「日本の真価」カテゴリーアーカイブ

『副島種臣先生小伝』を読む①─国体と自由民権

副島種臣

 国体を基軸に置く自由民権派の事例としては、例えば福井で「自郷社」を旗揚げした杉田定一の例が挙げられる。杉田は三国町・滝谷寺の住職道雅上人に尊皇攘夷の思想を学び、崎門学派の吉田東篁から忠君愛国の大義を学んだ。興亜陣営の中核を担った玄洋社の前身「向陽社」もまた、自由民権運動として出発している。
 副島種臣の民選議院建白にも、国体派の民権思想として注目する必要がある。副島種臣先生顕彰会『副島種臣先生小伝』昭和11年は以下のように述べている。
 〈明治七年一月十八日、先生は板垣後藤等と共に民選議院の建白書を提出した。これはもと英国から帰朝した古澤滋が英文で書いたのを日本文に訳したもので、君主専制を難ずるのが眼目であつた。先生は之を見て『抑も我輩が勤王運動をやつたのは何の為か。君主専制に何の不可があるか。』と言つた。板坦等が『それではそこを書き直すから同意して呉れ。』といふので、先生は「宜しい。有司専制と改めれば同意する。有司専制の弊を改める為に議院を作るに異議は無い。」といつて連署に加はつた。そして他にも大分文章に手を入れた。署名は先生を筆頭に、後藤・板垣・江藤其他四名になつて居る。
 右の建白が採用されて、明治十四年十月、国会開設の大詔が渙発されたのに対し明治十六年七月、先生は三条太政大臣宛に口上執奏方を請うた。その覚書の中に「神武復古との御名言に背かせられず、尚御誓文中皇威を海外まで輝すこと御実践の儀懇望に堪へず」などいふ文句がある。即ち先生の思想は純然たる日本精神的立憲主義である〉

天野信景『塩尻』の中の尾張氏

天野信景『塩尻』(帝国書院、明治40年)

 尾張藩国体思想の発展を支えた天野信景は随筆『塩尻』において、尾張氏について言及していた。

 例えば、「尾張氏は天孫火明尊(ほあかりのみこと)の御子天香山命(あめのかぐやまのみこと)の後胤小豊命(おとよのみこと)の裔也。朝家に仕へて尾張の国造となれり。且代々熱田の祠を奉す。孝徳天皇御宇尾張宿禰忠命御神を今の宮所にうつし奉る」と書いている。また、尾張連については以下のように書いている。

 「尾張連は天香山命の孫小豊命の子建稲種命より出、旧事記及び姓氏録に詳也。亦甚目連公(はだめのむらじのきみ)と同じ流れにや。清和帝貞観六年六月八日尾張国海部の人治部少輔従六位の上、甚目連公宗氏尾張の医師従六位上、甚目連公冬雄等同族十六人に姓を高尾張の宿禰と賜はりしよし。三代実録九に見えたり」

 ちなみに、愛知県あま市には甚目寺がある。その東門前に漆部神社が鎮座している。同神社の祭神である三見宿祢命は漆部連の祖であり、『旧事本紀』天孫本紀によると、宇摩志麻治命の四世孫で、出雲醜大臣命の子。甚目連公もまたその一族とされる。

尾張氏と皇室

 『日本書紀』によると、尾張氏の祖は天照国照彦天火明(あめのほあかり)命であり、その子の天香語山(あめのかごやま)命とともに、紀伊の熊野に移り、神武東征に大功を立てたとされる。
 尾張氏は天皇家の外戚として力を振るっていた。尾張連祖瀛津世襲(おきつよそ)の妹である世襲足媛(古事記では余曾多本毘売(よそたほびめ)命)は、第五代・孝昭天皇の皇后である。その子は、第6代・孝安天皇である。また、尾張連祖の尾張大海(おわりのおおしあま)媛(古事記では意富阿麻比売(オオアマヒメ))は、第十代・崇神天皇の皇后である。
 その子孫の乎止支(かしき)命は、後に尾張大印岐(おわりおおいき)の娘・真敷刀婢(ましきのとべ)を娶り、尾張国造に任命されて、尾張連と称した。
 その子である建稲種命は、日本武尊の東征に副将軍として随行し軍功を上げている。また、その妹の宮簀媛(古事記では美夜受比売)は日本武尊の妃となっている。そのときに預かった草薙剣を奉納して建てたのが、熱田社(熱田神宮)だとされている。
 ただし、史実として信憑性が高いのはこれ以後の歴史である。まず、尾張連草香の娘・目子媛が、第26代・継体天皇の皇后だという史実である。その第一子・勾大兄皇子は第27代・安閑天皇として、檜隈高田皇子は第28代・宣化天皇として即位された。安閑天皇二年五月には、尾張に間敷と入鹿の二つの屯倉が置かれている。

 さらに、壬申の乱では、尾張氏が大海人皇子を全面的に支援し、第40代・天武天皇の誕生に大きな功績を上げている。尾張大隅が大海人皇子に私宅を提供したとされる。『続日本紀』によると、大海人皇子が吉野宮を脱して関東に行った際、大隅は私邸を掃除して行宮に提供し、軍資を出して助けた。この行宮の場所がどこであったか、それを探究したのが、江戸期の国体思想家・河村秀根である。彼は『書紀集解』(「天渟中原瀛眞人天皇上」)において、行宮の場所が美濃国の野上(現・岐阜県不破郡関ヶ原野上)だと主張した。

『書紀集解』(「天渟中原瀛眞人天皇上」

『熱田本社末社神体尊命記集説』と尾張氏

 天野信景は、元禄六(一六九三)年に『熱田本社末社神体尊命記集説』を著している。同書は、まず熱田社人の著した『熱田本社末社神体尊命記』の記事を掲げ、これに対する関係文献の記事を掲げて、その論拠を示して考証を進めた上で、自説を述べている。当時、熱田社の事蹟は諸説紛糾して定まらず、古来の社伝と相違するものが多かったことが、背景にある。
 同書の特徴の一つは、社家尾張氏の古伝を重視している点にある。同書奥書によれば、信景は親戚関係にあり、懇意にしていた祝師田島仲頼から尾張氏の古伝を聞き、それに基づいて書き記している。
 同書に示された尾張氏系図略を以下に示す。

『熱田本社末社神体尊命記集説』掲載の尾張氏系図略

神道の百科全書をまとめた真野時綱

 神道の百科全書とも呼ばれる『古今神学類編』をまとめた真野時綱は、慶安元(一六四八)年、津島神社(津島牛頭天王社)の神官家太郎太夫家に生まれた。
 時綱は寛文三(一六六三)年、わずか十五歳で白川神祇伯家の門に入り、吉田神道で説く理法の一つ「十八神道」の伝授を受けている。京都に上ったのは、その二年後の寛文五年のことである。京都では、右大臣久我広通の兄(東愚公)の門に入った。ただ、時綱は当時未だ十七歳であり、基礎的学業が不足していたので一旦尾張に帰国し、名古屋東照宮の祠官を務めていた吉見直勝(幸和の祖父)の門に入り、神道国学を受けた。
 寛文八(一六六八)年、再度上京し、久我雅通に師事した。また、吉田神道派の卜部兼魚について神道国学を学んでいる。以来、天和二(一六八二)年に帰郷するまで、十四年間京都で学問を続けたのである。
 時綱は、若い頃から伊勢神宮の外宮祠官出口延佳にも師事していた。矢﨑浩之氏が指摘するように、延佳が元禄三(一六九〇)年正月に没すると、時綱はその半年後には『神代図解』を著して、先師顕彰の意を表明した。この『神代図解』は、延佳が明暦二(一六五六)に著した『神代之図』と、天和三(一六八三)年に著した『神代図鈔』を解説したものである。
 つまり、時綱は吉田神道と伊勢神道の両方を学んだということである。また、天野信景や松下見林とも交流していた。
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吉田神道と垂加神道

■吉田神道の力を強めた「諸社禰宜神主法度」
 徳川幕府においては、吉田神道の力が非常に強まった。大きな転機となったのが、幕府が寛文五(一六六五)年に発布した「諸社禰宜神主法度」である。
 この法度によって、吉田家が神職管掌の根幹と位置づけられ、官位のない社人は必ず白張のみを着用するものとし、狩衣や烏帽子などの着用には吉田家の許可が必要だと定められたのだ。
 近世において、吉田家は神職の家元(本所)として、吉田家と競合していたが、この法度によって、吉田家が地方の大小神社を組織化する上で極めて有利になった。しかし、出雲大社、阿蘇宮、熱田神社など地方大社で、この法度に対する反発が広がった。
 では、いかにして吉田神道はこうした特別の地位を得るに至ったのだろうか。吉田神道の大成者として知られるのが吉田兼倶である。彼は、永享七(一四三五)年に卜部兼名の子として誕生した。
 兼倶は卜部家の家職・家学を継承し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。応仁・文明の乱(一四六七~一四七七年)後の混乱時に、斎場所を京都吉田山に再建し、足利義政の妻日野富子や後土御門天皇(在位期間:一四六四~一五〇〇)の支持をとりつけた。
 また、兼倶は『神道大意』などが自身の家に伝えられたものだと主張したり、伊勢神宮のご神体が飛来したとするなどして、吉田神社の権威を高めたのである。堀込純一氏は以下のように指摘している。
 「神祇官伯家の白川家が衰退する戦国初期には、吉田兼倶が吉田神社に大元宮と称する独特の神殿を建て、ここにすべての天神地祇、全国三千余社の神々を勧請し、神祇管領長上などと自称して、神号・神位の授与や神官の補任裁許などを始めた」(堀込純一「藩制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑭」)
 「神号・神位の授与」は、宗源宣旨として確立された。宗源宣旨は、諸国の神社に位階、神号、神職に許状を授けるために吉田家から出された文書である。 続きを読む 吉田神道と垂加神道

垂加神道の「熱田之伝」

 垂加神道は、宝剣伝に附随して「熱田之伝」を説いた。
 尾張の国名と熱田社の土用殿とについて特殊の意義が込められているとの説である。『諸伝極秘之口授』には、以下のように書かれている。
 「尾張ハモト宝剣ノ御鎮座ニヨツテ付タ。則尾張ハ尾ノ針ト云コト。熱田ハ夏田ノ訓、此剣ノ納テアル御殿ヲ土用ノ御殿ト云。コレハナゼニナレバ、金気ヲ克スルモノハ火、ソレデ火剋金ヲ恐レタモノ。土用ノ御殿トイテモ火生土、土生金ト土カラ生ジサセル様ニト云コト。夏ハ火、田ハ土ユヘ熱田ガ夏ノ土用ト云コトニナル。則夏越祓、アレガ夏カラ秋ヘウツル処ノ火剋金ヲヽソレテ、スガヌキノ輪ヲコシラヘテ南カラ中ヘハイリテ、ソシテ西ヘヌケル。コレガ火生土、土生金ノ行ヒ。ソレデ人デモ金気ノトロケタ時、リント敬ムト気ガ立テクル。兎角金気ハ土カラデナケレバヲコラヌ」
 松本丘先生は、〈尾張の国号は大蛇の「尾ノ針」、即ち宝剣の鎮座に由来するものとし、それを奉祀する土用殿の語義も、五行説を用ゐつつ敬の根基となる金気に結び付けて解釈するものである〉と述べている。
 素戔嗚尊の帰善と宝剣の出現の解釈同様に、熱田之伝にもまた吉川神道の影響が窺えるが、松本先生が指摘するように、垂加神道においては、土用殿についても素尊の敬に引きつけて説かれており、より倫理的傾向を強めている。

素戔嗚尊の帰善に敬(つつしみ)を読み取る垂加神道

 素戔嗚尊は多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って岩屋に隠れ、世界は暗黒になった。神々は素戔嗚尊を高天原から追放した。出雲に降りた素戔嗚尊は、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫を救った。大蛇の尾から得たのが、天叢雲剣である。
 「素戔嗚尊が『清々之』の境地に至られたことと宝剣の出現とは深い関連がある」とする山崎闇斎の説は、忌部正通の神道説や吉田神道の説とも共通する。松本丘先生は、忌部正通の『神代巻口訣』に、「素戔鳴尊、悪極まりて髪を抜き手足の爪を抜きて以て贖ひ、逐はれて降り、悔改めて善心を発し、爰に天下の悪を止め大地を亡す。(中略)尊、悪行有りて善に帰す。故に剣を以て剣を出す。(原漢文)」とあることを指摘する。
 また、吉川惟足の『日本書紀聞書』にも以下のように書かれている。
 「土用の御殿めうき天下になし。此神剣に付て、土金の相伝ある也。素戔嗚尊の曰く、是あやしき剣也、吾私におけらんやうもなしとて、天照大神へ献上なされる。天照大神に上らるゝこと、御心の善に成玉ふしるし也」
 松本先生は、「闇斎は、惟足を通じて吉田家の説にも益を受け、宝剣説を語つてゐたものと考へられよう」「闇斎は先行の諸説を参考しつつ、素尊の神徳と神剣との関係を明確にし、それを神道説の奥秘の一つに据ゑたのであつた」と指摘している。
 そして、素戔嗚尊の帰善に「敬」(つつしみ)を読み取る点が、垂加神道の特色である。
 闇斎歿後十数年後に成ったと考えられる『諸伝極秘之口授』には、以下のように書かれている。
 「コヽノ伝ト云ハ至(レ)尾剣少缺ト云ガ伝ゾ。素戔嗚尊コレニヨツテ清々之徳ニナラレタコトガ此伝デ、宝剣ノイワレ云コトハナニモナイ。(中略)雨風ニ吹ウタレテ辛苦降矣トアル。辛苦ノ字ガ大事。ソコデフツト本心ガ出テアヽ我降テハ皇統ノ御子ノセンギスル者ガナイガト気ガ付テ天へ登テ皇統ノ吟味ノ有ト云ハ素尊ノ大ナル気質ノ変化ゾ。段々気質ガ練レタユヘ敬ノ功ヲモツタモノ。ソレユヘナニノ苦モナク大蛇ヲ退治ナサレ、既ニ大蛇ノ頭不(レ)残キラレタ。然シナガラ加様ナ岐蛇ジヤニヨツテ少ク残テ有テモ又何変モ知レヌユヘ寸々ニ斬タ。コレモ皆敬カラヲコツタコト。コレホドニ敬ノ工夫ヲ用ラレタニ一心安イ尾ニ至テ剣刄缺タ。ソコデ素戔嗚尊ノナニカサシヲイテサテモ敬ト云モノハ極リナイモノ。最早コレデヨイト云コトハ云レヌモノジヤト云処デトント敬ノ至極ヲ自得サセラレタ。コヽデマ一ヘンノ敬ヲ得ラレタ処デ遂ニ清々之ト云場ヘ至ラレタゾ」

「天皇を伊勢神宮の神主にして押し込めてしまえ」と語った天海

 江戸時代初期には天皇の地位が脅かされる危機にも直面していたようだ。『明治維新で変わらなかった日本の核心』(PHP新書)において、磯田道史氏は以下のように書いている。
 〈家康が天下人となった幕初の頃、勢いをかって、徳川家のなかで、「なぜ天皇を徳川幕府は必要とするのか」という議論になったことがあった。なかには家康の側近・天海のように、「『メイド・イン・徳川』の官位をつくれば、天皇は必要ない。伊勢神宮の神主にして押し込めてしまえ。そうすれば天皇をおかしなことに利用される危険もなくなる」という意見も出ます。
 これに対し、伊勢の藤堂高虎が、いやそれではいけない。やはり「天朝(天皇)の御羽翼(補佐)となってこそ、諸大名も屈服し、万民も将軍を仰ぐ」といって諌めたといいます。この話は江戸後期の藤堂藩の史料に出てくるので、真偽ははっきりしませんが、ありえることです〉

霊元天皇宣命─「国家静謐、万民和楽」を大神に祈願

 明治維新の本義を考察するとき、幕末以前から存在した尊皇論の展開を重視する必要がある。そして、徳川幕府初期の尊皇論の展開を考えるためには、幕府発足以来の朝廷と幕府の微妙な関係、特に大御心を発揮できない悲劇的な御境遇にあった後水尾天皇や霊元天皇への思いが決定的に重要と思われる。崎門学正統派の近藤啓吾先生は、『講学五十年』(平成二年)において、以下のように書いている。
 〈葺原や茂らば茂れおのがままとても道ある世とは思はず
  世の中はあしまの蟹のあしまどひ横にゆくこそ道のみちなれ
 右は後水尾上皇が徳川幕府の専横を憤り給ひて詠ぜられた御製である(拙稿『垂加神道樹立の苦悩』。『神道史研究』三五の三、参看)。その父天皇の御憤りを受けられ、朝威の振興を志された豪邁英鋭の天子、後光明天皇は御年二十二歳にて急に崩御になり、ついで立たれた御弟後西天皇は、幕府の強圧によつて御譲位の外なくなり、朝威振興の機なきままに、同じく後水尾天皇の御子である霊元天皇が御即位になるのである。
 霊元天皇は、即位せられた寛文三年には御年わずかに十歳にましましたから、御自身のことに叡慮を運らし給ふべくもなかつたが、やがて御成長されるにつれ、天皇としての強い御自覚を持たれるやうになられたことは、天和二年正月二十九日、(御年二十九歳)、伊勢神宮に献ぜられた宣命(その御宸筆の案、『宸翰英華』所収)に
 「朕、軽才薄徳の性を以て天日嗣を受伝へたる事は、誠に冥慮の広き御助けなるに、動もすれば輒ち安居を思ひて帝位を忝しめ、治天剰へ二十年に及べるは、偏へに是れ皇太神の深き御護り厚き御恤みに依りてなり。然るに世已に澆季に及びて、帝道爰に漸く衰へぬれば、本より神事の久しく絶えたるを継ぎぬる功も無く、且又朝政の已に廃れたるを興せる務も無きを、毎に恐み毎に愁ふる事になむ。」
 「神威ますます耀き、朝廷再び興り、宝祚の隆なること天壌と窮り無く、常磐堅磐に夜の守り日の守りに護幸給ひて、国家静謐、万民和楽、五体安穏、諸願円満に護り恤み給へと、恐み恐みも申して申さく。」
とあることによつて拝することができる。乃ち天皇は幕府の強い干渉抑圧のもとに「神事の久しく絶えたるを継ぎぬる功も無く、且又朝政の已に廃れたるを興せる務も無」しと深く餓悔せられながら、なほ不屈の御意志をもつて、「国家静謐、万民和楽」を、大神に祈願してをられるのである。右は霊元天皇の宣命であるが、実はこれ天皇御一人の祈願に止まるものでなく、御歴代天皇の御志であつたのである。その証拠には、皇室の衰微最も甚しかつたのは戦国時代末、後奈良天皇の御代であつて、紫宸殿の築地の破れから内侍所の灯火を望見せられたと伝へられるが、そのうちにあられて、天文十四年八月二十八日、伊勢大神宮に、天子の位に昇りながら
 「大嘗悠紀・主紀(主基)の神殿に、自ら神供を備ふること、其の節を遂げず。敢て怠れるにあらず。国の力の衰微を思ふ故なり。」
とその御苦衷を訴へられるとともに
 「急に威力を加へて、上下和睦し、民戸豊饒に、いよいよ宝祚長久に、所願速かに成就することを得しめて、神冥納受を垂れ給へと、恐み畏みも申す。」(後奈良天皇宸翰宣命案)
と祈願せられてゐることが挙げられる。まことに、朝政古に復し暴逆行はれず、万民その所を得て楽しむ世を作ることが、皇室の御目的であり御理想であつたのである。
 そしてその御目的、御理想を、霊元天皇の御製に、私共は明確に拝察申上げることができる。〉