『徳川幕府が恐れた尾張藩』まえがき

■忘却された尾張藩史
 尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面で幕府側についてもおかしくはなかった。ところが尾張藩は最終的に新政府側についた。この決断の謎を解くカギが、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」である。事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
 この考え方を突き詰めていけば、尊皇斥覇(王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥ける)の思想となる。その行きつく先は、尊皇倒幕論である。
 「王命に依って催さるる事」に象徴される義直の尊皇思想は、幾多の障害を乗り越えてその命脈を保ち、ついに幕末に花開いた。同時に、水戸光圀(義公)らの尊皇思想にも強い影響を与えた。「王命に依って催さるる事」は、大楠公(楠正成)に対する崇拝と不可分だったが、義直の楠公崇拝は、義公による「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑建立にも影響を与えた。ここからは、尾張藩と水戸藩が連携しながら、義直の尊皇思想を継承、発展させた歴史が浮かび上がってくる。
 義直の遺訓は、第四代藩主・徳川吉通(在任期間:一六九九~一七一三年)の時代に復興し、明和元(一七六四)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて十九世紀半ば、第十四代藩主・徳川慶勝の時代に、近松茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。この過程にも、義直以来の楠公精神の継承という地道な思想運動が存在していたのだ。慶勝は、酒宴の時には、山崎闇斎を祖とする崎門学派の浅見絅斎が残した謡曲「楠」を謡わせたともいう。
 ところが、明治期に確立した薩長中心の歴史観においては、尾張藩が果たした役割は過小評価されている。また戦後史観においては、明治維新に至る尊皇思想の発展の歴史が軽視されている。その結果、尾張藩の果たした思想的役割が忘却されてきたのではないか。しかも、同じ御三家でありながら、幕府と尾張藩の軋轢は、幕府と水戸藩の軋轢ほど注目されてこなかった。水戸藩が水戸学という確固たる思想を発展させたのに対して、尾張藩は尾張学の確立には至らなかったことがその理由の一つかもしれない。否、尾張学はあったとしても、それが捉え難いものだったからかもしれない。

坪内隆彦『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』(望楠書房、令和2年8月)

■「尾張が勤皇倒幕の義旗を掲げて立つ」
 実は初代義直以来、尾張藩と幕府は尋常ならざる関係にあったのだ。幕府は尾張藩に潜伏する「王命に依って催さるる事」を一貫して恐れていたのではないか。何よりも幕府は、鎌倉幕府以来の武家政治が覇道による統治とみなされることを警戒していた。
 実際、幕府と尾張藩の関係は度々緊張した。寛永十(一六三三)年に将軍・家光が病に倒れた際、幕閣たちは「義直に謀叛の意あり」と警戒した。この時、義直は本気で家光を倒そうとしたのかもしれない。
 将軍・家綱時代の延宝七(一六七九)年に老中に就いた堀田正俊は、尾張藩を滅亡に追い込もうとしていたとも言われている。正徳三(一七一三)年には、第四代藩主・吉通が急死したが、毒殺説が後を絶たなかった。享保十五(一七三〇)年、第六代藩主・継友が急死した際にも暗殺説が流れた。
 第七代藩主・宗春は将軍・吉宗と全面戦争を戦った末、元文四(一七三九)年に隠居謹慎を命じられ、名古屋城に幽閉された。その四年前の享保二十(一七三五)年に一条兼香は「尾張(宗春)は勤皇倒幕の義旗を掲げて立つに違いないと思った」と日記に記していた。事実、尾張徳川家第十八代当主・徳川義親は、公然と勤皇家として振舞っていた宗春が幕府に警戒された理由は、「若し尾州にして、西に京都、東山、東海を扼して、外様の諸大名を語らつた暁には、幕府にとっては実に由々しき、一大事であつたからである」と述べている。また、安永六(一七七七)年には、宗春に仕えた勤皇派の河村秀根が、京都に通じて謀叛を企てたとして投獄されている。
 十八世紀末には、尾張藩に対する幕府の統制が強まった。尾張藩では、寛政十一(一七九九)年から五十年間、幕府による押し付け養子が藩主を務め、尾張藩は「幕府尾州出張所」のごとき様相を呈していた。これも尾張藩に対する幕府の警戒感の表れである。そして、押し付け養子に反発する尊皇派の後押しを受けて第十四代藩主に就いた慶勝は、安政五(一八五八)年には、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した幕府を厳しく批判し、隠居謹慎に処されている。幕府と尾張藩の間には、以上のような緊張状態が続いていたのである。

■幕府に弾圧された崎門学
 十八世紀半ば以降、尊皇斥覇を強調した崎門学派・垂加神道派の動向を、幕府は最も警戒していた。実際、宝暦九(一七五九)年には、桃園天皇の近臣に講義をした崎門学派の竹内式部が京都から追放される事件が起きている(宝暦事件)。この時には、式部門下の公家とともに富山藩第二代藩主・前田正甫の八男・前田利寛、郡上藩第二代藩主・金森頼錦の五男・金森能蔵も関与した倒幕挙兵の計画があった。明和四(一七六七)年には、同じく崎門学派の山県大弐らが処刑されている(明和事件)。
 こうした崎門学派弾圧に象徴されるように、幕末以前の朝権回復思想の発火点は主に京都だった。だが、我々は尾張藩においても尊皇倒幕運動が存在した可能性について再考すべきではなかろうか。幕府と尾張藩の関係が度々緊張したのも、そうした尊皇思想の高まりと無関係ではない。明治時代の新聞記者・三田村鳶魚は「尾藩の尊王論が義直の遺旨として捧持される限り、幕府が排尾に固執する理由もある。江戸時代に尊王論ほどなイヤがらせはないのです」と述べているほどだ(『御家騒動』)。
 そして、「王命に依って催さるる事」の継承は、崎門学派弾圧事件と連動していた。「王命に依って催さるる事」の継承を支えていたのは、ほかならぬ崎門学派であった。吉通も近松茂矩もともに崎門学派であった。茂矩の『円覚院様御伝十五ヶ条』が、宝暦事件と明和事件の間の明和元年に著されたことに注目すべきだ。実は、式部と茂矩は、垂加神道派の玉木正英が自ら大成した橘家神道でもつながっていた。式部の家宅捜索の際、彼の書物の中に『橘家神軍伝』が含まれていた。茂矩もまた、『橘家神軍之伝』を取り入れて独自の流派を創始していた。しかも、茂矩は義直の遺訓「王命に依って催さるる事」が、わが国独自の兵学思想に裏付けられたものであることを理解していた。
 さらに、茂矩が大石内蔵助良雄らの赤穂義士に強い共感を抱いていたのも偶然ではない。大石には、「日神(天照大神)の信仰」を重視した山鹿流の兵学思想が流れていたからだ。

■「幕府─親幕派公家─吉田神道」vs.「朝廷─朝権回復派公家─垂加神道」
 では、幕府が警戒する中で、いかにして「王命に依って催さるる事」の思想はその命脈を保ったのか。尾張藩では義直以来の尊皇思想が崎門学派、また松平君山にはじまる君山学派、本居国学派らによって継承されていたからである。そして、幕府による押し付け養子に反発し、慶勝擁立を主導したのは、国学派の植松茂岳、茜部相嘉や君山学派の田宮如雲である。
 初代藩主・義直の尊皇思想、それを継承した尾張藩尊皇派の思想と行動を支えていたものこそ、失われた朝廷の権威を回復するという天皇のご意志だったのではないか。
 天皇を敬して遠ざけるという幕府の基本政策の中にあって、御水尾天皇、霊元天皇、桜町天皇、桃園天皇、光格天皇、孝明天皇をはじめとする天皇は朝権回復のご意志を明確にされた。それは、天皇親政の黄金時代と呼ばれた、醍醐天皇(在位:八九七~九三〇年)、村上天皇(同:九四六~九六七年)時代の延喜・天暦の御治政の回復である。承久の変における後鳥羽・土御門・順徳の三天皇の悲劇、建武中興における後醍醐天皇の挫折に心を寄せ、朝権回復のご意志を支えようとしたのが、崎門学派に代表される尊皇斥覇の思想だったのではないか。
 例えば、霊元天皇側近の一条兼輝は正親町公通から垂加神道の口訣を受けていた。また、霊元天皇ご自身も垂加神道を理解し、信仰を寄せられていたと推測される。霊元天皇は山崎闇斎の垂加霊社を境内にお祀りしている下御霊神社を特別に崇敬されていた。
 ところが、幕府に阿り朝権回復のご意志を阻止しようとする公家が存在した。例えば、霊元上皇時代の関白・近衛基煕である。霊元上皇のご祈願文は、基煕の孫の関白・近衛家久を「悪臣」、「邪臣」と呼んで厳しく批判されている。ここで注目すべきは、幕府の優遇を受けていた吉田神道派と近衛基煕とのつながりである。つまり、「幕府─親幕派公家(近衛家等)─吉田神道」と「朝廷─朝権回復派公家(一条家・九条家等)─垂加神道」の対立という構図が浮かび上がってくるのだ。そして、徳川御三家であるにもかかわらず、時として尾張藩は朝廷側を支える強力な存在として動いていたかに見える。
 朝廷と尾張藩は崎門学でつながっていただけではなく、有職故実研究によっても結ばれていた。例えば、名古屋市長の河村たかし氏の祖先にあたる河村家の学問は「紀典学」に結実し、尾張藩尊皇思想の発展に貢献したが、河村家は、平安時代中期の明経博士清原広澄を氏祖とする清原家(伏原家)との交流があった。例えば、安永二(一七七三)年には、河村家が収集した二万冊もの書籍を一般公開するために「文会書庫」が設けられたが、それを命名し書を贈ったのは、伏原宣條である。宣條は宝暦事件で追放された崎門学派の竹内式部の門人でもある。皇學館大学教授の松本丘氏が作成した「垂加神道系譜」には、垂加神道派の門人として河村秀穎、河村秀根が名を連ねている。秀根は第七代藩主・宗春に重用された人物としても知られる。
 そして、尾張藩における有職故実研究、六国史研究もまた、初代藩主・義直に発している。義直が編んだ『類聚日本紀』は六国史の記事を事柄ごとに分類し、さらに古典の諸書によって考究したものであり、その後の尾張藩国史研究の礎となった。
 幕府はなぜ尾張藩を警戒したのか。尾張藩尊皇思想の源流である義直の思想とはいかなるものであり、いかにして継承されたのか。その過程で、尾張藩と朝廷を結ぶ崎門学派はいかなる役割を演じたのか。本書では、知られざる尾張藩の謎に迫る。

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