■フィリピンの自主独立路線
「米国と中国のどっちに味方する?」
昨年シンガポールの研究機関が、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟十カ国で、研究者や政府機関の職員、ビジネスマンらを対象とした調査を実施し、そう質問した。この質問に対して、「米国に味方する」との回答が多かったのは、十カ国のうちシンガポール、フィリピン、ベトナムの三カ国だけだった。ラオス、ブルネイ、ミャンマー、マレーシア、カンボジア、タイ、インドネシアの七カ国では、「中国に味方する」との回答の方が多かった。このうちラオスとブルネイでは約七割が「中国に味方する」と回答している。
東南アジアの親中化は、中国の「札束外交」によってもたらされているとの主張がある。カネの力にモノを言わせて東南アジア諸国を靡かせているという見方だ。しかし、東南アジアの親中化は、それだけではとらえ切れない。そこを見誤ると、日本はアジアにおける影響力をさらに失うことになるのではなかろうか。筆者は今こそアジアの声に耳を澄ます必要があると考えている。
八割以上が「米国に味方する」と回答したフィリピンにおいても、状況は激変しつつある。同国のドゥテルテ大統領は、二月十一日、「訪問米軍に関する地位協定」(VFA)を破棄すると米政府に通知したのだ。この決定の直接的な引き金は、アメリカがドゥテルテ大統領の側近に対して入国ビザの発給を拒否したことだが、フィリピンの自主独立志向に注目すべきである。
フィリピンは一六世紀後半からスペインによる支配を受けていたが、一八九八年に勃発した米西戦争の結果、アメリカの植民地となった。一九四六年に独立した後も、基本的に親米政権が続き、アメリカ支配から脱却することができなかった。日本と同様、フィリピンにもスービック海軍基地、クラーク空軍基地などの米軍基地が置かれていた。ただし、一九六六年に改定された米比軍事基地協定は米軍基地の駐留期限を一九九一年までと定めていた。そこで、米比両政府は、基地存続を可能とする米比友好協力安保条約に調印したが、一九九一年九月十六日 フィリピン上院は同条約批准を反対多数で否決したのである。この日、上院周辺は、まるで独立宣言を行ったかのような熱気に包まれた。こうして米軍はフィリピンから完全撤退したのである。ところが、一九九八年にVFAが結ばれ、米軍の駐留に道が再び開かれた。
我々は、ドゥテルテ大統領が目指しているものが真の主権回復とアイデンティティティの確立であることに注意する必要がある。獨協大学教授の竹田いさみ氏が指摘しているように、ドゥテルテ大統領の対米自立路線の原点には、自らの体験がある。ドゥテルテ氏が大学時代、ガールフレンドがいるアメリカへ渡ろうとした際に、入国ビザが発給されなかった。また、ドゥテルテ氏には、外交パスポートを持参していたにもかかわらず、ロサンジェルス空港で書類の不備を指摘され、空港係官に別室で尋問された経験がある。一方、アメリカ人はビザなしでフィリピンに自由に入国することができる。ドゥテルテ大統領は、こうした自らの体験から米比関係の不平等性を実感し、アメリカ優位の構造を変えなければならないと確信したのであろう。
また、ドゥテルテ大統領は、「フィリピン」という国名が宗主国だったスペインのフェリペ国王に由来する名前だとして、国名変更に意欲を示している。国名の候補として「マハルリカ(高潔)」などが候補に挙がっている。ドゥテルテ大統領が共感するマルコス元大統領も、かつて「マハルリカ」を新たな国名に挙げたことがある。
東西冷戦下で西側陣営に入った東南アジアの国は、概して親米的だった。しかし、植民地支配に喘いだ民族の記憶は容易には消えない。その記憶が自立志向に向かわせているのである。
■興亜論を共有した日本人とアジア諸民族
かつて、日本人は欧米列強の植民地支配に苦しむアジア諸民族の解放に手を貸そうとした。少なくとも、在野のアジア主義者、興亜論者たちは、アジアの独立運動家を支援し、アジア諸民族の団結を目指した。例えば、興亜論の精神的支柱であった玄洋社の頭山満翁は、中華民国の孫文、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボースだけではなく、東南アジアの志士たちを支援した。ベトナムのクォン・デ侯、フィリピンの志士アルテミオ・リカルテ、ベニグノ・ラモス、ビルマ(ミャンマー)の志士ウ・オッタマらである。一方、玄洋社出身の代議士中野正剛は一九四二年に『世界維新の嵐に立つ』を著し、次のように述べた。
「帝国主義侵略は今日の人類世界では過去の迷夢である。日本は大東亜の新秩序を建設し、その指導者として、功労者として、永久の先行者として、大東亜全民族の幸福と栄誉の源泉とならねばならぬ。これこそ大和民族として生き甲斐のある存立を確保する所以である」
かつて日本人は独立不羈の気概を持ち、植民地支配に苦しむアジア諸民族に共感していた。だからこそ、多くのアジアの志士たちが日本を頼り、日本との連携を模索したのだ。フィリピンの興亜論者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士もその一人である。彼は弁護士として活躍し、日本人との関係を強め、一九三二年に『比国独立と極東問題』を刊行して宗主国アメリカを震撼させた。一九四二年には『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』で、「幾世紀かの如何とも為し難い服従の間に強制的に押附けられた、厚く塗られた西洋文明の上塗りは、これを引剥いで、現在及び将来永遠に東洋諸国住民の生命の中に根本的影響を残す古き東洋文化の栄光を明るみに出さねばならぬ」と書いた。
しかし、大東亜戦争に敗れたわが国はアメリカに占領され、興亜の理想はわが国においては封印されてしまった。だが、興亜の理想はアジア人の心に残されていた。一九五一年、サンフランシスコ対日講和会議で演説したスリランカのジャヤワルダナ大統領は「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」と語った。 続きを読む 坪内隆彦「日本は、アジアの声に耳を澄ませ」(『伝統と革新』2020年5月)