「皇道」カテゴリーアーカイブ

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑤

佐藤清勝は、④「民主政治説に対する批判」を次のように展開する。
民主政治の根本思想は、個人の自然権説に出発する、この説は個人の自由平等を主張し、個人人格の尊厳を高調する思想である。この思想を根底として、これに社会契約説を付加し、国家を個人の集合体と考える。自己の天賦の権力を有する個人が契約によって国家を構成するのだから、人民は国家の主権者であり、人民の総意は国家の意志であり、したがってこの総意は多数によって決定されるべきであるとする。こうして、代議政治、民主政治が行われる。
また、民主政治は、人民が立法し行政する政治である。立法のために多数による決定を行うが、多数は善悪を意味せず、力を意味する。善であっても、少数であれば実施されず、悪であっても多数であれば実施される。このため、多数決政治は必然的に力の政治となる。つまり、民主政治の根本思想は個人主義であり、また強力主義の思想である。国家主義の思想であり、道徳主義であるわが国の政治思想とは、西洋の民主政治は相容れない(二十二~二十五頁)。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑤

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート④

佐藤清勝は、君主政治、民主政治、共産政治のいずれの根本思想も、個人主義であり、強力主義だと批判した。彼はまず、③「君主政治説に対する批判」として、西洋政治思想においては、権力の起源を、神学的に解釈したり、自然科学的に解釈したり、あるいは法理的に解釈したりと、様々な変遷があったが、いずれにせよ政治を君主の権力行使の作用であると見てきたことには変わりがないと指摘し、次のように説明する。
西洋思想においては、君主の権力は最高であり、無制限であり、絶対であると主張した。このような思想は、市民や農民を眼中に置かず、君主の個人的権力だけを強唱するものであって、例えばルイ一四世などは「朕は国家なり」と主張するに至った。つまり、欧州の君主政治の根本思想は権力主義であり、君主の個人主義である。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート④

「投機資本主義の終焉に備えよ」『青年運動』第965・966合併号、平成24年1月15日

二〇一二年、世界は「大量破壊兵器」爆発の危機に直面するかもしれない。
ここで言う「大量破壊兵器」とは核兵器ではなく、金融分野の兵器「CDS」(クレジット・デフォルト・スワップ)のことだ。CDSとは、企業などが倒産し、借金が棒引きになるリスクに対する保証・保険を金融商品化したもの。リスクヘッジのための金融商品だが、一度CDSを売った会社が破綻すると、ドミノ倒し的に破綻の連鎖が始まり、その被害は一気に拡大する。だから、投資家のウォーレン・バフェットは、CDSを「金融版の大量破壊兵器」と呼んだのだ。
実際、二〇〇八年にアメリカ保険最大手AIGが救済されたのは、CDSの爆発を回避するためだったとも言われている。アメリカの金融機関はCDSを引き受けているために、深刻化するユーロ圏の危機がアメリカへ波及する可能性がある指摘されているのである。 続きを読む 「投機資本主義の終焉に備えよ」『青年運動』第965・966合併号、平成24年1月15日

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート③

原理的な西洋政治学批判を展開した佐藤清勝は、①「国家観からの批判」に続いて、②「法律説の観点」から西洋の政治の在り方を批判した。彼は、神法説、自然法説、歴史法説、功利法則説など、法律に関する学説の変遷を見た上で、次のように述べる。
「法治は法律によりて政治を施行することである、即ち、法治国は統治権により法律を発布し、この法律を実行せしめて、人民を治むる国家である。即ち、法律は統治の権力をその泉源として、人民をこの権力に服従せしむるのである。……法律はその背後にある主権者の権力によつて施行せらるゝのであるから、法治は即ち権力政治である力を万能とする政治である」(十四、十五頁)
佐藤は、このような法治に対して、わが国古来の政治は道徳を根底とする政治であったと主張し、概要次のように説いた。
わが国でも、多少の法令規則はあったが、それは政治の補助手段であって、その実質は道徳政治であった。道徳政治は、為政者がまず道徳を実践し、模範を示し、これを実行させる政治である。この点で全く法律政治とは異なる。わが国上古、中古の歴代天皇は、道徳を実践されただけではなく、よく人民を愛撫し、人民に恩恵を施し、刑罰を寛大にされ、仁慈の政治を行われたのである。
このように説いた上で、以下のように結論づけている。
「欧米国家の政治は、その法律思想に於て権力主義である。是に反し、我国古来の政治思想は道徳主義であつた。権力主義の思想は道徳主義の思想と相容れざる思想である」(十六、十七頁)

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート②

佐藤清勝著『世界に比類なき天皇政治』の特徴は、単に天皇政治を称揚するだけではなく、西洋政治学の問題点を具体的に指摘した点にある。
戦後わが国においても、「政党政治の行き詰まり」論をはじめとして、民主主義批判はあるが、佐藤は西洋政治を、より原理的に批判しようとした。
同書第一編「西洋政治の論評」第一章「西洋政治学に対する批判」において、佐藤は西洋政治学の展開を概要次のように説明する。
欧州における政治学はギリシア時代から登達し、ソクラテス、プラトン、アリストテレスのような哲学者は、いずれも道徳を論ずるとともに政治を論じた。彼らは政治の理想を道徳に置いていた。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート②

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート①


佐藤清勝は『世界に比類なき天皇政治』緒言冒頭で、西洋人の不幸な歴史は、彼らが理智ばかりを重視し、感情を軽視してきた結果だと断じる(二頁)。
西洋人の歴史は、佐藤によれば、苦難の連続だった。まず、教権全盛時代には法皇僧侶などの人情なき抑圧に苦んだ。そして、君権全盛時代には、君主貴族などの愛情なき虐政に苦んだ。民権全盛となってからも、政党者や金権者の恩恵なき強圧に苦しんできた。
西洋人は「理智的反抗心」により、信仰の自由を叫んで僧侶の暴圧を絶呼し、天賦の人権を叫んで君主権の非理を主張し、階級争闘を叫んで資本家の専横を怒号するというように、絶えず現状を打破して、新しい境遇を得ようとして、大声で激しく叫んできた。佐藤は、それこそが西洋の政治思想だと説き、次のように書く。
「彼等は常に現状を打破し、現社会を改造して新正面を開かんとする努力は、益々彼等を躯つて奈落の底に沈淪せしむるものである、而して、今や彼等は国家を否認し、民族を忘却し、政治を嫌悪し、而して、世界主義に傾きつつあることは、即ち、彼等民族自滅の深渕に向つて急ぎつつあるのである」(四頁) 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート①

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』コンテンツ

佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』コンテンツ

緖論 1

第一篇 西洋政治の論評 8
第一章 西洋政治学に対する批判 8
第一節 総説 8
第二節 国家観に対する批判 10
第三節 法律説に対する批判 12
第四節 君主政治説に対する批判 17
第五節 民主政治説に対する批判 22
第六節 共産政治説に対する批判 25
第七節 批判の綜合 30
第二章 西洋政治学の欠点 31
第一節 総説 31
第二節 政治反抗の思想 33
第三節 権力統制の思想 36
第四節 為政者人格無視の思想 40
第五節 法律統治の思想 43
第六節 道德感情無視の思想 46
第七節 理智偏重の害 49
第三章 西洋政治の実際 50
第一節 総説 50
第二節 西洋政治史の梗概 52
第三節 英国憲法の成立過程 61
第四節 議会政治の実際 71
第五節 議会政治の本質 75 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』コンテンツ

大井一哲『建国由来と皇道政治』⑦

大井一哲は『建国由来と皇道政治』結論において、教育勅語、戊申詔書、大正天皇の御即位式における勅語、昭和天皇の御即位式における勅語など、明治から昭和初期の詔書・勅語を引いた上で、次のように政府の姿勢を糺した。
「是等の勅語を奉戴したるその当時の総理大臣以下国務大臣は、恐懼して相戒しめ、謹んで聖旨の全国に普及徹底するやう鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)すべきであつた。しかも彼等は放縦に流れ傲慢に傾き居れる一部国民の歓心を買うことにのみ急であつて、自ら率先して模範となり、忠孝の道、信義勤倹の実、忠実奉公の誠、敬忠奉上の義を国民に訓ゆることを忘れて了つた」
大井は、結論として、全国民が一心同体となり、日本精神を発揮して、政党政治を全滅しつくすべぎだと主張するのである(159―165頁)。

大井一哲『建国由来と皇道政治』⑥

皇道政治の理想を追求大井一哲は、明治維新後のわが国の政治形態をどのように見ていたのであろうか。
彼は、慶応4年 (明治元年) 3月14日(1868年4月6日)に明治天皇がお下しになった五箇条の御誓文を高く評価した。

一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其ノ志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破り、天地ノ公道二基クヘシ
一、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

大井は御誓文について「実に国是の大本を確定せられた大文字であつて、憲法の制定も、議会の開設も、みなこの中に含蓄されてゐることは云ふ迄もない。斯の如くにして君民一如、一君万民の政治は茲に恢復せられたのである」ととらえた(120―121頁)。
ところが、その後の展開は大井の期待を大きく裏切るものだった。彼は概要以下のように述べている。
藩閥内閣、官僚内閣は、いずれも官権万能を守持して、天皇政治の目標とする下層多数国民に圧迫を加えたことにおいて同じだった。富豪と結託し、政商の請託を容れ、彼らに特別の保護を与えることも同じだった。このような事態に直面し、自由民権論者は藩閥政府、官僚政府の打倒に向かい、官権と民権とは随所で衝突し、藩閥と政党は互いに反目するに至った。やがて、大正七年に純然たる政党内閣として原敬内閣が成立したが、事態はさらに悪化していった(118―123頁)。
そして大井は、次のように激しく政党政治の実態を批判した。
「その富豪と結託し、政商を保護する点において、藩閥よりも、官僚よりも、その弊一層甚だしきを加へ、権勢を利用して限りなく利権を漁り、私曲を逞うして縦ままに自個を肥やすといふ醜状が暴露された。選挙の際にこそ『選挙第一主義』から、如何にも尤らしく一生懸命に、政見や政策をならべ立てて、あつぱれ国士の体面を装ふが、運よく当選して議会に入るや、忽ち仮面をかなぐり棄て、野獣のやうな本性を現はして、啀み合ひ、噛み合ひ、擲り合ひを演じて、神聖な議場を修羅の街と化して了ふ醜状は毎年議会の常例となつた」(126、127頁)
さらに大井は、政党政治は天皇御親政の反逆であり、皇道政治の賊だと断じ、君国のために一身を捧げる覚悟のある誠忠の人でなければ、天皇政治の下において内閣を組織して、輔弼の責任を全うすることはできないと強調する。