東亜同文書院生の卒業旅行とはいかなるものであったのか。彼らに期待されていたものは何だったのか。藤田佳久『東亜同文書院 中国大調査旅行の研究』(大明堂、2000年4月)には、書院教授・馬場鍬太郎が第18期旅行記念誌(大正10年5月)に寄せた序文が引かれている。
〈凡そ生を人生に享くる者其時と所を問はず人類文化発展の大業に参し、身に応じ、分に従ひて努力するの覚悟あるを要す。吾人が支那大陸の開発経営に資するに当たりても亦文明の潮流時勢の要求に順ひ、物質的及精神的両文化の円満なる発達を期待せざるべからず。然るに我が邦人の真に支那を解するもの極めて少なく、支那と言へば直ちに荒寥たる僻陬を連想し、或は一獲遺利を拾ふに適すと思意する者比々皆然り、之れ固より、不究者自身の罪たりと雖も一は亦我邦に於ける調査研究基幹の寂寞たりしに帰せずんばあらず。
惟ふに支那に関する邦人の研究は日支両国の関係上頗る古くより行はれ、殊に近時に至りて著しき高潮を呈し学者、政治家、実業家等職業階級を通じ相競ひて之が研究に遅れざらん事を勉むるに至れり、然れども其範囲未だ漢籍の外に出です、或は西人著書の抄訳により、その糟糠を甜むるに止まる。
千言満語口に日支親善を唱へ、唇歯輔車、日支共存を論ずるも其実の挙がらざる寧ろ当然なるべく、今や更に具体的日支親善案の論議を見るに至れり。
然るに支那研究の道程如何、固より一言にして尽し得ずと雖も親しく風俗、習慣、物情、民意の機微を究め人心の趨帰を察し支那は謎題なりとして不究の罪を糊塗せんとする従来の弊習を打破するにありて其第一着手としては須らく先ず地理の研究に起り、親しく其地の視察調査に志を要す。
松陰先生の所謂「地を離れて人なく、人を離れて事なし、人事を論ぜんと欲せば先ず地理を審かにせざるべからず」所以爰に存す、我が東亜同文書院夙に見る所あり、毎夏上級学生を十数班に分ちて禹城の南北を周游せしめ、親しく地理、人情、習俗の機微を究めて日支提携の先鋒たらしめんとし、よく支那事情研究の資料を蒐集して剰す所なし。
昨夏第十八期生を分つこと二十、三伏の溽熱を冒し、足跡本部十八省に遍ねく更に内蒙、東三省に及ぶ、昿漠険阻の地を過ぎ、艱苦欠乏の厄に耐へ、長途或は魂を驢騾の孤鞍に驚かし夜半夢を木舟の中に破り、旅宿孤燈の下に視察を随記し帰来編して紀行成る。
予書院に職を奉じ旅行計画の任にあること年あり毎夏各地を巡游するに当り親しく各班辛苦の実況を目撃し私かに感激の意に不堪、聊か感想を舒べて序に代ふ〉