「皇道」カテゴリーアーカイブ

藤澤親雄の皇道政治論①

三権分立と「ツカサ」、「ミコトモチ」
戦前、皇道政治論を説いた藤澤親雄は、個人主義、自由主義の弊害を説くとともに、当時の政治制度に対して皇道の立場から独自の見解を示していた。
彼は、三権分立制度は決して天皇の御政治の分裂を意味するものではないと主張したのである(藤澤親雄『政治指導原理としての皇道』国民精神文化研究所、昭和十年三月、二十七頁)。彼によれば、わが国の三権分立は、欧米のように「権力的分立」や「権力的分割」ではなく、「機能的分立」だからである。
彼はこの「機能的分立」が、古代における「ツカサ」、「ミコトモチ」の思想と相通ずるとし、次のように書いた。 続きを読む 藤澤親雄の皇道政治論①

田辺宗英『宗教政治の提唱』(窓光社、昭和十二年)読書ノート

 皇道経済論を唱えた田辺宗英は、皇道政治論についても独自の考え方を発表していた。その一つが、昭和十二年に刊行された『宗教政治の提唱』である。同書「序」で、彼は次のように宣言する。
「この愛する日本を、覇業者や野望者の国のやうに、一時的の権勢栄華を貪つて、忽ちにして滅亡するやうな、相対有限の個人主義、利己主義の政治経済の上に置くことを、断じて肯んずることは出来ないのである。
故に吾々は、個人の生活を神の永遠の生命の上に置き、一国の政治を神の宝祚無窮の巌の上に置かんことを要望して、茲に宗教政治を提唱する」
田辺は、皇道政治の本質を「宗教政治」、「神聖政治」、「随神の政治」ととらえ、独自の表現で持論を展開した。まず彼は、政治の全てが神意に随はねばならないと説いた。政治は、神意の正しきが如くに正しく、神意の博大なる如くに博大に、神意の公明なるが如くに公明に、神意の仁愛なるが如くに行はれねばならないと(百十五頁)。
同書が刊行された昭和十二年当時の状況について、彼は覇業の政治、野望の政治、個人主義、利己主義の政治といった、教えに背いた政治が行われていると批判した。覇業政治の本質とは、私利我慾を根本とし、権勢利達を目的とする政治である。田辺はそうした政治の様相を次のように痛烈に批判した。 続きを読む 田辺宗英『宗教政治の提唱』(窓光社、昭和十二年)読書ノート

修験者・山本秀道の奉還思想

秘法「恵印三昧耶法」と精神障害治療
 大石凝真素美が36歳の時に弟子入りした修験者・山本秀道とは、一体いかなる人物だったのか。
 秀道は、文政10(1827)年2月16日に美濃国不破郡宮代村で正寿院秀道として生まれた。山本家は、江戸時代までは鉄塔山天上寺と称し、南宮山の一画に坊を構え、院号を正順院または正寿院と号する醍醐三法院に連なる修験の家であった。修験道は、寛政11(1799)年に光格天皇より「神変大菩薩」の諡号を受けた役行者、役小角(えんのおづの)を開祖とする。伝説によると、役小角は摂津国の箕面山の大滝で、インドの僧ナーガールジュナ(龍樹菩薩)の「大いなる法」を授けられたという。
 役小角入滅後、醍醐寺開山の聖宝・理源大師(832~909年)が、大峰山を巡歴し、霊的相承によって役小角の秘法を受け、醍醐派修験道の秘法として後世に継承したとされている。この秘法は「恵印三昧耶法」(「恵印法流」)と呼ばれ、7段階の修法によって構成されている。
 父正寿院秀詮は、83歳にして弟子数十名を率いて寒中の養老の滝に浴する事30日という強の人であった。彼は、「狂人を祈祷し至当乃道理を説得して其親祖兄弟姉妹親戚に至るまでを感伏せしめて前非を改良し将来を慎ましむ全快を得る者千有余人」と伝えられた。彼は、「山本救護所」の名称で加持祈祷による精神障害者収容施設を運営していたのである。
 「伝統治療の豊かさと危うさ:滝、祈祷、温泉、迷信」もまた、「山本救護所」に注目している。梅村貞子氏によると、秀詮が精神病治療に用いたのは、修験道の中心的修法である「加持祈祷」と、山本家内の複雑な対人関係から生み出された家族調整の手段としての「説得」であった。

 しかし、神仏分離令によって神仏習合の色合いが強い修験道は変容を迫られた。明治3(1870)年6月、鉄塔山天上寺は廃寺となり、山本家の宗教的基盤も修験道から神道へと移った。この結果、「山本救護所」の精神病治療も加持祈祷から生活上の実践へと変化した(梅村貞子「精神障害者収容施設山本救護所の歴史」『郷土研究岐阜』1976年12月、13~17頁)。
 大石凝真素美は慶応末年に秀道に弟子入りし、俵佐村の勝宮(勝神社)で、鎮魂帰神法を実践していたとされる。山本白鳥氏は、大石凝の天津金木学は秀道との霊的な共同作業として、神人合一によって成就されたと指摘している。この作業には、太玉大観と名乗る木村一助が参加していたが、途中で木村が脱落したことで、「神業」は全体として未完に終わったという(山本白鳥「大石凝翁ゆかりの地を訪ねて」(大石凝真素美全集刊行会『大石凝真素美全集 解説編』1981年)、84頁)。
 さて、秀道の思想として注目すべきは、その奉還思想である。彼は、明治17(1884)年12月、「我が所有の地所はじめ金銀財貨の類残らず大君へささげ奉ってくれ」と郡役所を通じて、県令に申し出た。これに対して、役所側は狂人のたわ言として、取り合わず放置した。その2年後の明治19(1886)年4月1日、山本家が火事になり、貴重な古文書等が失われてしまった。ところが、秀道はなんら頓着することなく、この火事を「物を私有仕り候故の天遣」と受け止めていたという(前掲81頁)。秀道は、その6年後の明治25(1892)年5月に死去している。

大井一哲関連文献

 

著者 書名 出版社 出版年
大井一哲著 『大坂朝日毎日新聞不逞記事論評』 日本社会問題研究所 1928年
大井一哲著 『満洲独立論 : 満洲は支那の領土に非ず満洲は満洲人の満洲なり』 日本社会問題研究所 1928年
大井一哲著 『今が農民奮起の時』 日本社会問題研究所 1930年
大井一哲著 『政党亡国論』 日本社会問題研究所 1930年
大井一哲著 『農村盛衰と国家の興亡』 日本社会問題研究所 1930年 続きを読む 大井一哲関連文献

佐藤清勝関連文献

関連書籍

 

 

著者 書名 出版社 出版時期
佐藤清勝述 『断機慨録』 軍事教育会 1902年
佐藤清勝著 『世界に比類なき天皇政治』 忠誠堂 1930年
佐藤清勝著 『帝国国防の危機』 豊誠社 1931年
佐藤清勝著 『満蒙問題と我大陸政策』 春秋社 1931年
佐藤清勝著 『予が観たる日露戦争』 軍事普及会 1931年 続きを読む 佐藤清勝関連文献

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑩[完]

佐藤清勝は、現代政治(明治維新以降。執筆は昭和十八年)は天皇政治であると主張した。彼がそう主張した第一の根拠は、大日本帝国憲法が明治天皇の叡慮によって制定された欽定憲法だということである。そして、大日本帝国憲法は、天皇の大権、具体的には行政、司法、立法の大権、兵馬の権、宣戦講和の権、条約締結の権、文武官任免の権、栄爵賞典授与の権、大赦特赦等の権を確定したものだと説いた。
ところが、佐藤は政治の実態に強い危機感を覚えていた。彼は、現代政治は政党政治、議会政治に推移しつつあると指摘し、次のように政党、政治家に対する厳しい批判を展開したのである。
「……党利党益のみを顧みて、国利民福を念とせず、徒らに政争に没頭し、為めに議会は法律及び予算の審議協賛をなさずして、会期の大部分を政争の論難攻撃に費して居る、而して、議会に列する議員も亦、国家の利権を獲得し、国家の利益を壟断せんとし、賄賂公行、道義正に地に没せんとしつつある、斯の如きものによりて、国政を運用せんとするときは、一般の人民亦是に倣ひ、唯利益是れ追求し、道義廃頽し、人倫壊敗し、遂に、国家を挙げて救ふべからざるに至るのである、加之、議院政治、政党政治の余弊は、金権者万能を来し、為めに金権者流に好都合なる法律案のみを通過し、国家下層窮民の福祉を増進すべき法律案は却つて閑却せられ、為めに、下層の窮民をして、更に困憊せしめ、遂に、赤貧洗ふが如きものゝ多数を生ずることは、国家の慶事ではないのである……政治家は先づその倜黨の心を去つて、国家を思ふの心に復らなければならぬ、政治家は先づその私欲、権勢欲を去つて、天皇の大御心を体せねばならぬ」(三百二十頁) 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑩[完]

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑨

佐藤清勝は、わが国の近古は天皇政治の時代ではなく、武門政治の時代であったと述べる。源頼朝が政権を掌握してから、徳川慶喜が政権を奉還するまで、第八十二代の後鳥羽天皇(在位:一一八三~一一九八年)から第百二十一代の孝明天皇(在位:一八四六~一八六七年)の時代であり、この間僅かに第九十六代の後醍醐天皇が親政を行ったのみである。
この時代について佐藤が特筆するのは、亀山上皇と孝明天皇の国家観である。弘安の役(一二八一年)の際の亀山上皇について、佐藤は「…親ら石清水の八幡宮に行啓あらせられて、外敵撃攘を祈り給ひ、更に手書を伊勢の大神宮に奉り、身を以て国難に代らんと祈らせ給ふたのである」と書いている(二百五十二頁)。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑨

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑧

中古天皇政治の意義を語るに当たり、佐藤清勝は中古の時代を次のように区分した。
(1)第三十六代の孝徳天皇(在位:西暦六四五~六五四年)から第五十五代の文徳天皇(在位:西暦八五〇~八五八年)に至る親政時代、(2)第五十六代の清和天皇(在位:八五八~八七六年)から第七十二代の白河天皇(在位:一〇七三~一〇八七年)に至る藤原氏の摂政時代、(3)第七十三代の堀河天皇(在位:一〇八七~一一〇七年)から第八十一代の安徳天皇(在位:一一八〇~一一八五年)に至る上皇・法皇の院政時代──。
それぞれの時代によって変化は生じたが、佐藤は、中古全体について、その天皇政治の第一義は「大政の総攬」であると説く。大化の革新によって、官制、法令が整備され、左右大臣の下に八省百官を置いて政務を分掌させることになった。この結果、政治の細務は臣僚に委ねられることになったが、天皇は政治の大綱を総攬されたと、佐藤は述べる。さらに、次のように続ける。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑧

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑦

佐藤清勝は、『世界に比類なき天皇政治』第二編「日本の天皇政治」二章以下で、歴史を遡って天皇政治の実例を明示した。ここで佐藤は「太古」「上古」「中古」「近古」「現代」の五つの時代に分けたが、政治研究として十分成立する「上古」以降をその分析の対象とした。
「上古」は、神武天皇から第三十五代の皇極天皇(在位:皇紀一三〇二~一三〇五年)までである。佐藤は、「上古」の政治史の概要、政治組織、対内政治、対外政治を眺めた後、この時代の天皇の政治思想を、国家観、政治観、法政観、臣民観から考察し、上古天皇政治の本質に迫った。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑦

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑥

佐藤清勝は、『世界に比類なき天皇政治』第二編「日本の天皇政治」第一章「天皇政治の原理」において、次のように書いている。
「…日本国家と欧米国家とは、その外形を同ふするもその本質を異にして居る。我等の国家は父子兄弟子孫の派生的国家であるに対し、彼等の国家は旅人の団体の如き、寄合的国家である。我等の国家は一家族の拡大したる国家であるに対し、彼等の国家は各種異民族の四方より集り来たる国家である。我等の国家は完全一体であるに対し、彼等の国家は混合雑駁体である。斯の如く国家をなす成員の性質を異にし、国家の本質を異にするが故に、我等の国家観念と彼等の国家観念とは異ならざるを得ぬ。我等の国家観念は相親相愛であり、和合輯睦であるに対し、彼等の国家観念は抑圧強制であり、権力統制である。我等の国家観念は人情的であり、道徳的であるに対し、彼等の国家観念は理智的であり、強力的である。斯の如く、国家観念を異にするが故に、我等の政治思想と彼等の政治思想とは異ならざるを得ぬ。我等の政治思想は愛人撫民であるに対し、彼等の政治思想は命令服従である。我等の政治思想は道徳的であるに対し、彼等の政治思想は権力的である」(九十七頁)