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権藤家と朝権回復運動─権藤宕山と田中宜卿(『久留米人物誌』より)

 権藤家のうち、朝権回復運動に関わる人物に関して、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。

権藤宕山(とうざん)
 寛文四年(一六六四)、権藤種良の長男として出生。名は栄政(よしまさ)、医名は寿堅、宕山と号する。祖父種茂の親友であった柳川の安東省庵(京都堀川講習堂の開祖松永尺五の門下で、柳川藩の碩学)に師事した。省庵は明の鄭一元が長崎に亡命して来た時、宕山を長崎にやって、薬学を鄭一元に学ばせた。その後、江戸に行き、権藤種賢(祖父の兄八右衛門種公の第二子)について診察術を学んだ。業成って帰郷したが、その医名は四方に聞え、諸侯から招かれたがすべて辞退した。
 元禄年中(一六八八─一七〇三)京より逃げきて高良山五十世座主寂源をたずねて、高良山に隠棲し、帰雲翁と称した大中臣友安に就いて典制の学を学んだ。秘書「南淵書」を授けられた。この南淵書こそ、昭和初期の社会運動に大きな思想的影響をあたえた、宕山の裔「権藤成卿」の思想の原拠である。
 宕山は医業を子の寿侃(じゅがん)にゆずり、帰雲翁に啓発された制度律令を専心に研究し始め、愛宕山の南に居を新築し、「宕山隠士」と号した。来り学ぶ者が多かった。宕山は実学を重んじ、高良山座主寂源を説いて、高良山に大和杉六十余万本を植えさせ、また二子の種英を三潴郡一丁原に移住させ、農聖北村正典の遺法を継ぎ、原野の開墾をさせた。宕山の学はかく実用を主として「我が道は飲食・男女・衣服・住居にあり」と言い、安民八綱・五刑の論を立て、礼刑の別を正した。享保十五年(一七三〇)四月六日没。享年六七。墓は御井町隈山墓地。宕山没すると、愛宕山の宕山の塾は、その高弟田中宜卿(ぎけい)が塾師として、宕山の学統を継いだ。

田中宜卿
 田中勘兵衛道経(玄樹と称し、医師、宝永三年三月二十一日没、享年七八)の長男、浩蔵と称し、名は宜卿。医名は玄伯、初め医業を大坂に開いたが、のち府中に来って権藤宕山に儒医を学び、高弟第一となる。宕山没後は遺塾の塾師となり、宕山の学続を伝えた。
 宜卿はかって尊王首唱者の竹内式部と交った。宝暦八年、幕府が公卿十七人の官爵を削り、式部等二十余人を都の外に追放した事件は、遠く府中に在る宜卿の身にもその嫌疑が及んだ。宜卿は師宕山の没後、二十有余年間の熟師としての身を、それ以来、客にも接せず、十七年間謹慎した。しかし、この間、宕山の嫡孫寿達に、宕山よりわが学び得たところを伝えた。安永四年(一七七五)二月二十六日没。墓は御井町隈山の権藤家墓域。
 宕山が高良山の隠士帰雲翁から授与された秘書「南淵書」は、宕山没後、宜卿が秘蔵していたが、宜卿の没後。転々とした(「府中「権藤氏」について」8頁参照)末、大正の初年になって、宕山五世の孫の権藤成卿の手に帰し、成卿の思想の淵源となった。