いま、幕末の志士・真木和泉が、奇妙な歴史解釈を売り物にする書物の中で貶められている。そろそろ、本格的な反撃に出なければならない。
「一切の私心なし! 一族ともども理想の為に殉ずる覚悟」。それが真木の真髄である。
「とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく……」
これは、真木の天王山自刃の報に接した、真木の娘・小棹が発した言葉だ。真木が討幕運動に挺身した時代、畏れ多くも孝明天皇の御意志は揺らいでいたという説もある。それでも、真木は信ずる道を突き進んだ。それは、決して己のためではない。なぜならば、彼は自らの死、一族の死を覚悟して事に臨んだからである。拙著『GHQが恐れた崎門学』の一節を引く。
〈真木が遺書として書いたのが、「何傷録」です。冒頭に「楠子論」を掲げ、さらに「楠子の一族、三世数十人、一人の余りなく大義に殉死せられしこと、大楠公の只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは、塵ほども胸中に雑らず」と、楠公精神を称えました。そして、十年の謫居を余儀なくされ行動できなかった自らの心情を吐露し、今や身を挺する覚悟を綴り、次のように一族に訴えかけたのでした。
「ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ」 続きを読む 真木和泉の真髄①
「天皇親政」カテゴリーアーカイブ
遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次
以下、遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』(錦旗会本部、昭和8年)の目次を紹介する。
序文
序篇 世変の前兆たる世相と我等の危惧
一、 明治維新には王政復古の形式獲得・昭和維新には皇国日本への復帰完成
二、 世の大多数者は常に前兆を前兆として感知し得ぬ
三、 前兆は必ず心ある者をして危機を思はしむ
四、 罪人に対する昔の拷問・国民全部に与へられる今の生存苦
五、 我が日本には今や毎日平均百人以上の自殺者がある
六、 徳川時代の日本と仏蘭西と露西亜の虐政ぶり
七、 今の生存苦は果して社会的拷問に非ざる乎?
八、 学校はカントの倫理を教えて社会はマルクス指摘の通り
九、 恐るべき片手落ち!今の我が滔々たる外国化の風潮
十、 幕末の大義名分!日本にのみ有つて外国に無きもの
十一、 忠義の的は天子様の外に何者も無いと云ふ不動の信念
十二、 ああ「陛下の赤子」が「資本の奴隷」とは何事ぞ!
十三、 昭和維新そのものの前に先づ精神的に「日本人の日本」の獲得 続きを読む 遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次
平泉澄先生『明治の源流』結び─感激と気魄は承久・建武の悲劇より
平泉澄先生は『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)を以下のように結んでいる。
〈明治維新は、最後にその規模を高揚して、神武天皇建国創業の初めにかへるを目標としたものであつたが、あらゆる苦難を突破して國體の本義を明かにしようとする感激と気魄とは、之を承久・建武の悲劇より汲み来つたのであつた。就中、後醍醐天皇崩御にのぞんでの御遺勅に、
玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継體の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。
と仰せられた事は、申すもかしこし、楠木正成が最期に当つて、
七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや。
と願を立てた、あの剛気不屈、大義を守つて一歩も後へは引かぬ精神に、人々は無上の感動を憂え、不退転の勇気を與へられたのであつた。〉
『GHQが恐れた崎門学』書評8(平成28年12月13日、15日)
哲学者の山崎行太郎先生に、ブログ『毒蛇山荘日記』(平成28年12月13日、15日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただきました。心より感謝申し上げます。
平成28年12月13日
〈江戸時代は「天皇親政」=「国体思想」は、反体制的革命思想だった。ーー『GHQが恐れた崎門学』(坪内隆彦著)を読む。
坪内隆彦さんの新著をいただいたので、今、読んでいる。坪内さんには、『アジア英雄伝』という名著があり、私にとっては、たびたび読み返す愛読書の一つになっている。今回の新著は、テーマがテーマだけに、あまり期待していなかったが、予想外に面白い。江戸時代の尊王=国体思想というものが、よく分かった 。
今、「尊皇思想」=「天皇親政」=「国体思想」というと、体制擁護、権力迎合の政治思想のように思いがちだが、少なくとも、江戸時代においては反体制的革命思想だった。「反体制的革命思想」で故に、江戸幕府によって逮捕、投獄され、多くの人が死んでいる。江戸幕府という権力によって殺されたのである。
崎門学(きもんがく)とは、山崎闇斎が創始した尊皇思想を基盤とした反体制的な政治哲学である。崎門学は、万世一系の天皇による親政を理想とし、闇斎は「徳を失った天子は倒していい」とする易姓革命論を否定する形で朱子学を受容し、さらに伊勢神道、吉田神道、忌部神道を吸収し、自ら「垂加神道」を打ち建てる。
崎門学は、明治維新を実現するのに貢献した尊皇思想の中心学派であった。崎門学の系譜に連なる梅田雲浜(うめだ・うんぴん)という思想家(イデオローグ)が、逮捕、投獄されるところから、本書は始まっている。 続きを読む 『GHQが恐れた崎門学』書評8(平成28年12月13日、15日)
「現行憲法は改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみ」─平泉澄先生「國體と憲法」②
平泉澄先生は、昭和29年6月30日の講演で次のように述べている。
〈日本国を今日の混迷より救ふもの、それは何よりも先に日本の國體を明確にすることが必要であります。而して日本の國體を明確にしますためには、第一にマッカーサー憲法の破棄であります。第二には明治天皇の欽定憲法の復活であります。このことが行はれて、日本がアメリカの従属より独立し、天皇の威厳をとり戻し、天皇陛下の万歳を唱へつつ、祖国永遠の生命の中に喜んで自己一身の生命を捧げるときに、始めて日本は再び世界の大国として立ち、他国の尊敬をかち得るのであります。
憲法の改正はこれを考慮してよいと思ひます。然しながら改正といひますのは、欽定憲法に立ち戻って後の問題でありまして、マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の國體の上よりこれを見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります〉
天皇政治の中に生きている民主主義(谷口雅春「生命体としての日本国家」)
谷口雅春は「生命体としての日本国家」(『理想世界』昭和四十四年一月号)において、次のように書いている。
〈君民の利益が一致しているのが、天皇政治下の民主主義なのである。
そこで思い出されるのは、仁徳天皇が当時の日本国民が貧しくなっているのをみそなわせられて、三年間租税を免除し、皇居が朽ちて所々がぼろぼろになって雨漏りしても、それを補修し給うことさえ遠慮され、三年目に高殿に登り給うて眼下に街を見渡されると、国民の経済状態は復興して、炊煙濠々とたち騰って殷富の有様を示しているので、皇后さまを顧みて、「朕は富めり」と仰せられた。そして。
高き屋にのぼりて見れば煙たつ 民の竈は賑ひにけり
というお歌をお詠みになったというのである。天皇は、自己が貧しくとも、国民が裕かであれば、「朕は富めり」であらせられる。これが天皇政治の中に生きている民主主義なのである。これを民主政治下の代議士が、汚職をもって自分を富ませながら、そして自己の貰う歳費の値上げを全員一致で議決しながら、国民のたべる米の価格や、国民の足である交通料金その他の公共料金の値上げに賛成するのと比較してみるならば、いわゆる現代の民主政治は一種の特権階級政治であり、天皇政治こそかえって民主政治であることがわかるのである〉
『神皇正統記』は北条泰時を称賛しているのか?─親房論述の本意
北畠親房は『神皇正統記』において、北条泰時について次のように書いている。
〈大方泰時、心正しく政すなほにして、人を育み、物に憍(おご)らず、公家の御事を思ひ、専ら本所の煩(わずらひ)をとどめしかば、風の前に塵なくして、天下即ち静まりき。かくて年を重ねし事、偏(ひとへ)に泰時が力とぞ申侍るめる。陪臣として久しく権を取る事は、和漢両朝に先例なし。其主たりし頼朝すら二世をば過ぎず。義時いかなる果報にか、計らざる家業を始めて兵馬の権をとれりし、様(ためし)希なる事にや。されども才徳は聞えず、又大名(たいめい)の下に誇る心やありけん、中二年計りぞありし、身まかりしかども、彼の泰時相継ぎて、徳政を先とし、法式を固くす。己が分を計るのみならず、親族ならびにあらゆる武士までも誡めて、高き官位を望む者なかりき。其政次第のままに衰へ終に亡びぬるは、天命の了(をは)る姿なり。七代までたもてるこそ彼が余薫(よくん)なれば、恨む所なしと云ひつべし。およそ保元平治よりこのかたの乱りがはしきに、頼朝と云ふ人もなく、泰時と云ふ者なからましかば、日本国の人民いかが成りなまし。此謂(いはれ)を能く知らぬ人は、故もなく王威の衰へ、武備の勝ちにけると思へるは、誤なり〉
果たしてこれは、親房が泰時を評価したと理解していいのだろうか。平泉澄先生は、『明治の源流』において、次のように述べている。
〈表面から之を読めば、いかにも泰時の人物徳操をほめたたへるやうに見えるであらう。然し正統記は、後醍醐天皇崩御の後、国難重畳の際に、わづか十二歳にして大統をつがせ給うた後村上天皇に、政治の御参考となり、君徳の御教養にお役立て申上げようとして、常陸の小田城に於いて著述して吉野へ御届け申上げた書物である。従ってそれは、一面最もすぐれたる歴史の名著であると共に、他面に於いては朝政訓誡の軌範であって、之を真に理解する為には、文字を表面に於いてのみ読まず、往々裏返しにして吟味する必要がある。
即ち正統記が頼朝や泰時をほめてゐるのは、朝廷に重大なる反省を要求してゐるのである。頼朝が幕府を開いた事を非難する前に、朝廷が武術を怠り、禍乱を鎮定する実力を失った事を歎かねばならぬ。泰時が勝利を得て政権を握った事を恨む前に、君徳四海をおほふ能はず、賊軍に加担する者の多かった事を反省しなければならぬ。是れが親房論述の本意である。それは良い訓誡ではあるが、直接泰時の行動に対する批判では無い〉
長野朗の制度学─仮説「制度学と崎門学の共鳴」
昭和維新のイデオローグ権藤成卿は「制度学者」と称された。筆者は、その学問がいかなるものであったかを考察する上で重要な視点が、権藤の思想と崎門学の関係ではないかという仮説を立てており、権藤と崎門学の関係について「昭和維新に引き継がれた大弐の運動」(『月刊日本』平成25年10月号)で論じたことがある。
「制度学者」としての権藤の思想の継承者として注目すべきが、長野朗である。長野について、昭和維新運動に挺身された片岡駿先生が次のような記事を書き残されている。
〈制度学者としての長野氏は南渕学説の祖述者として知られる権藤成卿氏の門下であり、而も思想的には恐らく最も忠実な後継者であるが、然し決して単なる亜流ではなく、ある意味において先師の域を超えてゐる、特に例へば権藤学説に所謂『社稷体統』をいかして現代に実現するかといふ具体的経綸や体制変革の方法論について、権藤氏自身は殆ど何一つ教へることが無かつたが、長野氏は常に必ずそれを明示して来た。権藤成卿を中心とする自治学会に自治運動が起らず、長野朗氏の自治学会が郷村自治運動の中核となり得た理由も茲に在つた。郷村運動の中心的指導者だつた長野氏は亡くなられたが、故人が世に遺したこの『自治論』が世に広まれば、民衆自治の運動は必ず拡大するに違ひないと私は信ずる。
○民衆自治の風習は神武以来不文の法であつたが、その乱れを正して道統を回復し、且つそれを制度化して「社稷の体統」たらしめたものが大化改新でありそれを契機とする律令国家だつた。所謂律令制国家は大化改新の理想をそのまま実現したものではないが、而もこのやうな国家体制の樹立によつて、一君万民の国民的自覚が高められて行つたことは疑ひ得ない。その律令制国家体系も軈て「中央」の堕落と紊乱を原因として崩壊の過程を辿り、遂に政権は武門の手に握られることになつたが、然し、そのやうな政治的・社会的混乱の中においても、大化改新において制定された土地公有の原則と、村落共同体における自治・自衛の権は(一部の例外を除いて)大方維持せられ、幕末に至るまで存続した。而も此間自治共同体は次第に増殖し、幕末・維新の時点では実に二十万体に近い自治町村と、それを守る神社が存在したのである。大化以来千二百年の間に幾度が出現した国家・国体の危機を救ふた最大の力の源泉も、このやうな社稷の体統にあつたことを見逃してはならぬ。この観点から見るとき、資本主義制度の全面的直訳的移入によつて土地の私有と兼併を認め、中央集権的官僚制度の強化のために民衆自治の伝統を破壊して、社稷の体統を衰亡せしめた藩閥政治の罪は甚大である。 続きを読む 長野朗の制度学─仮説「制度学と崎門学の共鳴」
天皇親政が本来の姿─平泉澄先生「國體と憲法」①
平泉澄先生は、昭和二十九年の講演において次のように語っている。
「…日本の政治において天皇の御地位がどういふものであつたか、天皇と国民との関係がどういふものであつたかといふことの概略を見て来たのでありますが、かやうにして、藤原氏が摂政、関白となつたこともありますし、武家が幕府を開いたこともありますし、政治は往々にしてその実権下に移りましたけれども、それはどこまでも変態であつて、もし本来を云ひ本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもつて正しいとしたことは明瞭であります。これは歴史上の事実でありまして、議論の問題ではございません。従つて英明の天子が出られました場合には、必ずその変態を正して、正しい姿に戻さうとされたのでありまして、それが後三条天皇の御改革であり、後鳥羽天皇倒幕の御企てであり、後醍醐天皇の建武の中興であり、やがて明治天皇の明治維新でありましたことは申すまでもありません。……世間にはマツカーサーの憲法を用ひましても國體は変らないと説かれる方もだんだんとあるやうであります。それは恐らくやはり皇室のために憂を抱き、日本の国を愛する誠意から出てをるのであると思ひます。私はさういふ方々の誠意を疑ふわけではございません。しかし私ども学者の末端に列する者として、恐るるところなく事実を直視いたしますならば、かくの如き考は耳を抑へて鈴を盗むの類でありまして、若しマツカーサー憲法がこのまま行はれてゆくといふことでありますならば、國體は勢ひ変らざるを得ないのであります。民主々義はこれを強調する、天皇はわづかに国の象徴となつておいでになる。歴史は忘れられ家族制度は否定せられてゐる。現在のみが考へられて、歴史は考へられず、家族制度は無視されて個人のみが考慮せられ、人権はほとんど無制限に主張せられ、奉仕の念といふものはない。その限りなく要求せられる個人の権利の代償としては、ただ納税者の義務のみが明らかに規定せられてをる。忠孝の道徳の如きは弊履の如くに棄てて顧みない。かくの如き現状において、日本の國體が不変不動であるといふことは万あり得ないところであります」(「國體と憲法」『先哲を仰ぐ』所収)
筑前勤王党志士宛て平野国臣書簡
文久3(1863)年10月、平野国臣は筑前勤王党の志士(鷹取養巴、月形到、江上栄之進、浅香市作、筑紫守、森安平)に宛て、次のように蹶起を促した。
「各君御壮健奉賀候。天下の形勢定而御承知可被成、如何御因循被成候哉。
臣子之忍ぶ所にては有之間敷候。君臣は天下の公道、主従者後世之私事歟と発明仕候。六親叛而大孝顕れ、大道廃而有仁義ものに御座候。
天朝立て各藩立、
神州有て各国有。何ぞ其末に泥みて其基本を助けざらんや。今日の急務、断之一つに在。鬼神も之を避ると謂はずや。区々として株兎の小計をなすは小人也。愚俗也。護而豪傑之実功を見給ふべし。
不日に一軍之兵勢を挙動し、天下之耳目を驚して可入貴覧候。能目を拭、耳を洗て十五日を待給へ。
再会難期。句句頓首謹言」