「西洋近代への抵抗」カテゴリーアーカイブ

東亜同文書院卒業生と主体的外交思潮

 GHQによる占領、東西冷戦勃発を経て、わが国が対米追従外交を強めていく中で、主体的な外交や貿易を模索する思潮は辛うじて継続していた。
 それを支えた一因が、戦前派の指導者の存在だったが、東亜同文書院卒業生の活躍も無関係とは思えない。代表的な東亜同文書院卒業生を分野別に挙げる。

マスコミ
 田中香苗(毎日新聞社長)
 山西由之(東京放送社長)
 長岡村大(テレビ高知社長)
 伊藤喜久蔵(東京新聞論説委員)
 大西斎(東京朝日新聞論説委員室主幹)
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「興亜の歴史を上海に見つける」①─『上海歴史ガイドマップ』

 
 「興亜の歴史を上海に見つける」。そんな願望に応えてくれる本を、ようやく発見した。首都大学東京教授の木之内誠氏が著した『上海歴史ガイドマップ 増補改訂版』(大修館書店、2011年12月)だ。
 「BOOKデータベース」には、〈上海の主要街区の過去と現在を地図に表した「地図編」と、歴史的建築や観光スポットなどの名所旧跡等、823項目を解説した「解説編」で構成される〉と書かれている。
 まずは、東亜同文書院の場所を確認した。
 地図編26「新華路」の交通大学駅南に「東亜同文書院 1937-1945」と表記されている。
 現名は黒、歴史的名称(1949年以前)は赤、歴史的名称(1949年以降)は緑で書かれているのだ。

アジア主義の理想を再考するために①

 日本近代のアジア主義の理想を把握するために何を読むべきか。筆者はまず、興亜の先覚者荒尾精の伝記を挙げたい。その中でも、井上雅二著『巨人荒尾精』(東亜同文会)は、日本人が一読すべき著作だと信ずる。
 いま覇権主義を強める中国と、100年、200年、いや1000年単位で、どう共存するかを考えるために。アジア主義の理想を理解する必要があるのではないか。
 『巨人荒尾精』冒頭に載せられた、近衛篤麿公の「東方斎荒尾君の碑」を噛みしめたい。

「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間

 大東亜戦争はアジア解放の聖戦だったのか。開戦後、米軍を駆逐したフィリピンの現状を直視した望月重信大尉が放った言葉は、大東亜共栄圏建設の理想と現実を抉り出す。
 皇道を体現した望月大尉のことを筆者が初めて書いたのは、『月刊日本』2006年12月号でアルテミオ・リカルテを取り上げたときのことである。
 2013年5月22日には、靖国神社正殿で「望月重信師永代神楽祭」が執り行われた。ここには、望月大尉の故郷長野の太平観音堂の藤本光世住職をはじめ、大尉とご縁の深い方々が参集した。その関係者から貴重な資料をお預かりした。望月大尉祖述(太平塾生・法子いせ謹記)の「死士道 国生み」である。そこには、アジア解放の持つ途轍もなく重い意味が示されていた。
 大東亜戦争開戦後、日本軍は米軍を放逐しマニラ市に上陸した。アメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡、1942年の上半期中に日本軍はフィリピン全土を占領した。陸軍宣伝班に所属していた望月大尉は、1942年末に、フィリピンを支える国士を作りたいと決意し、マニラ南方のタール湖周辺の保養地タガイタイ高原に、皇道主義教育の拠点「タガイタイ教育隊」を設立した。そして、1943年10月14日、フィリピンでは日本軍の軍政が撤廃された。この瞬間について、望月大尉は次のように述べている。
 「新比島の国旗がするすると掲げられた。如何に多くの志士がこの荘厳なる刹那の為に血を以て戦ひ続けた事であるか。又この為にこそ如何に甚大なる皇軍将校の尊い犠牲が支払はれた事であるか。
 吾等の眼は間隙の涙にむせんで最早国旗をまともに仰ぐ事が出来なかつた」 続きを読む 「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間

近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志

文麿に引き継がれた興亜思想
 「……帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。……この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。……惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に渕源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり」
 昭和十三年十一月三日、近衛文麿首相の東亜新秩序声明に国民は沸き立った。頭山満はこの声明を誰よりも感慨深く聞き、文麿の父篤麿が亡くなった日のことを思い起こしていたことだろう。東亜新秩序声明を書いたのは、大正四年に東亜同文書院に入学し、篤麿の盟友、根津一院長に可愛がられた中山優である。
 興亜陣営の強い期待を背負いながら、篤麿が四十歳の若さで亡くなったのは、明治三十七年一月二日のことであった。当時頭山は四十八歳、文麿は十二歳、弟の秀麿は五歳だった。
 『近衛篤麿』を著した山本茂樹氏は、「篤麿が存命で強力なリーダーシップを発揮した場合、支那保全論から一歩進んで、アジアの解放とアジア諸民族の結束を意味するアジア主義を新たな国家目標として設定できた可能性もあった。それというのも……篤麿こそは、数あるアジア主義者の中でも、強力な指導力と日本の朝野のアジア主義者たちを糾合出来る求心力を十分に持つほとんど唯一の存在であり、しかも天皇に最も近い立場にあって、将来の首相候補として真っ先に挙げられ、欧米だけでなくアジアの国々での知名度も高かったからである」と書いている。だからこそ、地方の抜け目のない金持ちたちは、篤麿がいずれ首相になる人物だと見込んで、彼に多額の献金をしていた。ところが、どういうわけか篤麿は受け取った献金に対して必ず借用証書を出し、個人の借金にしていた。これが祟った。 続きを読む 近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志

大倉邦彦と東亜同文書院

 大倉邦彦が県立佐賀中学校在学中の明治三十四年十月、上海の東亜同文書院の院長・根津一が来校して講演、清国情勢と我が国の政策について述べた。根津は、荒尾精の盟友として活躍した興亜思想の先駆者である。
 邦彦はこの根津の講演を聞き、興亜の志を抱き、東亜同文書院に進学することを決意する。
 ところが、母ヱツは「そんな遠いところに行かなくても」と、泣いて引き留めようとした。邦彦は、「単に東京の名に憧れて都の学校に入って職にありつくよりも、シナへ行って今に総督の顧問になる方が私に適っています」と母を説得、明治三十六年九月上海に赴き、東亜同文書院商務科に進んだのだった。
 上海での体験は、若き邦彦に強い影響を与えた。晩年の邦彦と交流した、平泉澄門下の村尾次郎は、邦彦が上海などで目撃した光景について、次のように書いている。
 「上海あるいは天津におります時分に、大倉邦彦は非常に深い悩みに閉ざされていたのです。当時の清国は列強の侵食するところとなっており、上海も天津も、大きな港は列強の利権の場所となっていました。(中略)大倉邦彦青年が散歩しながらつくづくと思ったのは、公園の入口に『犬と支那人は入るべからず』と書いてある、何と情けないことだ、自分の国の人間が犬以下に扱われるという清国の窮状、それはアジア全体の窮状であると思われました」(村尾次郎「創立者大倉邦彦の人と思想」『大倉邦彦と精神文化研究所』平成十四年、三十九頁)。

日支親善の実行者『盛京時報』

 東亜同文書院第26期生(昭和5年)若宮二郎、大久保英久、宮澤敝七と祖父川瀬徳男の4名が残した旅行記「白樺の口吻」には、奉天の西田病院と並んで、盛京時報社が「真の日支親善の実行者」であると書かれている。
 まず、盛京時報社について基本的なことを確認しておきたい。『盛京時報』は、1906年10月18日、満州初の日本人経営漢字新聞として創刊された。以来、1945年までの38年間にわたって、多くの報道・社説・文芸作品などを発表した。
 同紙刊行を主導したのは、北京で漢字新聞『順天時報』を経営していた中島真雄である。創刊時主要メンバーには、中島のほかに、主筆稲垣伸太郎、営業担当の一宮房太郎、染谷宝蔵、編集担当の佐藤善雄がいた。
 中島は、日本奉天総領事萩原守一から資金提供を受けるとともに、奉天の清政府官員と交渉して、記者の採用、職員の募集などの支援を得ている。奉天民政使張元奇、奉天交渉局長陶大均など満州の清政府有力者からも協力を得た。
 華京碩氏によると、1915年に中島真雄の支援金着服疑惑が発生し、警告処分を受けて以降、『盛京時報』の紙面に外務省の主張に反する記事が出るようになった。
 1926年には、東亜同文書院で教鞭をとっていた佐原篤介が社長に就任し、時事問題を論じ、言論界で重要な役割を果たすようになる。

対米自立阻止のために流れるCIAマネー

 2009年6月の鳩山由紀夫政権誕生に狼狽し、安倍政権によって日本を一気に親米に巻き戻そうとしているアメリカは、かつて1956年12月の石橋湛山政権誕生に狼狽し、岸信介政権によって日本を一気に親米に巻き戻した。
 対米自立勢力の台頭を防ぐことが、一貫して米国の対日政策の最重要課題である。
 日本の主権回復を控えて、米国が最も懸念していたことは、日本の民族派勢力が対米自立路線を強めることだった。1949年に採択されたアメリカ国家安全保障会議(NSC)文書48-1は、「極右勢力は長期的にみてアメリカの利益にならない」と明記していた。
 GHQ参謀第2部(G2)のチャールズ・ウィロビー少将が組織したキャノン機関の工作目的も、日本の政治家、右翼が対米自立の方向に進むことを阻止することにあった。活発な工作が展開されたにもかかわらず、対米自立志向は続いていた。
 1956年12月首相に就いた石橋湛山は、「アメリカのいうことをハイハイきいていることは、日米両国のためによくない。アメリカと提携するが、向米一辺倒になることではない」とはっきりと語った。これに対して、在ワシントン・イギリス大使館のド・ラメア公使は、イギリス外務省極東部への秘密報告書(1956年12月31日付)で、次のように書いている。 続きを読む 対米自立阻止のために流れるCIAマネー

「パソナ、竹中平蔵への抗議街宣 訴訟に発展」

 これまで竹中平蔵氏は産業競争力会議で労働移動支援助成金の増加を唱えるなど、自らが会長を務める人材派遣会社パソナの利益拡大になる発言をしてきた。
 ところが、この利益誘導疑惑について、大手新聞やテレビは一切報道しなかった。こうした中で、「國の子評論社」を主宰する横山孝平氏はパソナ本社前などで抗議の街宣活動を行った。ところが、パソナ側は「街宣活動禁止仮処分命令」を東京地裁に申し立て、7月10月第一回口頭弁論が行われた。今後法廷では、竹中平蔵氏に対する批判が誹謗中傷や名誉棄損に当たるのかが争われる。この問題について、『月刊日本』8月号に「パソナ、竹中平蔵への抗議街宣 訴訟に発展」を掲載した。

東アジア共同体とジョセフ・ナイの恫喝

 東アジア共同体はアメリカによる圧力でつぶされたのか。『「対米従属」という宿痾』(飛鳥新社)において、鳩山由紀夫氏は「…日本も東アジア全体の共同体を構想することが大事だというメッセージを出させていただきました。このことによって、米国の一部の政府関係の方々が、鳩山はアジアから米国を外すつもりなのではないかと、ある意味では勘ぐった発想で、警戒感を強めたのではないかと思います」と語っている。
これに応じて、孫崎享氏はジョセフ・ナイが『日米同盟 vs 中国・北朝鮮』(文春新書)の中で、「もしも米国抜きで、日・中が東アジアを動かしますよ、ということになれば大変なことになりますよ」と書いていることについて、次のように語った。
「ジョセフ・ナイは基本的には学者ですから、普通はそんなヤクザまがいのセリフを言うわけがないのですが、そこまで言ったということは、米国内で、鳩山の東アジア共同体構想は米国外しを意図しており許せない、という批判がすでに出ていたのだろうなあと思います」