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『アジア英雄伝』前書き

一 アジアの黎明の時代

列強の植民地支配に対する民族的反抗
 本書で取り上げた二五人のアジア人(金玉均、康有為、ボニファシオ、ダルマパーラ、リカルテ、孫文、李容九、ガンジー、オーロビンド・ゴーシュ、イクバール、ウ・オッタマ、クォン・デ、宋教仁、ビハリ・ボース、プラタップ、クルバンガリー、ベニグノ・ラモス、チャンドラ・ボース、ピブーンソンクラーム、スカルノ、ハッタ、アウン・サン、スハルト、マハティール、ノンチック)は、民族の独立と興亜に人生を捧げた志士たちである。その多くが命がけで民族独立闘争に挺身し、志半ばで倒れている。かつて栄華を誇ったアジアは、ヨーロッパ列強による植民地となり、その輝きを失っていた。アジア諸民族は、支配から脱して独立を勝ち取り、主体的な国づくりに向かわねばならなかった。
 だが、列強の力は強大であり、幾度にもわたる反抗は空しくも抑えつけられていた。例えば、インドでは一八五七年から一八五九年に、セポイの乱と呼ばれる民族的反抗運動が試みられたが、結局鎮圧されている。また、一八八八年には、ジャワ島西端のバンテン地方で反オランダ農民反乱が起こったが、三〇日で鎮圧されている。
 アジアが欧米の支配下に置かれ始めたのは、およそ五〇〇年前のことである。アジアへの進出で先んじたのは、スペインとポルトガルである。両国は、イベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動(レコンキスタ)を達成するや、大航海時代の先頭を切って、海外への進出を開始した。一四九四年には、ローマ教皇アレクサンドル六世がトルデシリャス条約を定め、大西洋上に西経四六度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。一四九八年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットを訪れたのを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部に拠点を築いていく。ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは、一五一一年にマラッカを征服、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点を築く。マレーシアのマハティール前首相は、この五〇〇年前の歴史を忘れてはいない。一方、スペイン艦隊は太平洋を横断し、東方からアジアに進出した。マゼランは、一五二一年にフィリピンに到達、徐々に勢力を広げ、一五七一年にはマニラ市を含む諸島の大部分を征服した。この間、スペインとポルトガルによる勢力は日本にも及んできたが、信長、秀吉らの努力によってそれを阻止している。
 スペイン、ポルトガルに次いでアジアへ進出してきたのが、オランダである。オランダは、一六〇二年には東インド会社を設立、一六一九年にはバタビア(現ジャカルタ)に要塞を築き、首府とした。やがて一七世紀中ごろには、ポルトガルとイギリスの勢力を駆逐し、インドネシア全体を植民地とした。
 では、イギリスの進出はどうだったのか。同国は、一八世紀半ばに南部インドの支配権をめぐってフランスと三次にわたって戦争し、最終的に勝利する。さらにインド土着軍を制圧し、インドにおける支配権を固める。一八二四年には、マレー半島を勢力下に収め、イギリス領海峡植民地が成立する。一八八六年には、ビルマがイギリス領インドに併合されている。さらに、イギリスは一八九八年に香港を獲得、清への勢力を拡大していった。この間、イギリスが清に持ち込んだ大量のアヘンによって、多くの中毒者が生み出された。
 フランスは、一九世紀になって仏領インドシナなどの植民地化に成功した。
 アメリカは、一八九八年の米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったフィリピンを植民地化する。
 また、シベリア制圧を終えたロシアは、進路は南へとり、中央アジアの多くの汗国を植民地化し、清の弱体化につけこみ満州のアムール川以北と沿海州を植民地化した。これが、欧米列強によるアジア植民地化の歴史である。アジア諸国は政治的独立を失うとともに、富を略奪されていたのである。
 本書で取り上げた志士たちは、この状況を打開するために立ち上がったのである。

西洋近代思想への抵抗
『アジア英雄伝─日本人なら知っておきたい25人の志士たち』(展転社)

 アジア諸国は、植民地化の過程で伝統文化を無残に破壊されていた。劣等感を植え付けられたアジア諸民族は、独自の文化への誇りを失い、人間中心主義、物質至上主義といった西洋近代の価値観を受容していった。こうして、自らの伝統文化、宗教の中の普遍性は忘却させられたのである。
 植民地解放闘争の過程で再発見された伝統文化、宗教は、西洋近代文明を超克し得る文明的な意味を持っていた。やがて、第一次世界大戦が勃発すると、欧米の内側から、近代文明に対する懐疑的な見方が唱えられるようになる。シュペングラーの『西洋の没落』もその一つである。
 本書で取り上げたアジアの志士たちの多くも、伝統文化と宗教の価値を普遍的なものとして信奉し、近代西洋文明を乗り越えようという志を持っていたのである。例えば、マハトマ・ガンジーは、「近代文明に対する厳しい弾劾の書」と評される『ヒンドゥー・スワラージ』において、「私たちの祖先は、機械のつくりかたを知らなかったわけではない。ただそんなものを欲したら徳性を失うだろうということも知っていた。だから熟考したうえで、できる限りのことを、手と足で行うべきであると決めた」と書いている。パキスタンのムハンマド・イクバールは、独自のイスラーム思想に基づいて、鋭い近代批判を展開した。セイロンのアナガーリカ・ダルマパーラは、「今世紀は一転して眠れる亜細亜を覚醒せざるべからず。而して欧州一流の文明よりも更に完全なる世界的文明を作らざるべからず」と語っていた。インドのビハリ・ボースは、西洋近代の物質偏重を是正し、東洋の伝統思想の復興による文明転換を目指していた。ベトナムのクォン・デもまた、近代主義に批判的なカオダイ教との連携を模索した。
 後述するように、普遍的価値に基づいたアジア文明の復興というビジョンは、多くの場合、それぞれの民族思想とともに、宗教思想に裏付けられていたのである。
 独立の維持を果たしたという点において、明治以来の近代化に一定の評価を与えつつも、文明転換の視点を失わなかった日本の興亜陣営と、本書で取り上げたアジアの志士たちとは、文明史的課題をも共有していたのである。
 やがて、大東亜共栄圏構想が盛んに語られるに至って、西洋近代に対する批判論も、ある種の総括のときを迎える。戦時期に展開された「近代の超克」論がそれだ。昭和一七(一九四二)年七月には、小林秀雄、西谷啓治、亀井勝一郎、諸井三郎、林房雄、鈴木成高、三好達治、菊池正士、津村秀夫、下村寅太郎、中村光夫、吉満義彦、河上徹太郎らが参加して「近代の超克」の座談会が開かれた。これらの参加者は、京都学派の哲学者、日本浪漫派の文学者、『文学界』同人の三グループからなる。京都学派の高坂正顕、高山岩男、鈴木成高、西谷啓治は、ほぼ同時期の『中央公論』においても、座談会「世界史的立場と日本」を行っている。
 ただし、後述する通り、列強の勢力に抗して、独立維持のために富国強兵を急いだ明治以降において、西洋近代に背を向けることは困難であった。だからこそ、竹内好は「『近代の超克』は、いわば日本近代史のアポリア(難関)の凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、……一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった」と指摘したのである。
 近代の超克という課題は、すでに解決済なのだろうか。地球環境問題の深刻化、精神的な価値の喪失感が進む中で、いよいよ大きな課題として、人類全体に突きつけられているといっても良い。
 では、植民地解放という課題はどうなのか。形の上では、アジア諸国は一応は独立を果たした。しかし、中国では、チベット、内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)などで、民族固有の文化、宗教が制約されているとの見方もある。
 その一方で、アメリカが主導するグローバリズムを新しい形の植民地主義ととらえる見方もある。一九九七年のアジア通貨危機によって、タイ、インドネシア、韓国が相次いで国際通貨基金(IMF)の金融支援を仰ぐことになった。この際、各国の主体的な経済運営が否定されたことから、マハティール首相は、新植民地主義だと激しく批判している。 続きを読む 『アジア英雄伝』前書き

徳川慶喜が伊藤博文に明かした水戸藩の遺訓継承

令和2年8月に『日本』(日本学協会発行)編集長の安見隆雄先生から、「水戸学と尾張学」というテーマで執筆する機会を頂戴いたしました。拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』を上梓したのをきっかけです。ところが、同年11月拙稿提出後、年が明けて安見先生が急逝したことを知りました。非常に大きなショックを受けるとともに、残念でなりません。心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
 私が安見先生のご依頼に応え「知られざる尊皇思想継承の連携─尾張藩と水戸藩」と題して書かせていただいた原稿の結論は、尾張・水戸両藩における尊皇思想継承が一本の線でつながっているように見えるというものです。
 尾張藩初代藩主・義直の遺訓「王命に依って催さるる事」の継承と、義公以来の尊皇思想の継承とが連動していたのではないかとの仮説です。一つだけ例を挙げれば、水戸においては、義公の遺訓は第6代藩主・治保(文公)に継承され、さらに文公から第7代藩主・治紀(武公)に継承されましたが、『武公遺事』には「我等は将軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなば、少(いささか)も将軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり」と書かれています。
 この表現から直ちに想起されるのが、尾張藩における「王命に依って催さるる事」の継承です。尾張藩第4代藩主・吉通に仕えた近松茂矩が著した『円覚院様御伝十五ヶ条』には、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と書かれています。
 この表現の一致にとどまらず、水戸と尾張が尊皇思想の継承・展開で協力していたことを窺わせる事実もあります。

 さて、水戸藩における義公の遺訓継承を調べていた際に出会ったのが、渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』です。渋沢が、かつて仕えた慶喜(江戸幕府最後の将軍)の伝記編纂を志したのは、明治26(1893)年頃とされています。明治維新に際して、慶喜がどのような考えで動いたのか、その真意を正しく後世に伝えたいという、熱い思いによるものでした。渋沢は、四半世紀もの歳月を費やして、ついに大正7(1918)年、『徳川慶喜公伝』全8巻を刊行しました。その第4巻には、義公の尊皇思想継承を伝える重大な記述があるのです。
徳川慶喜

 〈明治34年の頃、私、渋沢栄一が大磯から帰る汽車の中で、伊藤博文公爵と出会ったとき、伊藤公爵が次のような話をされました。
「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえておられますが、私は立派な大名の一人くらいに思っておりましたが、今はじめて慶喜公という方は普通の人でない非常に優れた立派な方であると言うことを知りました」
 伊藤公は、なかなか人を信用し認めない方であるのに、いまこのように話されるのは、と疑問に思ったので、「なぜですか?」とたずねました所、「一昨夜、有栖川宮家で、スペインの王族の方を迎えて晩餐会があり、慶喜公も私も相客に招かれ、宴会が終わってお客が帰られた後、私は慶喜公に『維新のはじめに貴方が尊王というものを大事に考えられたのは、どのような動機からですか?』とたずねたところ、慶喜公は迷惑そうに『自分はただ昔からの家の教えを守ったに過ぎません。ご承知のように水戸は義公の時代から皇室を尊ぶということをすべての基準にしてまいりました。私の父、斉昭も同様の志しを貫いておりまして、常々の教えも、我らは三家(水戸藩・尾張藩・紀伊藩)三卿(田安家・一橋家・清水家)の一つとして、幕府をお助けすることは勿論でありますが、これから後、朝廷と徳川本家との間で争いが起きて、戦争でもするような大変なことにもならないとも限らないが、そのような場合には、水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである。もしもの時のためにお前に言っておく。と教えられてきました。しかし、幼いときは、それほど大事な事とは考えていませんでしたが、二十に成り、(安政4年・1857)小石川の水戸家の屋敷に参りましたとき、父、斉昭は姿勢を正して、現在は黒船が来たりして大変な時代に成っている。この後、世の中はどのように変わって行くか分からない、お前も20歳になったのであるから、先祖から代々教え継がれて来た水戸家の家訓を忘れるではないぞ。と言われました。この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまででございます』と慶喜公は答えられました。
 本当に奥ゆかしい答えではありませんか。慶喜公は本当に偉大な方です。と伊藤公が言われました。私は後に慶喜公にお会いした時に、このことを尋ねましたら、「そのような事があったなあ」とおっしゃいました〉(常磐神社社務所HP現代語訳)
 水戸では、この慶喜の発言を、水戸学の本義に関する重大事として重視し、慶喜に至る水戸藩における遺訓継承が探求されてきました。例えば、名越時正先生は昭和62年10月に『水戸史学』に書いた「徳川慶喜の大政奉還と義公の遺訓」(『水戸学の達成と展開』所収)で詳述しています。
 水戸藩と尾張藩でともに継承された遺訓「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」が、明治維新成就においていかに重要な役割を果たしのたかを、改めて考えるべきだと思います。渋沢と水戸学との関係については、別の機会に書きたいと思います。

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『有鄰』第98号、令和2年12月15日発行)

 『敗戦復興の千年史』の著者で、『維新と興亜』にもご協力いただいている山本直人氏が、『有鄰』第98号(令和2年12月15日発行、東海有鄰会編集・発行)で、7ページに及ぶ拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』の紹介文を書いてくださいました。心より感謝申し上げます。
 また同誌には、元愛知県立高校教諭の廣瀬重見先生の「尾張の藩訓をめぐる考察(五編)」も掲載されています。そこでも拙著について過分の紹介を賜りました。非力を顧みず尾張藩尊皇思想の継承というテーマに挑んだ甲斐があったと感じております。
 拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』執筆に当たっては、廣瀬先生のほか、平泉澄先生の高弟・名越時正先生、水戸史学会理事の梶山孝夫先生、田辺裕先生の先駆的研究を活用させていただきましたが、今回廣瀬先生の論稿から、尾張藩初代藩主・義直公廟所のある定光寺の思い出を大切にされていた稲川誠一先生の事、「水戸学の偉大さは解るが、なぜ尾張の学問を尾張学と言はないのか」が口癖だった富田義孝先生の事などを知り、この分野の研究の蓄積の尊さを改めて感じました。
坪内隆彦著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』(『有鄰』第98号、令和2年12月15日発行、東海有鄰会編集・発行)

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『国体文化』令和2年12月号)

 皇學館大学教授の松本丘先生に、『国体文化』12月号で拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』をご紹介いただきました。各章ごとに丁寧な紹介をしていただいた上、次のようにお書きいただきました。
 〈本書は、尾張藩における勤皇思想を支へてゐたのは、崎門学・垂加神道を始め、国学・君山学派などの学問思想であり、「王命に依って催さるる事」といふ尊い精神は、「魂のリレー」によつて力強く継承されたと著者は述べる。これまで、同じ御三家において醸成された水戸学が、尊皇攘夷思想の発信源であつたことは語り尽くされてきたが、本書によつて、尾張学も大きな役割を果たしてゐたことが明らかになつた。
 そして著者は、明治維新を薩長による権力奪取とする歴史観が近年横行してゐることに対しても、「尊皇排覇の思想は突然幕末になつて生まれたわけではない。江戸初期から思想家たちが命がけで築いた学問の発展と継承の上に、幕末の尊攘思想は花開いた。こうした精神的、思想的連続性を視野に置いた明治維新史を取り戻すべきではないのか。」と慨嘆されてゐるが、今後も著者によつて、維新に至る真の思想史が描き出されてゆくことを期待したい。〉
 身の引き締まる思いです。誠に有難うございました。
『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『国体文化』令和2年12月号)

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『日本』令和2年11月号)

「改めてこのテーマに直面させられることとなった。コロナ禍の憂鬱を吹き飛ばす快著である」
〈新刊紹介〉坪内隆彦著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』(『日本』令和2年11月号)
〈新刊紹介〉坪内隆彦著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』(『日本』令和2年11月号)

日本学協会発行の『日本』令和2年11月号(11月1日発行)に、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』の書評を載せていただきました。評者は廣瀬重見先生です。誠に有難うございます。

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(「宮崎正弘の国際情勢解題」令和2年8月26日)

〈徳川幕府を死守せよ(会津初代藩主、保科正之の遺言)を遵守した慶勝の弟ふたり
  王権が優先すると尾張藩初代藩主は最初から家康政治とは逆さまの発想をしていた
  ♪
坪内隆彦『徳川幕府が怖れた尾張藩』(望楠書房)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
 副題に「知られざる尊皇倒幕論の発火点」とある。
それが徳川御三家の筆頭、尾張藩だという。
「えっ。?」
 幕末の黒白を決めた戊辰戦争は鳥羽・伏見から始まり、薩長の田舎侍に惨敗した慶喜は大阪を捨てて、会津藩主、桑名藩主をともない船で脱走した。みっともない、サムライの美意識にもとると痛烈な批判を産んだ。慶喜は王権の前に怯み、偽の錦旗に震えた。
 会津藩士も新撰組も幕府軍も戦場に置いてきぼりを食らった。
 それにしても、徳川御三家の筆頭は尾張藩である。八代将軍吉宗は和歌山藩から十五代は水戸藩からでたが、尾張には将軍職は廻らなかった。だからその恨みから戊辰では最初に裏切って官軍に付いたと考えるのは短絡的であり、物事には心境の変化、情勢の激変、新状況へ対応がともなう。ましてや、思想戦の趣が濃厚だった。
 こうした尾張藩の倒幕への傾斜が薩長の勝利をもたらす大きな原因となるのだが、何故か、近・現代史家たちは、この重要ポイントを軽視してきた
 その理由として坪内氏は次の諸点をあげる
 第一に薩長は自分たちが中心の薩摩史観を優先させ、徳川政治を過小評価した。
 第二に幕府と尾張藩の長い軋轢は、水戸藩ほど評判とはならなかった。
 第三に水戸は水戸学を確立していたが、尾張には尾張学がなかった。というのも慶勝が藩主となるまでの五十年にわたって幕府から押しつけ養子を強要された結果、国学が停滞した時期が半世紀のも及んだからではないか、とする。
 しかし、評者、もう一点付け加えるとすれば、武士道に悖り、侍の美意識に反すると誤解を受けたことが尾張藩の過小評価に繋がったのではないか。
 ともかく幕末の尾張藩主は徳川慶勝である。
 藩主の弟君たちは会津若松の松平容保。もうひとりは桑名藩主、松平定敬。いずれも官軍と最期まで勇敢に戦い、大砲という近代兵器に叶わずに降伏した。しかし尾張藩は徳川御三家の筆頭。その尾張藩がなぜ宗家に楯突き、西郷、木戸軍の先頭に立ったのか。長い間、維新史の謎とされたミステリーを解いた。
 著者の坪内隆彦氏は元日本経済新聞記者、マハティールとの単独会見などで知られ、現在は『月刊日本』編集長。かたわら意欲的な執筆を続け、歴史著作には『GHQが恐れた崎門学』など問題作がある。
 尾張藩主初代は徳川義直。じつは、この人物が水戸黄門様に影響を与えた。徳川義直は家康の九男である。
 幼い頃から学問が好きで尊皇思想に目覚め、「王命に依って催さるる事」という基本の政治思想確立するのだから、歴史は皮肉なのである。幕府が命じようとも勅命にしたがうことが優先するという遺訓である。
 尾張藩主の哲学は水戸光圀に強烈な思想的影響を与え、江戸の幕府とは「尋常ならざる」緊張関係になっていた。ただし尾張藩での国学は本居宣長、賀茂真淵らが読まれたが、なぜか平田熱胤は軽視された。平田学はむしろ薩摩藩で圧倒的な影響力があった。
 第14代尾張藩主・徳川慶勝は初代藩主の家訓を守る。
「王命に依って催さるる事」とは、幕府を自らが倒すことに繋がり、水戸藩の尊王攘夷派に同時並行した、基本政治哲学優先を貫いた。その結果が徳川宗家十五代の慶喜を蟄居に追い込み、電光石火のごとくに幕府を倒壊させる。
 倒幕というより御三家それぞれの自壊作用が半分ほど官軍勝利に影響したのではないのか。
 実際の倒幕に火をつけたのは水戸であり、あまりの過激さは井伊直弼を売国奴として、桜田門外の変で葬り、精鋭武士をあつめた水戸天狗党は反主流派の変節などで残酷な運命をたどった。
 若き日の吉田松陰は、この水戸へ留学し、会沢正志斉の影響を受けて攘夷思想を固めた。おなじく水戸の藤田東湖は、西郷隆盛に甚大な影響を与えた。
 水戸が維新爆発の発火点であり、尾張は最終のダメ押し、表面の事象をみれば、徳川御三家の内訌という悲劇になる。
しかし内訌は、水戸藩のなかでも、尾張藩のなかでも起きた。もっとも悲劇的な内訌は水戸藩で、「門閥派が水戸藩の実権を握り、天狗党は降伏、(中略)江戸幕府は武田耕雲斎ら二十余名を処刑、さらに諸生派が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した」
その復讐戦も後日、行われ、つまるところ水戸に人材が払底する。
 元治元年(1864)朝廷と幕府は長州征伐をきめるが、政党軍の総督に慶勝が任命されてしまった。
「そこで慶勝は西郷に籠絡されて長州藩を屈服させる機会を逃がした」と痛烈に批判されてきたが、当初から融和策の慶勝が、その構想を西郷とすりあわせ、長州藩の三家老斬で長州を許すことに決めていたのだ。
 第二次長州征伐は慶勝が下交渉をしていた越前、薩摩の反対を押し切っておこなったため、幕府征討軍の士気がなく惨敗を重ねた。かえって大政奉還へと到る。すでに公武合体論は蒸発しており、薩長は倒幕路線に急傾斜していた。慶勝は、公武合体路線論者だったし、弟二人のこともあって、いきなり倒幕に傾いたのではなく、葛藤があった。
 尾張藩では佐幕派の有力者が残っていたため偽の勅命だと言って、処断した。この「青松葉事件」によって尾張藩は倒幕で統一された。
 尾張は、家臣団四十余名を勤王誘引斑として近隣の諸藩を周り、三河、遠江、駿河、美濃、信濃、上野など東海道沿道の大名、旗本領へ派遣し、この慶勝のオルグによって、薩長などの官軍は、東海道を進軍するに、なにほどの抵抗も反撃にも遭遇せず、山梨で新撰組の多少の抵抗はあったものの、すんなりと江戸へ進んだ。
 尾張藩も、会津同様に悲運に見舞われたとしか言いようがない。
 しかし明治十年の西南戦争では、会津旧藩士が「戊辰のかたき」として官軍の先鋭部隊、斬り込み隊として闘ったが、尾張藩士には、そうした動きもなかった。
 筆圧を、その重圧を感じる一冊である。〉

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『維新と興亜』第3号)

 『維新と興亜』(崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌)令和2年8月号に、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』の書評を載せていただきました。評者は、大アジア研究会の小野耕資代表です。
『維新と興亜』(崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌)令和2年8月号
 〈尾張藩にとっての明治維新―。それは一言では語りつくせぬほどの苦悩の歴史である。尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面では当然幕府側についてもおかしくないだけの存在であった。だが、結果的に尾張藩は新政府側につき、徳川幕府に相対する側となった。それはなぜか? それを理解するためには、初代藩主義直が残した「王命に依って催さるる事」の言葉とその背景、そして徳川幕府との暗闘の歴史を見なければならない。そんな隠された歴史に迫ったのが本書である。 続きを読む 『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『維新と興亜』第3号)

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『不二』令和2年10月号)

「初代義直から幕末の慶勝まで、様々な紆余曲折を経てゐるが、本書では、徳川御三家の家格にありながら、『尊皇倒幕』路線に大きく寄与した尾張藩の知られざる一面を浮彫にしてゐる」
〈図書紹介〉坪内隆彦著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』(『不二』令和2年10月号)
『不二』(不二歌道会機関誌)令和2年10月号(10月25日発行)に、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』の書評を載せていただきました。評者は『敗戦復興の千年史』の著者・山本直人氏です。

河村たかし名古屋市長と面会─『徳川幕府が恐れた尾張藩』を通じて

令和2年9月、名古屋市役所で河村たかし市長と面会し、尾張藩の歴史などについてお話をさせていただく機会に恵まれました。名古屋城調査研究センター主幹の栗本規子氏、同主査の原史彦氏、名古屋市観光文化交流局長の松雄俊憲氏にもご同席いただきました。誠に有難うございました。
名古屋市長と河村たかし先生と

拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』で、河村先生の祖先の功績、尾張藩初代藩主・義直公の遺訓「王命に依って催さるる事」の碑など名古屋城に纏わることを書いたのがきっかけです。
以下、尊皇思想発展において河村家の果たした役割について簡単に紹介いたします。
「王命に依って催さるる事」の継承においては、垂加神道派が重要な役割を果たしました。義直の遺訓は、第4代藩主・吉通(垂加神道派)の時代に復興し、吉通に仕えた近松茂矩(垂加神道派)が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化しました。拙著では、その過程で河村先生の祖先に当たる河村家が大きな役割を果たした可能性を指摘しました。河村家の先人としては、河村秀穎(ひでかい)・秀根兄弟と秀根の二男・益根等の名前が知られています。
 尾張藩書物奉行などを歴任した秀穎は、享保3(1718)年に河村秀世の長男として生まれ、天野信景に学びました。一方、秀穎の弟・秀根は、享保8(1723)年に生まれ、将軍吉宗にチャレンジした第7代藩主・宗春の表側小姓を務めました。秀根元服の時には宗春が鋏をとって前髪を落としたともいいます。皇學館大学教授の松本丘先生が作成した「垂加神道系譜」には、垂加神道派の吉見幸和の門人として、藩主吉通、近松茂矩、河村秀穎、秀根が名を連ねています。
 秀頴は安永2(1773)年に、白壁町にあった自宅の2万余の蔵書を同好の人びとに公開することにしました。『論語』にある「以文会友」からとって、この書庫を「文会書庫」と名づけたのが、竹内式部の宝暦事件に連座した伏原宣條だったのです。伏原家(清原家)は平安時代中期の明経博士を務めてきた家であり、河村家との交流があったようです。
 一方、河村家は日本学の発展においても重要な役割を果たしています。秀根は天明5(1785)年に、『日本書紀集解』の執筆に着手、巻15までを書き上げました。ただ、秀根は寛政4(1792)年6月に未完のまま力尽きました。この仕事を引き継いだのが二男の益根であり、その成果は日本書記研究史上「不朽の金字塔」とも評されています。

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』インタビュー

令和2年9月6日に都内で開催された崎門学研究会において、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』について、同研究会の折本龍則代表にインタビューしていただいた。
★動画は崎門チャンネルで。

坪内隆彦『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』

尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面で幕府側についてもおかしくはなかった。ところが尾張藩は最終的に新政府側についた。この決断の謎を解くカギが、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」である。事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
この考え方を突き詰めていけば、尊皇斥覇(王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥ける)の思想となる。その行きつく先は、尊皇倒幕論である。

義直の遺訓は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて19世紀半ば、第14代藩主・慶勝の時代に、茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。「王命に依って催さるる事」の思想がその命脈を保った理由の一つは、義直以来の尊皇思想が崎門学派、君山学派、本居国学派らによって継承されていたからである。
実は初代義直以来、尾張藩と幕府は尋常ならざる関係にあった。幕府は尾張藩に潜伏する「王命に依って催さるる事」を一貫して恐れていたのではないか。何よりも幕府は、鎌倉幕府以来の武家政治が覇道による統治とみなされることを警戒していた。 続きを読む 『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』インタビュー