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大井一哲『建国由来と皇道政治』③

皇道政治の理想を信ずる大井一哲は、欧米の政治形態の限界を正面から衝いた。
大井はそれを、欧米各国の立国の由来にまで遡って分析している。
欧米各国においては、強者の侵略と弱者の屈服、強者の暴圧と弱者の服従、強者の誅求と弱者の苦悩――とが相互に対峙していると指摘し、その結果として、強者は元首となり、弱者はその奴隷となり、治者・彼治者の関係を生じ、国家を形成するに至ったと見るのである。つまり、欧米各国においては、その運命は「強弱の均衡」に依存しているわけであり、一旦その均衡が破れれば、闘争、反乱を引き起こし、強者と弱者の立場が逆転する革命にまで至る。
つまり、「強弱の勢のみあつて、是非の念乏しく、利害の思想のみあつて、正義の観念なき」欧米では、君主制から民主制へ移行していく以外に選択肢はないと説いた。だが、民主主義もまた完全ではない。戦前にはファシズム、ナチズムが台頭した。大井はこうした状況に加え、王道の理想を追求した中国では易世革命が頻繁に行われた事実を指摘した上で、以下のように結論づける。
「……縦ひそれが君主制であるにせよ、又民主制であるにせよ、個人主義、利己主義、自由平等主義を以て国家観念とする国々には、絶えず政治形態の変更か行はれること、しかして政治形態に幾回変更が行はれても、多数国民の幸福は望みがたく、却つて苦痛と災難を加ふることと、その終局は行詰りであつて、行詰りの結果は又も革命騒ぎであり、或は外国との戦乱であることを物語るものでなくて何である。
我等はこゝにおいて、熟ら反省顧慮せねばならぬ。世界のすべての国々が、或は内乱により、或は外冦により、或者は衰へ、或者は盛んに、或者は興り、或者は亡び、王朝屡々亡び、王統屡々代つてゐるのとは、全く趣を異にして、我国のみは皇統連綿三千年の久しきに及びその間内乱なく、外冦なく、縦ひ之れあるも忽ち平静に復し、国民未だ嘗て国難国乱の苦しみを受けたことのないのは何故であるか、それは天地自然の大道たる神ながらの道の行はれ来つたが故である。即ち皇道政治の国であるが為めである。大なる哉皇道政治や、皇道政治は単なる政治形態上の理想でなく、人道的現実である」(23~35頁) 続きを読む 大井一哲『建国由来と皇道政治』③

大井一哲『建国由来と皇道政治』②


大井一哲は、「天壌無窮の神勅」に注目するとともに、三種の神器が授けられた意義を重視し、以下のように書いている。
「それは鏡の明を以て天下に照臨し、瓊の曲妙を以て天下を治め、劔の威力を以て乱臣賊子を誅鋤せよとの勅語が、地上には平和、人類には幸福を招来する無上の意義と、絶対の道理とを含有するからである」

大井一哲『建国由来と皇道政治』①

 

戦前、皇道政治を称揚した大井一哲は『建国由来と皇道政治』において、肇国の精神からわが国の皇道政治の本質を説明しようと試みた。
大井は、わが国の天皇中心政治、一君万民の政治は天地自然の大道そのものであると強調した。
ここでいう天地自然の大道とは、「宇宙創造の太古より、幾千億年の未来を一貫して、不動、不易、不損、不磨の大法則」であり、また「大自然の本体」である。
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山鹿素行『中朝事実』2011年12月13日①

『中朝事実』皇統章において、素行は神武天皇即位の際の行動に注目し、君臣・夫婦・父子の三道が確立されたと強調した。そして、わが日本はこの三道を軽率に扱うことはできないのを知ったと説いた。
素行は、支那の天子が三十姓以上も変わり、また臣の身分でありながら君を殺すことが数多くあったことなどを挙げ、これとの対比で、わが国の万世一系を称え、「…全く天祖・天皇の知徳がこの上もなく明ら か国中によい感化を与へたためで、久遠に人民 はそれを忘れ得ななつたからである」 と主張した。
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山鹿素行『中朝事実』2011年12月12日②

素行はわが国こそが「中国」である理由を二つ挙げた。
第一点は、地勢上、日本が天下の中央に位していること、第二点は、日本の道が中庸を得ていることである。第一の理由について素行は次のように説明する。
「神典には最初の神としてアメノミナカヌシノミコト(天御中主尊)とクニノトコタチノミコト(国常立尊)とが出現される。前者は天の中心、後者は国土の基礎の意で、これらの尊号から既に永久の中心といふ思想があり、更に日本の最も遠い先祖として存在ましました理由を知れば、中国としての実質は、悠々の太古から、最も正しい意味で自然存在したと考えるのが至当である」
続けて素行は、日本の道が中庸を得ているとの主張を次のように説いた。
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山鹿素行『中朝事実』2011年12月12日①

素行は、『中朝事実』或疑において、上古は日本と支那に優劣なしとも述べていた。
「我が神代に於る数多の神勅は、堯が舜に又舜が禹に与へた教戒に比すべきである。支那に於ける周の武王・文王の廟が質素で供物も僅か黍稷をその儘で供へたのは、我が伊勢の皇太神宮の有様と比せられる。……更に代々の天皇の即位に当つての詔勅は、夏の禹王が正確な暦を天下に配布し、農事を益せしめたのと意味においては変らない」(『中朝事実講話』372頁)
ただ、高須芳次郎は「古代日本の勅教と堯舜の教説とが同一にちがいといふのは、大まかに過ぎる」と評している。

山鹿素行『中朝事実』2011年12月11日③

山鹿素行は『中朝事実』「神教章」で「天地の開け初めから神徳が行はれ、明らかな教戒が備は」っていたと主張した。この見解には反論もあった。
「或疑」において、素行は次のように書いている。
「『日本に漢学・漢籍が輸入されたのは神代から遥か後の事で、神代に学問があったとする証拠は文献中にない。それにも関らず、天神の教戒などと学教を云々するのは少し妙に思はれる』と問ふ人がある。
右の質問者は学の本質を見誤まつてゐる。学とは聖人の言行を受け伝へ実行することで、神に就いても同じ事が言へる。だから、この世に人物が存在すれば、その言行を受け伝え実行出来る筈であり、従つて学問は存在することになるのだ。我が上古にこの事実が果して皆無だつただろうか」
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山鹿素行『中朝事実』2011年12月11日②

素行が『中朝事実』において訴えようとしたのは、日本国体の自立性であった。
同書「或疑」において、素行は神武天皇の御先祖が呉の泰伯だと考える説を一笑にふしている。
この部分を解説した高須芳次郎は、江戸初期から中期にかけて、支那崇拝の漢学者などは、往々、これを真実の如く考えたと指摘し、次のように書いている。
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山鹿素行『中朝事実』2011年12月11日①

山鹿素行は『中朝事実』「神教章」で次のように書いている。
「我神の道は何も支那・朝鮮との交通が開けた後に存在するやうになつたのではない。天地の開け初めから神徳が行はれ、明らかな教戒が備はり、支那聖人の書物を知らなくとも、別に不足を感ずる点は毫もなかつた。折柄、他国との交通が開けたのを利用して、その長所を採リ、皇威の進展の一助としたのは、全く皇室の御心が広く、万物を受入れられる大御心の結果に外ならない。……我国が支那の道を一助として用ひ、国威を盛大にした事実は、広く日本の無比な地位を物語るものである」

大日社の思想

杉浦重剛と頭山満を師として

『大日』第7号、昭和6年5月15日発行
 大日社設立は昭和5年と考えられ、雑誌『大日』は翌6年から昭和20年まで14年間に亘り発行された。
同誌発刊の辞には次のようにある。「明治21年乾坤社を興して、雜誌『日本人』を創めたるは吾人の師長天台道士杉浦重剛先生なり。其の翌年新聞『日本』を興して國體主義を高調したるは羯南陸實先生なり。爾來40年濟々たる多士は苦節に死し、吾人の先輩は曉天の星の如くなれり。吾人の魯鈍なる、再躓三躓今や讒かに彈丸黒子の地を守るに過ぎず。茲に頭山立雲先生を社師として、廣く天下同志の贊襄を仰ぎ、新たに『大日社』を興し、雜誌『大日』を創刊して名節を砥礪し大義に終始し、毅然筆致に任じて操觚の天職を全うせんとするは先輩師長の先蹤を追うものなり」 続きを読む 大日社の思想