吉田神道と垂加神道

■吉田神道の力を強めた「諸社禰宜神主法度」
 徳川幕府においては、吉田神道の力が非常に強まった。大きな転機となったのが、幕府が寛文五(一六六五)年に発布した「諸社禰宜神主法度」である。
 この法度によって、吉田家が神職管掌の根幹と位置づけられ、官位のない社人は必ず白張のみを着用するものとし、狩衣や烏帽子などの着用には吉田家の許可が必要だと定められたのだ。
 近世において、吉田家は神職の家元(本所)として、吉田家と競合していたが、この法度によって、吉田家が地方の大小神社を組織化する上で極めて有利になった。しかし、出雲大社、阿蘇宮、熱田神社など地方大社で、この法度に対する反発が広がった。
 では、いかにして吉田神道はこうした特別の地位を得るに至ったのだろうか。吉田神道の大成者として知られるのが吉田兼倶である。彼は、永享七(一四三五)年に卜部兼名の子として誕生した。
 兼倶は卜部家の家職・家学を継承し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。応仁・文明の乱(一四六七~一四七七年)後の混乱時に、斎場所を京都吉田山に再建し、足利義政の妻日野富子や後土御門天皇(在位期間:一四六四~一五〇〇)の支持をとりつけた。
 また、兼倶は『神道大意』などが自身の家に伝えられたものだと主張したり、伊勢神宮のご神体が飛来したとするなどして、吉田神社の権威を高めたのである。堀込純一氏は以下のように指摘している。
 「神祇官伯家の白川家が衰退する戦国初期には、吉田兼倶が吉田神社に大元宮と称する独特の神殿を建て、ここにすべての天神地祇、全国三千余社の神々を勧請し、神祇管領長上などと自称して、神号・神位の授与や神官の補任裁許などを始めた」(堀込純一「藩制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑭」)
 「神号・神位の授与」は、宗源宣旨として確立された。宗源宣旨は、諸国の神社に位階、神号、神職に許状を授けるために吉田家から出された文書である。

 宗源宣旨には、天皇の「綸旨」に使われる薄墨紙(宿紙)が用いられ、吉田家が祖先神天児屋命から伝承したという「神代正印」を捺印した(井上智勝『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』)。宗源宣旨が初めて出されたのは、兼倶時代の文明十四(一四八二)年である。
 松本久史氏は以下のように書いている。
〈 「宗源宣旨」は神社の御祭神に「正一位」の極官を授与し、「神道裁許状」は神職に狩衣・烏帽子着用を許可するのが主たる目的であるが、井上(智勝)氏はさらに文言の内容に踏み込んで、「宗源宣旨」のなかに「御嫌物」解除、「神道裁許状」の中にも神職の斎戒緩和条項等が盛り込まれ、ほかに神の怒りを宥めるための「鎮札」も発給されていることにも言及しており、近世の社会変動に伴う、神職をはじめ とした地域社会の要請に吉田家が応えうる「神使い」としての機能を指摘している〉

■神龍院梵舜
 兼倶の三男・清原宣賢の次男として永正十三(一五一六)年に誕生したのが、吉田兼右である。吉田家の当主兼満に男子がいなかったため、兼右が十三歳で吉田家を継いだ。兼右は、山口の大内義隆や越前の朝倉孝景らの戦国大名と親交を結び、しばしばその領国に下向して、祈祷や神道伝授を行った。
 兼右の長男が吉田兼見であり、二男が梵舜(ぼんしゅん)である。兼見は後陽成天皇時代の天正十八(一五九〇)年に、神祇官八神殿を吉田神社境内の斎場に再興する許しを得た。八神とは、神産日神(かみむすびのかみ)、神皇産霊神(たかみむすびのかみ)、玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)、足産日神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、御食津神(みけつかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)であり、古代から中世の間には神祇官西院に設けられていた。以後、吉田家が神祇官代として神祇官の祭祀の一部を代行することになった。
 一方、梵舜は、兼倶が吉田山に創建した寺院「神流院」の住職となった。「吉田家の次男は神龍院に入る」という習わしにしたがったものだ。
 慶長三(一五九八)年に豊臣秀吉が逝去すると、梵舜は兄兼見と共に豊国廟の創立に尽力、その社僧となった。しかし、慶長二十(一六一五)年の大坂の陣で豊臣家が滅びると、家康は豊国神社の破却を命じた。梵舜は豊国神社維持の為に東奔西走したが、破却の決定は覆らなかった。
 それでも梵舜は家康との関係を深めていた。慶長十(一六〇五)年には家康に命じられて徳川氏を新田源氏に繋げる系図捏造にも携わったとされている。
 元和二(一六一六)年、家康が死去すると、吉田神道主導で久能山に埋葬された。しかし、家康神格化において、吉田神道は主導権を失うのだ。梵舜の前に立ちはだかったのが、家康の側近だった天台僧・天海である。
 家康一周忌に際して、梵舜は「黒衣の宰相」とも称された臨済僧・崇伝とともに吉田神道による祭祀に則り、大明神として祀ることを主張した。ところが、天海が山王一実神道の祭りを強引に推進し,元和三(一六一七)年家康は東照大権現の神号に決定された。天海の言い分は、家康が生存中天台の山王一実神道を授けられ死後この神道の流儀でまつられるよう遺言したとするものだ。これを機に吉田神道の勢いに陰りが出て来た。

■特別の地位を得た吉川惟足
 この危機を救ったのが吉川惟足(これたり)(一六一六~一六九五年)である。
 惟足は、江戸日本橋の魚商・尼崎屋の養子となったが、商売に失敗し鎌倉に隠遁した。その後、学問を志し、承応二(一六五三)に上京、萩原兼従から吉田神道の奥義を伝授された。
 惟足の名声は広がり、紀伊藩主徳川頼宣、会津藩主保科正之ら諸大名の信任を獲得した。寛文七(一六六七)年には将軍徳川家綱に召された。家綱が「諸社禰宜神主法度」を発布したのは、その二年前の寛文五年である。
 天和二(一六八二)年、惟足は将軍徳川綱吉から幕府神道方を命ぜられた。以後、吉川家が神道方を世襲することとなった。では、幕府で特別の地位を築いた吉田神道と垂加神道はどのような関係だったのか。
 山崎闇斎は、寛文十一(一六七一)年八月、惟足から吉田神道の伝を受け、十一月には垂加霊社の霊号を受けている。つまり、闇斎は吉田神道の正統の継承者となったが、闇斎はそこにとどまってはいなかった。
 闇斎は、神籬磐境の伝を惟足から伝えられたが、そこに潜む問題点を看過しなかったのだ。惟足の子従長(つぐなが)が整理した『神籬磐境口訣』には、「君道は日の徳を以て心とす、日の徳を失う時は、天命に違えり、天命に違う時は、その位に立ち難し」と書かれていた。
 これはまさに易姓革命に通ずる思想であり、『拘幽操』の精神に適うものではない。ここで闇斎が立ち止まり、「神籬(日守木)は皇統守護の大道、磐境は堅固不壊の心法」との立場を固めたことは、歴史的な意味を持っている。近藤啓吾先生は、闇斎が惟足の限界を超えて、わが国の道義の本源への考究を進めたことに「闇斎の学問の面目があり、垂加神道の本義がある」と書いている。

■伊勢神道派・垂加神道派による吉田神道批判
 吉田神道に対する反撃を開始したのは、伊勢神道派である。井上智勝氏は『吉田神道の四百年―神と葵の近世史―』において、以下のように書いている。
 〈伊勢外宮の権禰宜、出口延佳(のぶよし)は兼倶を「神敵」と呼び、彼の行為を糾弾する『神敵吉田兼倶謀計記』を物していた。その子延経(のぶつね)もまたその思いを受け継ぎ、綿密な考証で吉田家を批判した『弁卜抄』を著した。その成立年は明らかでないが、元禄十一(一六九八)年から正徳二(一七一二)年の間である。これが吉田家の首に白刃を突きつけることになる。その内容は、衝撃的ですらある。
・吉田家は天児屋命とは無関係、つまり吉田家の系図は捏造されたものである。
・吉田家は、もともとは亀の甲羅を灼いて占いを行っていた神祇官の下級技術吏員である。
・吉田家やその先祖が神祇伯に就任したことは、過去に一度もない。
・「神祇管領長上」の職は、亀の甲羅を灼く技術者の長にヒントを得た吉田家の創作である。
・吉田家が活動根拠とする綸旨・院宣類はニセモノである。
・斎場所の由緒はウソである。
・宗源宣旨は神に位を授ける正規の文書ではない。〉
 『弁卜抄』を、より広く、よりわかりやすく伝える必要を感じ、『増益弁卜抄俗解』を著したのが、尾張崎門学派の吉見幸和である。

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