「日本の真価」カテゴリーアーカイブ

平田派国事犯事件(明治四年)の真相

 明治四年に、矢野玄道、丸山作楽、角田忠行らの平田派国学者が政府から弾圧される事件が起きた。大嘗祭をめぐる路線対立が一因とも言われているが、阪本是丸は『明治維新と国学者』(大明堂、平成五年)の中で、次のように書いている。
「……(角田)忠行らの拘禁事件はいわゆる明治四年の平田派国事犯事件と称されるものであるが、その原因・背景は詳細にはわかっていない。大嘗祭を東京で挙行しようとしていた神祇官の少副の福羽美静が、それに反対して京都での挙行を強固に主張・運動している角田忠行、矢野玄道らを抑圧するために拘禁させた事件ともいわれている。しかし、丸山作楽が政府の外交政策に不満をもち、征韓論を主張して不平士族の朝鮮派兵を画策しているとの情報を政府は把握しており、忠行、矢野らと丸山との関係には密接なものがあった。真相は明らかではないが、丸山との関係が中核となってこの事件となったと考えられる。いずれにせよ、忠行、矢野らも事件の真相については何も語っておらず、状況証拠にも乏しい。大雑把にいうならば、三条実美、木戸孝允、大久保利通ら政府首脳による尊攘派にたいする弾圧策の一環であろう。
 後になって忠行らはこの拘禁が福羽美静の策謀によるものであると樹下茂国から知らされた。しかし『矢野玄道』で矢野太郎が、「旧慣打破を以て文明開化の能事と考へて居た当時一部の為政者には、たとへ福羽子の事なくとも、かかる主張は随分うるさい物であつたに相違ない。されば此大嘗祭が翁等の厄難の一原因であつたらうが、ここに至るまでには猶幾多嫌疑を招く原因も有つたやうだ」と述べているように(同書、一九八頁)、矢野玄道、丸山作楽、角田忠行、権田直助といった平田派有力国学者の集団的行動には、政府もかなりの注意をしていたのであろう。この事件の背景には、単に大嘗祭問題だけではなく、もっと大きな反政府運動の展開があったのである」
 事件の背後で、文明開化路線に舵を切ろうとした明治政府と、維新の貫徹を目指す勢力の熾烈な綱引きが展開されていたのであろう。
(写真は丸山作楽)

國體についての国民的合意が求められている─中村武彦氏『尊皇攘夷』

 対米従属から脱し、國體を回復するための本物の維新が、いま求められている。その際、重要になってくるのが、國體についての国民的合意にほかならない。
 民族派の重鎮中村武彦氏は『尊皇攘夷』(今日の問題社、昭和44年)において、次のように指摘していた。
 〈尊攘派と対立した形の開国論者及び佐幕派の人々も、尊皇攘夷の基本精神においては共通していた。意見として対立したのは、開国へ持って行く時期、順序、方法の違いだけであった。当時の日本人はみな常識として日本の歴史を知り、国体観念を持っていた。頼山陽の日本外史や会沢正志斎の新論は、幕末、書物を読むほどの者なら、武士だけでなく、全国の農民商人の間でもひろく読まれ、共鳴されていた。
 幕末の尊攘維新運動の背後には、このような、いわば広汎なる国民的合意のあったことを見落してはならない。さればこそ、一たび大政奉還から皇政復古への道が決定するや、待っていましたとばかりに国を挙げて維新開明の大行進が始まり、全世界が瞠目する明治の奇蹟的な飛躍発展が行はれたのである。現代日本との根本的な違いが此処にある。
 現代日本には頼山陽なく、水戸学なく、ただ圧倒的なる共産主義の宣伝と、所謂三S政策の影響のみがある。占領下に植民地教育を強制されて以来、今なお日本人、殊に若い世代の歴史と国体に関する無知には、救い難いものがある。肇国の神話も明治維新の歴史も教えられず、楠正成も乃木希典も知らない。世界の何処にこのような自虐的な教育をしている国家があろう〉
 中村氏がこう書いてから45年あまりを経た現在も、状況は変わっていない。

「天皇親政」は例外ではない─田中卓氏『平泉史学の真髄』

 日本の歴史の大きな流れから言えば、「象徴天皇」が普通であって、「天皇親政」は例外だという見方がある。これに対して、田中卓氏は『平泉史学の真髄』(図書刊行会)において、神武天皇、崇神天皇、垂仁天皇、雄略天皇、天智天皇、斉明天皇、天武天皇などの御事績を説明した上で、次のように書いている。
〈二千年におよぶ日本の長い歴史の中では、平和な時代と非常の時とがありました。その非常時に、優れた天子様が現れて、「天皇親政」の輝かしい働きをされる。そしてそのお方に対する国民の感動、尊皇の精神といふものが歴史発展の原動力、道徳的エネルギーとなつてゐるのです。そしてその歴史の中間といひますか、泰平無事の時代も、天皇はじつとしてをられるやうに見えても、常に国民のことを第一に考へられ、毎日、国家・国民のために祭祀を斎行されて、皇祖皇宗の御遺訓を守つてこられたのです。そこで一般には皇位を侵さうとするやうな反逆者は殆ど出て来なかつた、仮に出て来ても、それを防いで、天皇をお護りする、いはゆる忠臣義士が現れて来た。その忠臣義士は、さういふ「天皇親政」を如実に示された陛下に対する感動と感謝、それに酬いる報恩の志があつて、進んで一命をささげて日本の国体をお護りしてきたのです。「天皇親政」を日本歴史の〝例外〟などといふ歴史家は、本末を取り違へてゐるのです。論より証拠、日本の歴史から、神武天皇以下、先程申しあげた「親政」の顕著な天皇の御名前を全部取り除いて御覧なさい。これで果して日本の歴史は成り立ちますか。逆に、これらの「親政天皇」の御事蹟だけを抄録すれば、それで立派に日本の通史は出来上るのです
仮にいへば、一本の竹が風雨の中でも丈夫なのは、竹に節があるからです。その節に当るのが非常の時に「親政」を実践せられてきた諸天皇なのです。節がしつかりしてゐますから、途中は空洞でも竹は持ちこたへられる。もしこの節に当るお働きをされる天皇が無く、すべて雛人形の内裏様のやうに、いつも床の間に只座つてをられるだけだつたとしたら、今後の皇室はどうなりますか。国家国民の平安を祈られる天皇の祭祀は、勿論、何よりも有難いことでありますが、それだけならば伊勢の神宮でも、出雲大社でも、いや、すべての神社で、同様な祭祀は行はれてゐるのです〉

西郷南洲と大塩平八郎─三島由紀夫「革命の哲学としての陽明学」

 
 西郷南洲の思想と行動は、禅、陽明学、崎門学など多様な思想によって培われたとされている。こうした中で、南洲に陽明学の流れを見出そうとしたのが、三島由紀夫であった。
 三島は、昭和45年9月の『諸君!』に発表した「革命の哲学としての陽明学」(同年10月刊『行動学入門』に収録)で、次のように指摘している。
 〈西郷には「南洲遺訓」といふもう一つの著書があるが、ここにも陽明学の遠い思想的な影響は随所に見られる。たとへば「遺訓」の追加の部分の「事に当り、思慮の乏しきを憂ふることなかれ」といふ一行や、岸良眞二郎との問答の中の「猶豫狐疑は第一毒病にて害をなすこと甚だ多し」「猶豫は義心の不足より発するものなり」と言つてゐるところ、また「大丈夫僥倖を頼むべからず、大事に臨んでは是非機会は引起さずんばあるべからず、英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機会は、跡より見る時は僥倖のやうに見ゆ、気を付くべき所なり」などといふところがさうである。また「遺訓」の問答の「三」では「知と能とは天然固有のものなれば『無智の智は慮らずして知り、無能の能は学ばずして能くす』と。これ何物ぞや、それただ心の所為にあらずや、心明らかなれば知もまた明らかなるところに発すべし」といつてゐるが、その中の引用は王陽明の語そのままでさへある。しかしながら、西郷隆盛の言葉のうちでもつとも大塩平八郎と深い因縁を結んでゐるやうに思はれるのは、次の箇所である。
 聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚(とて)も企て及ばぬと云ふ様なる心ならば、戦に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。朱子も自刄を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を読み、其の処分せられたる心を身に体し心に験する修行致さず、唯个様の言个様の事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論する共、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空く読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。(西郷南洲遺訓ノ三六)

 この文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させるのである〉

崎門の真価─平泉澄先生『明治の源流』「望楠軒」

 崎門学が明治維新の原動力の一つであったことを良く示す文章が、平泉澄先生の『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)に収められた「望楠軒」の一節である。
 〈ここに殆んど不思議と思はれるのは、水戸の大日本史編修と時を同じうして、山崎闇斎が倭鑑の撰述に着手した事である。一つは江戸であり、今一つは京都である。一つは水戸藩の総力をあげての事業であり、今一つは学者個人の努力である。大小軽重の差はあるが、その目ざす所は一つであり、そして国史上最も困難なる南北の紛乱を、大義を以て裁断した点も同趣同様であった。但し問題は、処士一個の事業としては、あまりに大きかった。闇斎は、明暦三年の正月より筆を執り、そして少くとも二十数年間、鋭意努力したに拘らず、完成に至らずして天和二年(西暦一六八二年)九月、六十六歳を以て歿し、倭鑑の草稿もまた散逸してしまった。只その目録のみ、門人植田玄節によって伝へられた。それによれば、後醍醐天皇を本紀に立て、光厳、光明紀を之に附載し、後村上天皇を本紀に立て、光明、崇光、後光厳、後円融、後小松紀を之に附録し、そして明徳二年十月二日、三種神器入洛の事を特筆大書したといふ。して見れば是れは、水戸の大日本史と同じ見識であったとしなければならぬ。 続きを読む 崎門の真価─平泉澄先生『明治の源流』「望楠軒」

若林強斎『雑話筆記』輪読(平成27年1月12日)

 平成27年1月12日、崎門学研究会で若林強斎先生の『雑話筆記』67~72頁まで輪読(近藤啓吾先生校注の『神道大系 論説編 13 垂加神道 下』収録)。
 引き続き、陰陽五行、易のこと。「山崎先生ノ、易ハ唐土ノ神代巻、神代巻ハ日本ノ易ジヤト仰ラレタガ、格言ニテ候」(72頁)

●元亨利貞(げんこうりてい)
 易経で乾(けん)の卦(け)を説明する語。「元」を万物の始、善の長、「亨」を万物の長、「利」を万物の生育、「貞」を万物の成就と解し、天の四徳として春夏秋冬、仁礼義智に配する。(大辞林 第三版)

●邵康節(しょうこうせつ)=邵雍 (しょうよう)
 中国,北宋の学者,詩人。共城 (河南省) の人。字,堯夫 (ぎょうふ) 。その諡によって邵康節と呼ばれることも多い。幼少から才名が高く,李之才から図書,天文,易数を学んで,仁宗の嘉祐年間に,将作監主簿に推されたが固辞し,一生を市井の学者として終った。(ブリタニカ国際大百科事典)

●河図洛書(かとらくしょ)
 中国古代に黄河と洛水のなかから出現したといわれる神秘的な図で,天地の理法を象徴しているともいわれる。『易』繋辞上伝に「河,図を出し,洛,書を出し,聖人之に則 (のっと) る」とあり,また『論語』子罕編にも「河,図を出さず」の有名な語がある。(ブリタニカ国際大百科事典)

江戸時代に国民の皇室に対する関心は低かったのか?─鳥巣通明『明治維新』の主張

 
 果たして、江戸時代に国民の皇室に対する関心は低かったのか。
 平泉澄先生門下の鳥巣通明は、『明治維新 日本人のための国史叢書7』(日本教文社、昭和40年)において次のように書いている。
 「近頃の学者の中には、江戸時代には幕府の権勢が強かったので国民の皇室に対する関心はとぼしかった、むしろ、皇室は国民にとって縁の無い存在であった、とまことしやかに説く者がいる。だが、それは例の特定の政治的意図にもとづく発言にすぎず、まったくの誤りである。日本民族の間には遠い昔から皇室に対する敬愛の情が流れていた。全国的統一が失われ、皇室の式微がはなはだしかったあの戦国時代でも、民衆の間には、尊皇の伝統は強く生きていた」

後鳥羽上皇・順徳上皇御製─平泉澄先生『物語日本史 中』より

 承久の乱の結果、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に配流となり、土御門上皇は自ら土佐にお遷りになった。平泉澄先生の『物語日本史 中』(講談社学術文庫、158-159頁)には、後鳥羽上皇と順徳上皇の歌が引かれている。

○後鳥羽上皇
  ながらへて たとへば末に 帰るとも
    憂きはこの世の 都なりけり

  我こそは 新島守よ 隠岐の海の
    荒き浪風 心して吹け

  百千鳥(ももちどり) 囀(さえず)る空は かはらねど
    我身の春は あらたまりつつ

  古里を しのぶの軒に 風過ぎて
    苔のたもとに にほふ橘

  問はるるも うれしくも無し 此の海を
    渡らぬ人の なけの情は

○順徳上皇
  人ならぬ 岩木も更に 悲しきは
    三つの小島の 秋の夕暮

  かこつべき 野原の露の 虫の首も
    我れより弱き 秋の夕ぐれ

  むすびあへぬ 春の夢路の ほどなきに
    いくたび花の 咲きて散るらむ

鎌倉幕府を糾弾した崎門学派─鳥巣通明『恋闕』「承久中興の本義」

 平泉澄先生門下の鳥巣通明は『恋闕』に収めた「承久中興の本義」において、皇政復古を阻んだ北条氏(鎌倉幕府)を糾弾した崎門学について次のように書いている。
 〈……徳川政権下にもつとも端的明確に泰時を糾弾したのは山崎闇斎先生の学統をうけた人々であつた。崎門に於いて、北条がしばしばとりあげられ批判せられたことは、たとへば、「浅見安正先生学談」に
  北条九代ミゴトニ治メテモ乱臣ゾ
また、
  名分ヲ立テ、春秋ノ意デミレバ北条ノ式目ヤ、足利ガ今川ノ書ハ、チリモハイモナイ
などと見えることによつても明らかである。(中略)
 所謂「貞永式目の日」を 三上皇に於かせられては絶海の孤島にわびしくお過し遊されたのであるが、しかもこれほどの重大事な恐懼せず、慙愧することなくして北条の民政をたゝヘた時代がかつてあつたこと、否、それをたゝへる人々が現に史学界の「大家」として令名をほしいまゝにしてゐるのを思ふ時、それ等の人々の尊皇と民政を二元的に見る立場、不臣の行為すら「善政」によつて償はれるとする立場をきびしく批判した崎門学派の日本思想史上に占むる地位はおのづから明らかであらう。また儒学を学びつゝもその道徳哲理をわが国ぶりに於いて理解した崎門の人々、わが古典に思をひそめてふかく神道に参じた崎門の人々の学績を刻明にあとづけることを怠り、この学派の基本的性格を以で支那的名分論なりと論じさることの如何にあやまれるかも、かくて了知されるであらう。しかしてわれわれは、以上の如くその史論に於いて泰時を許さず、鎌倉幕府を否定したこの派の正系につらなる人々が、自ら生を享けし日に於いて、遂に徳川幕府及びその支配下の大名に仕へることをいさぎよしとせず、また一言半句も武家政権に阿附せず、あるひは一生処士として恋闕の至情に生きぬき、あるひは宝暦明和にはじまる排幕運動をまき起したことを、この上もなくゆかしくたふとく思ふのである〉

「幕府」は過去の幕府政治を美化する─平泉澄先生「国史の威力」

 時の権力は、自らの政治を正統化するために、過去の幕府政治を美化するものなのか。國體に照らして、その政治の在り方に批判の余地がある場合には、なおさら。
 例えば、東條政権においても驚くような歴史の書き換えが行われていた。田中卓氏は次のように書いている。
 〈……昭和十八年改訂の文部省の国定教科書『初等科国史』を取りあげることとしよう。その中に、道鏡が皇位を得ようとする野望にたいして、和気清麻呂が宇佐八幡の神託を奉答する有名なくだりがある。この箇所では、従来のすべての教科書に、必ず「道鏡は大いに怒つて清麻呂を大隅に流し、しかもその途中で殺させようとはかつた」ことが書かれてゐたのに、改訂版ではこれをわざと省略し、清麻呂の奉答によつて、「なみゐる朝臣は、すくはれたやうに、ほつとしました。あたりは水を打つたやうな静けさです。清麻呂のこの奏上によつて、無道の道鏡は面目をうしなひ、尊いわが国体は光を放ちました。」と、新しく美字麗句を書き加へてゐる。
 また鎌倉幕府についても、創始者の源頼朝の尊王敬神を強調し、「頼朝は、鎌倉の役所を整へ、ますます政治にはげみました。」と、まるで幕府政治が天皇の大政翼賛であるかのやうな叙述に改められた。一方、倒幕を志された後鳥羽上皇の記事は縮小され、これまでの教科書で特筆されてゐた上皇の悲痛な御歌「われこそは新島守よおきの海のあらきなみ風こゝろして吹け」も、けづられてしまつてゐる〉 続きを読む 「幕府」は過去の幕府政治を美化する─平泉澄先生「国史の威力」