度会延佳『陽復記』テキスト1 崎門学研究会 輪読用資料

 『陽復記』は、伊勢神道を復興させた度会延佳(わたらいのぶよし)が、慶安3 (1650) 年に脱稿、さらに稿を補って宝永7 (1710) 年に刊行した。写真は、早稲田大学所蔵の『陽復記』山田一志町(伊勢):講古堂、元文4(1739)年。以下テキスト(平重道校注)は、『日本思想体系 39 近世神道論 前期国学』岩波書店、86~117頁。

『陽復記』上(86頁)

 神風伊勢の国*百船(ももふね)度会の郡は、内外の神のしづまり給ふ地(ところ)として四時の祭礼をこたらず。垂仁・雄略のいにしへより今の世にいたるまで、上一人下万民神威をたふとばずと云事なし。さればにや、自然に地とみ民ゆたかにして上代の流風余韻たえず。予も祠官にむまれをなせば、かたじけなくも神につかふるのひまひま、神宮の旧記を披見し儒典のかたはしをうかゞひて、一二の同志とかたりなぐさみあかしくらせば三十とせにもあまりぬ。弱冠より以前の事は忘れき。近比(ちかごろ)見し事、古老のかたりし事、又は秘記の中にも心にむかふ事をかたばかり書とゞめ、漢語をかりてことはり朋友のものまなぶたすけとす。
 抑(そもそも)我国のおこりを尋るに、太虚の中に一つのものあり、形ち葦牙(あしかび)の萌出(もえいで)たるごとし。則化して神となる。国常立尊と申奉る。又は天御中主尊とも名付奉る。この神を人皇二十二代(ママ)雄略天皇の御宇(ぎょう)に、天照大神の御告(をんつげ)によりて丹州真井原(まなきのはら)より勢州山田原にむかへしづめ奉り、瓊々杵尊を東の相殿(あひどの)とし、天児屋根命・太玉命も瓊々杵尊に添て西の相殿として御同殿にましまし、豊受皇大神宮と名付奉る。今の外宮是也。

*百船度会の郡 三重県度会郡、伊勢神宮の所在する地。百船は度会の「わたる」にかけた言葉。

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