「日本人」カテゴリーアーカイブ

山県大弐を称揚した久坂玄瑞

 久坂玄瑞は『俟采擇録』において、山県大弐についてこう述べている
「明和四年丁亥八月某日、山縣大貳節に死す。山縣嘗て柳子新論十三篇を著す。帷に永澤町に下し、徒を集めて兵を講じ、天朝を尊みて覇者を抑ふ。其志寔にあわれむべし。竟に幕府之を判じ、不敬の至り斬に處す。ああ高山仲縄・蒲生君平よりさきに既にこの人あり。今を距ること殆んど一百年、而して湮滅して顕れざる者、學者多くは罪を懼れ、死を愛顧し、敢て争はざるのみ、敢て言はざるのみ。」

稲村公望「マハティールに見捨てられる日本」英訳

以下は、『月刊日本』2013年4月号に掲載された稲村公望先生のインタビュー記事「マハティールに見捨てられる日本」の全文英訳です。

The Japan That Dr. Mahathir Abandoned (?!)

INAMURA Kobo, Visiting Professor, Graduate School, Chuo University

(This is an excerpt from the April 2013 issue of Gekkan Nippon magazine.)

 

Japan, once the up-and-coming star for the countries of Asia

 

NIPPON: As someone who has struggled against neoliberalism, why is it that you have long taken note of the things that former Malaysian Prime Minister Dr. Mahathir has to say?

 

INAMURA: It’s because Dr. Mahathir’s words have included a strong message that can make we Japanese remember something important that we ourselves have forgotten.

Japanese society westernized after the war, and neoliberalism took hold with the end of the Cold War. As a result, the culture and civilization that the Japanese people themselves developed, along with the shape of the country supported by them, has been disappearing. Dr. Mahathir constantly offered words of encouragement: “Japanese, take pride in Japan’s traditional values!” “Use the power of Japanese civilization to develop the world!”

If I could speak without fear of being misunderstood, I would say that at one time Japan was like the big brother on which Malaysia could depend. In their younger days, it was a splendid older brother, and the younger brother learned many things. Once the older brother got his own household, however, he strayed from the path. His family didn’t have the power to stop it. The younger brother frantically cried out, “Brother, open your eyes!” The older brother should have quickly taken note of his younger brother’s strenuous cries.

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晩年の満川亀太郎─惟神顕修会での修業

 北一輝、大川周明とともに猶存社三尊と呼ばれた満川亀太郎は、日本精神の把握を目指し、不断の努力を重ねた。猶存社解散後の大正13年秋には、民族派の同志、渥美勝、田尻隼人、澤田五郎や出雲大社教の千家尊建らとともに「聖日本学会」を結成していた。「日本精神を研究し、体現し、煥発し、以て神聖なる天壌無窮の皇謨、荘厳なる天業の恢弘を扶翼する」のが目的であった。ただ、同会の運営は軌道に乗らず、昭和3年11月には渥美が死去、やがてその精神は昭和8年2月に、大森曹玄、西郷隆秀らの直心道場に引き継がれた。満川は、再び聖日本学会の精神を再興すべく、昭和10年9月、自ら理事長となって惟神顕修会を旗揚げした。その趣旨を次のように謳った。
「……茲に相胥りて惟神顕修会を起し、広く天下同憂の士と相提携し、身心を清浄にして神前に跪坐し、神明に冥合し、以て皇国遠大の雄飛を庶幾せんとす。/吾人の念願は身を修むるに在り、魂を磨くに在り、惟神の路を践行し且之を弘宣するに在り」
惟神顕修会には、千家尊建、田尻隼人、澤田五郎、大森曹玄ら「聖日本学会」の同志のほか、雑賀博愛、鹿子木員信、草鹿龍之介らが参加し、顧問には、靖国神社宮司の賀茂百樹と、白川家第三十代の雅寿王の曾孫にあたる第33代白川資長子爵が就いた。 続きを読む 晩年の満川亀太郎─惟神顕修会での修業

岩崎行親の国体詩

 大正10年8月に、岩崎行親が夫婦で伊勢神宮に参拝したのをきっかけに、国体の真髄を詩にしようとして成ったのが、国体詩である。後に、北海道で林務官を務めていた塩沢健が、この国体詩に注目し、眼目の部分を抜粋して、吟詠に都合良く、もともと五六句からなる国体詩を二四句に省略して、以下の「国体篇」とした。

 

邈兮二千六百秋 (邈たり二千六百秋)
日東肇国基神籌 (日東国を肇る、神籌に基く)
国体之優風土美 (国体の優、風土の美)
宇内万邦無匹儔 (宇内万邦、匹儔無し)
豊葦原之瑞穂国 (豊葦原之瑞穂国は)
是我子孫君臨域 (是れ我子孫の君たるべき域なり)
行兮爾就而治之 (行兮爾、就てを之を治めせ)
寳祚天壌無窮極 (寳祚は天壌と共に窮極無からん)
神訓炳乎如日星 (神訓炳乎として日星の如し)
施之万世民心寧 (之を万世に施して民心寧し)
三種神器教君道 (三種の神器、君道を教ふ)
伝之無窮帝徳馨 (之を無窮に伝へて帝徳馨し)
我皇神孫無姓氏 (我皇神孫姓氏無し)
日本為家君父比 (日本を家と為し君を父に比す)
億兆斉仰一家君 (億兆斉しく仰ぐ一家の君)
義乃君臣情父子 (義は乃ち君臣情は父子)
欲孝親者須忠君 (親に孝ならん欲する者は須く君に忠なるべし)
欲愛国者須愛君 (国に愛せんと欲する者は須く君を尊ぶべし)
忠孝一致君国一 (忠孝一致君国一なり)
我国憲法存古文 (我国憲法古文を存す)
嗚呼美哉日東君子国 (嗚呼美なる哉日東君子国)
上下同心一其徳 (上下心を同じうして其徳一にす)
嗚呼優哉万世一系君 (嗚呼優なる哉万世一系の君)
列聖相承垂功勲 (列聖相承けて功勲を垂る)

門下の山田準は、「実に先生の赤心と覚悟とが茲に表はれ誠に荘重に且つ国体の要領が此程よく歌はれてゐる詩は殆ど珍しいものであります」と書いている。

自治指導部佈告第壱号

昭和6年11月1日、満洲では、笠木良明らの大理想に基づいて自治指導部が発足した。しかし、満州国建国後、自治指導部は資政局となり、翌昭和7年7月には解散に追い込まれた。笠木の理想は完遂されることなく頓挫したのだった。
 笠木の理想は、自ら起草した「自治指導部佈告第壱号」に明確に示されていた。

 〈自治指導部ノ真精神ハ天日ノ下ニ過去一切ノ苛政、誤解、迷想、紛糾等ヲ掃蕩シ竭シテ極楽土ノ建立ヲ志スニ在リ。茲ニ盗吏アルヘカラス、民心ノ離叛又ハ反感不信等固ヨリ在ラシムヘカラス。住民ノ何国人タルヲ問ハス胸奥ノ大慈悲心ヲ煥発セシメテ信義ヲ重ンシ共敬相愛以テ此ノ画時代的天業ヲ完成スヘク至誠事ニ当ルノ襟懐ト覚悟アルヘシ。
謂フ所ノ亜細亜不安ハ軈テ東亜ノ光トナリ、全世界ヲ光被シ全人類間ニ真誠ノ大調和ヲ齎ラスヘキ瑞兆ナリ。此処大乗相応ノ地ニ史上未タ見サル理想境ヲ創建スヘク全努力ヲ傾クルハ、即チ興亜ノ大濤トナリテ人種的偏見ヲ是正シ、中外ニ悖ラサル世界正義ノ確立ヲ目指ス。
既ニ三千万人民ノ吸血鬼ハ倒ル、更ニ進一歩シテ盗匪ノ影ヲ没セシメ暴政ノ残党者ヲ排除シ悪税ヲ廃止シ贈収賄ノ悪習ヲ打破シ産業交通ノ暢達ヲ画シ教育宗教ヲ振興スル等、一々公明正大裡ニ運営セサルヘカラス。
指導部ハ前途幾重ノ難関ヲ前ニ大理想ノ実行者トシテ無我ノ一道ヲ邁進ス。大眼目ハ善政ノ実施ニ在リト雖モ憔燥ハ避ヘシ。古来ノ制度及地方的事情等ヲ能ク究メ、風俗人情ヲ尊重シ、革ムヘキハ革メ存スヘキハ存ス、仁風匝地民心ノ帰投火ヲ賭ルヨリモ明カナリ。本部ヨリ漸時各県ニ指導員ヲ派シ善政ヲ行フ、県民ハ安ンシテ其ノ指導ヲ受クヘシ。茲ニ布告ス。〉