬやうに、どこからどこまでもけがしあなどらぬやうに、もちそこなはぬやうに、この天の神の賜ものをいただき切つてつつしみ守る事なり。(中略)神様の屹度上に御座成られて、其の命をうけ其の魂を賜はりて、一物一物形をなすゆゑ、内外表裏のへだてなくいつはらうやうもあざむかうやうもけがしあなどらうやうもそこなひやぶらうやうもなき事と屹度あがめたてまつりてつつしみ守るが神道の教なり」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第二段、この世に存する一木一草もその本体、神の霊を受けたるものであるから、これをみだりに扱ふべからざることを説き、進んで人間みづからの間題として、我れが我が本質として神より賜はりし君に忠、親に孝たらんとするの徳と全うするため、平生これを慎み守ることが神道の教たることを述べてゐる。」

若林強斎『神道大意』の真髄①─近藤啓吾先生「日本の神」①

 若林強斎の『神道大意』は、享保10(1725)年8月、多賀社の祠宮大岡氏の邸で強斎が行った講説を門人の野村淡斎が浄書し、強斎自ら補訂を加えたものである。
 この『神道大意』の真髄を理解するために、まず近藤啓吾先生の「日本の神」(平成24年4月25日)を精読したい。この論文は近藤先生著『三續紹宇文稿』(拾穂書屋蔵版、平成25年1月)の冒頭に収められている。

〈「(神道大意)おそれある御事なれども、神道のあらましを申したてまつらば、水をひとつ汲むというても、水には水の神霊がましますゆゑ、あれあそこに水の神罔象女(みづはのめ)様が御座成られて、あだおろそかにならぬ事と思ひ、火をひとつ焼くというても、あれあそこに火の神軻遇突智(かぐつち)様が御座成らるる故、大事のことと思ひ、纔かに木一本用ふるも句句廼馳(くぐのち)様が御座成られ、草一本でも草野姫(かやのひめ)様が御座成らるるものをと、何につけかに付け、触るる所まじはる所、あれあそこに在ますと戴きたてまつり崇めたてまつりて、やれ大事とおそれつつしむが神道にて、かういふなりが即ち常住の功夫(くふう、平生のエ夫をいふ)ともなりたるものなり」
 以上第一段、古伝を素直に受け、伊勢神道の説を継ぎ、この世に存在するあらゆるもの、すべて神の生み給ふところであつて、その神霊を得てその存在価値としてゐることを述べて、一木一草にも神の分霊がまします故、これを戴き奉り崇めたてまつりて、やれ大事と恐れ謹しむが神道にて、そのこころを守らんとする努力が、即ち神道を奉ずるものの平生の工夫であることを述べてゐる。〉

頼春水「贈高山彦九郎」

 『月刊日本』の連載「明日のサムライたちへ」。次回(平成27年1月号)より頼山陽の『日本外史』を取り上げる。その2回目では山陽の父春水と高山彦九郎、崎門学との関係についても書く予定だが、春水の「贈高山彦九郎」が吉村岳城『朗吟詩撰 下巻』(日本芸道聯盟、昭和11年)に収められているのを知った。次のような解釈が載せられている。
 〈私はかねてから高山彦九郎といふ人物はよく知つて居る。上州新田の細谷といふところで寸陰を惜しんで読書したこと、畑で鋤鍬を把る間も経書を放さなかつたのも、折あらば山野を跋渉して英気を養つたことも、孝心深くよく仕へたことも、天下を奔走して傑出した人物には千里を遠しとせず往いて訪ね、尊王の大義を説いたこともまた三條大橋に土下座して草莽の臣高山彦九郎と名乗り、泣いて 皇居を拝したことなどみんな識つて居たのだ。それがかうして相逢ふ仲となつて嬉しい。大に飲まう。そして大に志を論じよう。書を読んで読まないは第二の問題だ、根本第一は志だ。志あつてこそ書を読むんだ。志の無い奴が読書した處で何になる、害はあつても益にはならない。志が無くて読書した奴は腐儒にしかならない。志だ。志だ。〉

山本七平『近代の創造』の中の『靖献遺言』

 山本七平は『近代の創造』(PHP研究所、昭和62年)において、渋沢栄一の従兄弟で、その師でもあった尾高藍香のことを論じているが、藍香も手にしたと推測される『靖献遺言』を次のように位置づける。
 〈『靖献遺言』『保建大記』『中興鑑言』が、さらに『大日本史』の通俗版ともいえる『日本外史』『日本政記』が明治維新を招来した「思想教科書」であるとは確かに言える。このうち前の三冊は朱子学の系統の崎門学であり、『中興鑑言』の著者三宅観瀾と『保建大記』の著者栗山潜鋒は水戸彰考館の一員で、共に闇斎・絅斎系すなわち崎門学系の思想家である。そしてこの浅見絅斎こそ山崎闇斎の弟子で尊皇の志士のバイブル『靖献遺言』の著者である。だが、これらの人々の思想は……朱子学系統であり、朱子の正統論を絶対化し、正統を護持するためには殉死も辞せずという強い正統論者であったことは共通している。一方水戸には光圀が招聘した中国からの亡命学者朱舜水がおり、その弟子が安積澹泊で水戸彰考館の総裁、要約すればこの二系統を統合したのが初期の水戸学である。しかし観瀾の後は余りたいした学者も出ず、このころは日本の思想に強い影響力をもっていたわけではない。
 ところが藤田幽谷とその子東湖、さらに会沢正志などが出、斉昭がこの東湖によって水戸藩主となり、東湖を側用人、正志を侍読とすると共に、水戸は「思想的権威」のような様相を呈して来た。……だが会沢正志であれ、藤田東湖であれ、本来の姿は水戸藩の「お抱え学者」であり、藩に従属して禄をもらっている以上、浅見絅斎のような完全に自由な思想家ではあり得ない。彼らは「尊皇攘夷」は声を大にして口にしたが、「藩」そのものの否定はもちろん、幕藩体制否定の「倒幕」さえ明確には口に出来ず、その点、決して「倒幕のアジテーター」とはいえない。……尊皇思想を研究された三上参次博士は「一方に於て是書(『新論』や『常陸帯』)を読み一方に於て『靖献遺言』の所信を実行せば、皇政復古の大業の明治維新の際に於て成功せるも強ち異とするに足らざるべし」と記されている。いわば「発火点」は『靖献遺言』であって、水戸学はそれにそそぐ油のようなもの、そして外圧はこれを煽ぎ立てる風のようなものであって、油と風だけでは何も起らないわけである。
 そして発火点とは……「思想の真髄」いわば、天動説を地動説に変えてしまうような「心的転回」を起したときである。そうなれば『新論』も『常陸帯』も激烈な行動へと燃えあがる油にはなりうる。
 そして多くの人の場合は発火点が『靖献遺言』であった〉

『保建大記打聞編注』読了

 平成26年11月21日、崎門学研究会で輪読を続けてきた『保建大記打聞編注』(杉崎仁編注)を読了。同書に収められた、平泉澄先生の「保建大記と神皇正統記」を再読した。
 ここで、平泉先生は四つの観点から『保建大記』と『神皇正統記』の類似性を論じ、両書にしばしば出てくる不諱不諛について次のように書いている。
 「然しながらかくの如き直言不諱の態度は、第一には事実を直視して真相を把握しようとする学者の良心から出た事である上に、第二には諷諌をたてまつつて帝徳を輔翼し奉らうとする忠誠の至情より発する所である事を知らなければならぬ。神皇正統記の著者北畠准后が累代忠烈の家風を承けて、終身王事につくされた赤心は、今更いふまでもない所であるが、保建大記の著者栗山潜鋒にしても、崎門尊王の精神を受けて八条宮に仕へ、王政の衰微を慨歎してやまなかつたのであるから、其の丹誠は、もとより疑ふべくもない。且また……正統記が 後村上天皇に進献し奉つたものであり、大記が八条宮にたてまつつたものである事を思へば、此の不諱の直言は、実に御諌として考へなければならないのであり、従つて之を普通民衆を対衆として述作せられたる書物として考ふべきではなく、後に民間に流伝するに至つたにしても、本来の性質を考慮して読むべきものであり、それを考慮する事なくして、直ちに之を不敬の書とし、忌憚なき文として、非難するは、当らずといはなければならぬ」