晩年の満川亀太郎─惟神顕修会での修業

 北一輝、大川周明とともに猶存社三尊と呼ばれた満川亀太郎は、日本精神の把握を目指し、不断の努力を重ねた。猶存社解散後の大正13年秋には、民族派の同志、渥美勝、田尻隼人、澤田五郎や出雲大社教の千家尊建らとともに「聖日本学会」を結成していた。「日本精神を研究し、体現し、煥発し、以て神聖なる天壌無窮の皇謨、荘厳なる天業の恢弘を扶翼する」のが目的であった。ただ、同会の運営は軌道に乗らず、昭和3年11月には渥美が死去、やがてその精神は昭和8年2月に、大森曹玄、西郷隆秀らの直心道場に引き継がれた。満川は、再び聖日本学会の精神を再興すべく、昭和10年9月、自ら理事長となって惟神顕修会を旗揚げした。その趣旨を次のように謳った。
「……茲に相胥りて惟神顕修会を起し、広く天下同憂の士と相提携し、身心を清浄にして神前に跪坐し、神明に冥合し、以て皇国遠大の雄飛を庶幾せんとす。/吾人の念願は身を修むるに在り、魂を磨くに在り、惟神の路を践行し且之を弘宣するに在り」
惟神顕修会には、千家尊建、田尻隼人、澤田五郎、大森曹玄ら「聖日本学会」の同志のほか、雑賀博愛、鹿子木員信、草鹿龍之介らが参加し、顧問には、靖国神社宮司の賀茂百樹と、白川家第三十代の雅寿王の曾孫にあたる第33代白川資長子爵が就いた。
注目すべきは、満川が教学・研究とともに、古来から実修され、伝承されてきた行法を模範とした「調息靖魂」の行を精修密錬すると宣言し、白川子爵の指導によって修行へと没入していったことである。だが、昭和11年5月3日、突然脳溢血で倒れ、12日に死去する。享年48歳であった。
ジャーナリストとして出発し、大学などで教鞭をとった満川は、理性の人であり、どちらかと言えば学者肌の人間だったように見える。しかし、修行に没入した最晩年の行動は、彼が意思の人であったことを示してはいないか。「興亜のためにまず日本を変える。日本を変えるために、自らを根本的に変える」。それが、国体の把握を目指した修行への没入に込められた満川の思いだったのだろう。


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