「本居宣長」カテゴリーアーカイブ

尾張藩の本居国学①─三鬼清一郎編『愛知県の歴史』

 尾張藩の本居国学①─三鬼清一郎編『愛知県の歴史』(山川出版社)には、尾張藩への本居国学の浸透について、以下のように書かれている。
 〈明和の初めごろ名古屋に移住し、安永初期に桜天神で国学塾を開いた田中道麿は、安永六年ごろ松坂の宣長を訪ね問答をし、以後おたがいに文通を行い学問的交友を深めた。道麿は名古屋では、古体を旨とした詠歌法、古語の究明、物語・日記・歌集などの講義を行い約三〇〇人の門人がいたという。安永九年に道麿は宣長より年長であったが、その門人となり、自分の代表的門人一七人を手紙で紹介している。それによれば町奉行所や国奉行所の役人や名古屋の商人、僧侶、医師らが道麿の主たる門人層であった。天明四(一七八四)年に道麿が死去すると、道麿門下から同年に大館高門(おおだてたかかど)(海東郡木田村豪農)、翌天明五年に横井千秋(尾張藩士七〇〇石)らが順次宣長に入門し、寛政元(一七八九)年に千秋が『古事記伝』などの出版にかかわって宣長を名古屋に招くと、道麿門下の多くや、その周辺の大びとが宣長に入門するのである。名古屋を中心とした尾張地域の宣長門人は、寛政期(一七八九~一八〇一)をつうじて増加し、宣長が死去する享和元(一八〇一)年までに、約九〇人を数え、宣長の出身地伊勢をのぞくと、もっとも大きな宣長学の拠点となるのである。
 このうち、横井千秋は、宣長の国学を政治の面で活用しようと考えた。天明期の尾張藩は、国用人・国奉行の人見璣邑(きゆう)が九代藩主宗睦の信任のもとに藩政改革を主導し、細井平洲を招聘し藩内教化を急いでいた。璣邑は幕府儒者人見美在の次男で荻生徂徠の『政談』などの影響をうけ、都市の奢侈を抑え、農本主義的な産業基盤の整備を政策基調としていた。平洲は新設藩校明倫堂を拠点とし、廻村講話を行い、璣邑の施策を側面からささえた。千秋は、この急激な改革政治に対して批判的な立場をとり、天明七年に国学的改革論『白真弓(しろまゆみ)』をあらわす。千秋は宣長の「漢意」批判を政治に適用し、璣邑・平洲の儒学的改革論を「漢意」として否定し、自身は「漢意」を加えない「自然」と「自然の真心」の政治を対置した。そして、朝廷の地位の向上、将軍の伊勢参拝と天皇への謁見など朝幕関係の再編を主張した。千秋はこの構想を実現するためには、本居宣長を尾張藩に招聘することが重要と『白真弓』を結んでいる。宣長の尾張藩招聘は璣邑らの反対で実現することはなかった。千秋や宣長死後も尾張地域の国学は、本居大平や春庭らの門人によって、和歌や国語学の面でいっそう拡大していく。こうしたなかで、学問としての最大の成果は鈴木朖(あきら)の研究である。朖は、徂徠学派の町儒者であったが、寛政四年、宣長に入門し、国語学の面を継承発展させ、『言語四種論』『活語断続譜』などをあらわした。朖は尾張藩儒者からのちに明倫堂教授並となり、天保期にはじめて明倫堂で国学を講じた。朖の研究は名古屋の古代研究の蓄積と、国学的研究を融合させた、名古屋学の峰をきずいたものであった〉

「儒教を排することはわが神道を矮小化することである」─本居宣長 vs. 藤田東湖

 「現在も続く直毘霊論争」(『月刊日本』平成26年1月号)で、本居宣長に対する会沢正志斎の反論を取り上げたが、藤田東湖もまた正面から宣長を批判し、「儒教を排することはすなわちわが神道を矮小化することである」と言い切っている。
 以下は東湖の『弘道館記述義 巻の下』の一節である。

 〈…最近、古代の学問を唱えるものがあって、「仏教はすべて因果で説明し、儒教は天命によってすべてを解釈する。仏教の弊害は儒者がたくみに批判するけれども、儒教の間違いは世間にまだ説明するものがいない」(宣長『直毘霊』)などというものがある。このような人は口を極めて儒教を罵倒し、仁義の徳などというのは後世の法律命令のようなものであり、舜・禹は王莽か曹操と同じような簒奪者であるとなし、「人間の欲望もまた人間の道である」とか、「天命というのは簒奪を合理化する口実である」(同)などといっている。もし、わが国の神道があたかも氷と炭のように儒教とまったく相反するものである、とするならばそういってもいい。しかしもし、わが国の道と儒教が同じ気から生じた花と実のように共通したものであるとするならば、儒教を排することはすなわちわが神道を矮小化することである。そればかりでなく、忠孝仁義という実質は天地はじまって以来、人類の生れつきに備えたところのものである。思うに古代研究を唱える者たちは、俗流の儒者たちの説くところを先王の道と思いこんでいるのだから、なお許すべき点がある。しかし俗流儒者を罵倒するとともに、周公・孔子の真の教えをも抹殺しようとするのは、食物が喉につまって苦しみむせぶのを聞いて、自分も食うことをやめてしまうのと同じである。非常な誤りというほかはない。わが斉昭公は、この点を心配あそばされ、建御雷神を祭って斯の道の由来を明らかにしたまうとともに、あわせて孔子の廟を造営され、斯の道がますます大きく、かつ明らかとなったのは、何によるかというその根本に対して敬意を表したもうたのである。実に完璧な御配慮というべきである〉

『夜明け前』と平田国学

国学派ネットワークの情報拠点・中津川
 明治維新に至る尊皇攘夷運動における国学の影響を考える上で、島崎藤村晩年の大作『夜明け前』は重要な資料となる。二部からなる同書は、ペリー来航の嘉永六(一八五三)年前後から明治十九(一八八六)年に至る激動の時代を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公青山半蔵の生涯を描いた作品である。半蔵のモデルとなったのが、藤村の父正樹だ。
 馬籠で本陣・問屋・庄屋を代々の家業としてきた家に生まれ、その家業を継いだ半蔵は、平田派の国学に傾倒して王政復古を願った。しかし、明治維新は彼が描いたものとは別のものとなっていく。絶望した半蔵はついに狂い、座敷牢に生涯を終えた。 続きを読む 『夜明け前』と平田国学

国学と水戸学の関係

 維新の原動力となった国学と水戸学。両者は対立しつつも、相互補完的な関係にあった。この論点に言及した、『月刊日本』平成26年1月号に掲載した「現在も続く直毘霊論争」の一部を紹介する。
 〈本居宣長は、強いて神の道を行おうとすると、かえって「神の御所為」に背くことになると主張していました。『玉勝間』においては、中国の古書はひたすら教誡だけをうるさく言うが、人は教えによって善くなるものではないと書いています。これに対して、水戸学の会沢正志斎は次のように批判しました。
 「仁政の要を知らざれば、人の上たること能はず、臣として君徳を輔佐すること能はず、義を知らざれば、元弘、延元の世の如きにも、去就を誤る類のものあり。礼を知らざれば君に事へ、人に交るに敬簡の宜を得ず、譲を教へざれば争心消せず、孝悌、忠信を教へざれば、父母に事へ、人と交て不情の事多し。多人の中には自然の善人もあれども、衆人は一様ならず、教は衆人を善に導く為に施す也」 続きを読む 国学と水戸学の関係

平田篤胤のアジア統一思想─藤田徳太郎『本居宣長と平田篤胤』

 藤田徳太郎は昭和18年に刊行した『本居宣長と平田篤胤』(丸岡出版社)において、以下のように、興亜思想の文脈で平田篤胤の思想を捉えた。
「篤胤のすべての研究が、一つの目的に集中せられてゐるのを見るとき、わが国を指導的位置において、アジアの文化圏を構築する、雄大な世界観の構想が、初めて了解せられるのである。実に、アジア統一の思想は、篤胤の学問の根幹をなすところ、この壮大な意図が、篤胤の尨大なる著書を一貫して、烈々たる気魄のもとに、展開せられてゐるのである。大扶桑国考にはアジアの地図が挿入してあるが、この支那、南方諸国を含む地図の中に、わが国を中心とする大扶桑国の全貌が盛られてゐるのである。大扶桑国は、取りも直さず大アジア統一化の理想の表現に他ならない」

村岡典嗣「垂加神道の根本義と本居への関係」(大正14年)

 『本居宣長』を著した村岡典嗣は、大正十四年に「垂加神道の根本義と本居への関係」と題して次のように書いている。
 「……文献学を離れて神道一途について見ると、本居のその方面の言説や思想や態度には、垂加神道と多少の類似や共通が認められる。まづその神道信仰の要素であった、神代伝説中の神々や神々の行動の記事に対する解釈を見ると、記紀その主としたところは異ったが、例へば造化神を人体神と見る事、二神の国生みをさながらに事実と見る事、天照大神を日神にして同時に皇祖神と見ること等、いづれも相同じい。而して、かくの如きは、概ね神典の記事に対する信仰的態度の自然の結果と考へられるが、而もその態度の源である神道信仰の宗教的情操そのものに於いて、両者頗る相通ずるものがある。本居は儒教神道を攻撃するとて、体ある神を尊み畏れないで、天を尊み畏れ、高天原を帝都で天でないとし、天照大神を太陽でないとし、神代の事をすべて寓言として説かうとし、又不思議の存在を知らないですべて理論を以て説かうとする類ひを、漢意として挙げて攻撃したが、これらはいづれも、新井白石等の史学派の神典解釈や、熊沢蕃山等の寓意的解釈や、更にまた多少とも惟足や延佳の説にも当るが、ひとり垂加神道の説に対しては、そのいづれも当らぬ。神を人体とし、高天原を一方に天上と解し、天照大神を太陽とし、神代紀の記事を事実と見、又不可思議の存在を認める等、いづれも宣長と同じく、垂加神道に見た所である。斯く考へてくると、垂加神道から、儒意即ち太極図説的哲学を除去したもの、やがて本居の神道であるとも考へ得る如くである」
続きを読む 村岡典嗣「垂加神道の根本義と本居への関係」(大正14年)

里見岸雄『国体論史 上』読書ノート①

里見岸雄は『国体論史 上』において、近世の国体論を通観して次のように書いている。
「……江戸時代の国体論は、必ずしもひとり国学派にその発達の頂点を見るべきものではない。それは大体、江戸時代前期に於ける御用儒学中心の国体論、中期に於ける国学の拾頭、後期に於ける水戸学的実践と次第したものと思ふが、国学派と水戸学派とは、学問的方法論に於て対立し、或る意味では氷炭相容れざるが如き論難攻撃をすら相互に応酬したが、そして、水戸学の採用した儒教的方法が、国学派から曰はせれば、不純なものであり未だ真乎国体に徹せざるものとして斥けられはしたが、然かもその水戸学から、大義名分王覇の峻別は絶叫し出され、封建社会の矛盾の激化と伴うて革新的、戦闘的、実践的国体論が指頭し来り、幕末に到っては更に国際的新情勢の附加に伴ふ攘夷論と結びついて、つひに、国体論は、観念的信仰的陶酔、机上的書斎的学問から一躍、政治的、実践的性格を獲得して、維新の精神的推進力となったのである。 続きを読む 里見岸雄『国体論史 上』読書ノート①