2009年6月の鳩山由紀夫政権誕生に狼狽し、安倍政権によって日本を一気に親米に巻き戻そうとしているアメリカは、かつて1956年12月の石橋湛山政権誕生に狼狽し、岸信介政権によって日本を一気に親米に巻き戻した。
対米自立勢力の台頭を防ぐことが、一貫して米国の対日政策の最重要課題である。
日本の主権回復を控えて、米国が最も懸念していたことは、日本の民族派勢力が対米自立路線を強めることだった。1949年に採択されたアメリカ国家安全保障会議(NSC)文書48-1は、「極右勢力は長期的にみてアメリカの利益にならない」と明記していた。
GHQ参謀第2部(G2)のチャールズ・ウィロビー少将が組織したキャノン機関の工作目的も、日本の政治家、右翼が対米自立の方向に進むことを阻止することにあった。活発な工作が展開されたにもかかわらず、対米自立志向は続いていた。
1956年12月首相に就いた石橋湛山は、「アメリカのいうことをハイハイきいていることは、日米両国のためによくない。アメリカと提携するが、向米一辺倒になることではない」とはっきりと語った。これに対して、在ワシントン・イギリス大使館のド・ラメア公使は、イギリス外務省極東部への秘密報告書(1956年12月31日付)で、次のように書いている。
「アメリカは石橋の総理就任に疑いなく狼狽している。……アメリカは岸(岸信介)に投資しつづけてきており、岸が石橋内閣の外相として石橋にブレーキをかけることになお望みを託している。彼らは結局、岸が石橋の後を継ぐよう望んでおり、パーソンズ(アメリカ国務省のハワード・パーソンズ北東アジア局長)自身、『我々にツキがあれば石橋は長くつづかないかも知れない』と私に語った」
実際、アメリカにツキはあった。1957年2月23日、石橋は病気によって総辞職、対米自立外交は頓挫した。そして、石橋に代わって政権に就いたのが岸信介であった。彼は、親米反中の姿勢を固め、民族主義・興亜主義を反共アジア諸国の連帯の方向に誘導しようとしていたかに見える。1957年10月、日米安保条約改定のための交渉がスタートし、1960年1月岸は新安保条約に調印、5月には強行採決によって条約可決に持ち込んだ。
この間、アメリカは岸政権を徹底的に支援し、親米反共路線を確立させることに全力を注いだ。民族主義を親米反共に誘導し、離米・興亜主義的志向を抑えにかかるという意図を持っていたのである。1958年初頭、アイゼンハワー大統領はCIAに対し、岸首相、佐藤栄作自民党総務会長らに、年間総額1千万ドルの秘密選挙資金を提供することを認めていた(米アリゾナ大学のマイケル・シェラー教授の指摘)。
また、1960年1月に民社党が設立される過程で、CIAマネーが社会党右派に流れていた(『共同通信』2006年7月19日)。
安保で揺れた1960年、毛呂清輝は、次のように書いている。
「客観的には、今日、民族運動というものは新しい形で発生する条件が相当成熟していると思います。 その条件を巧に逆用しているのが左翼陣営だと思うんです。占領中、真先きに〃民族独立〃を唱えたのは、共産党だつたし、最近だつて〃愛国と正義〃という立場を彼等は使つているわけです。そして逆に岸さんや、保守党を〃売国奴〃と呼ぶことによつて純真な青年や学生を引つけているわけです。いつか、『新日本』の阿部源基氏(元警視総監)が昔は〃革新陣営〃といえば、〃愛国陣営のことを指した〃と云つていましたが今の愛国団体は、共産党のいう〃売国政党〃の院外団みたいな立場におかれて、一つの自主的立場を失つているように思うのです」