小泉菊枝は『東亜聯盟と昭和の民』(東亜聯盟協会、昭和15年)で、以下のように書いている。
〈漸く封建社会の諸制度を清算し、資本主義経済への発展により活発な国富増進へ歩み出した世界の後進国日本は、商品を売りさばく海外市場として残されてゐる所を支那大陸に求めるより仕方がありませんでした。日本は列強に追随しながら友邦支那の中に利権を確立して行きました。かうして一人殖民地と化し去らうとする東亜に於ける唯一の独立国家日本はぐんぐん国力を充実させ、列強の間に伍して進みました。かゝる日本の発展を、列強はたゞ侵略的・野心的進出としてだけ解釈し、東亜のユートピアとして「愛すべき日本」と呼んでゐた人々も「恐るべき日本」からやがて「恐るべき日本」と称してひたすらその成長を抑圧しようとするやうになりました。列強は競つて亜細亜の宝庫を分割しようとし、又この間に割り込む日本を牽制しようとしました。門戸開放・機会均等が屡々支那に要求されましたが、これは取りも直さす、搾取と侵略の自由平等を大亜細亜殖民地の上に確立しようといふ意志表示だつたのです。列強の利権が増大すればする程、利権擁護に名を借りた東亜諸問題への彼等の発言権は強硬になるばかりでした。日本は必死となつてこの間に立ちました。若し日本が支那大陸に利権を確守出来す、発言権を持たなかつたならば、亜細亜大陸は列強の欲するまゝに動かされるより他はなかつたのです。
然し、現実は激しい裏切りの感じを東亜諸民族に与へてゐたのでございます。中にも新支那建設を志して生命を捨てて起ち上つた支那青年達は、日露戦争前後に続々日本に渡来し、日本を盟主とし大亜細亜再建の願望に対へる聲々を期待したのでありましたが、その期侍が深かつただけに東亜的性格を失ひ激しい勢をもつて西欧帝国主義に追随してゐる日本を知ると、その失望は甚しかつたのでございます。
日本と支那とは室町時代以後、正式な国交は絶えて居リましたが、日本は長年の間多く文物を輸入し、その文明を学んで成長して来ましたし支那に対して何時も親和的なものを感じて居りました。長い歩みの間に多少のもつれはありましたけれど、白色人種に対しては極端なまで異端視し侮蔑し毛嫌ひする支那人も同じ亜細亜の日本には或時は東方君子国の敬称をもつて対しさへしたのでございますから、両国間の感情は素直に結ばれてよい筈でございました。そして明治初年の人達は教養と云へば主に漢学でございましたし支那を先輩の様に敬愛する気持を多分に持つてゐたのでございました。
所がヨーロッパ文明が流れ込みますと共に漢学は顧られなくなり、その長所短所の分ちなく一概に固陋として捨てられはじめました。そして日清戦争でした。世界に立ちおくれた小島国日本を大日本に発展させる意気は強い〱自負心に負ふ所が大きうございましたし、大陸国家清国より強くなつた喜びは自然の発露だつたのですが、「支那チヤンコロ」と呼ぶ敵視と軽侮の念は限度を忘れて行き渡りました。やがて日露戦争があつて大陸に権益を獲得した後は、白人の支那に対する強圧と軽視に真似た行為をさへ取る無反省に堕したのは本当に悲しい事でございました。幾度か起ち上らうとしては白人の強圧に退けられ、その度に徒らに彼等の搾取圏拡大に至る事を苦しんで来た支那の人達に取つて、同民族の日本人からまでさげすまれたといふ深刻な憤慨は、何物にも譬へられなかつたと申します。立場を替へて考へましたらきつと私共もそんな気がした事でせう。然し、今日になりまして現実を有りのままに見つめますならば、日露戦争に依つて白人の東亜包囲軍は北の一辺に於て後退を余儀なくされ、累卵の危きにあつた満州及朝鮮は完全に守護された訳ですし、この一戦に依つて東亜民族の底力を認識させられた列強の東亜侵略は、従来の暴力的な大陸分割の傍若無人ぶりから、経済戦争への持久的技巧的態度への変化を余儀なくされたのでありますし、日本がこの経済戦の中に割込んだ事も東亜唯一の独立国家の発言権を列強争覇の乱戦中に確保して将来に備へた事になりますから、云はヾ東亜保全の為、全東亜諸民族の為の大きな〱苦闘であつて、決して日本一国のみの繁栄に終始した事ではなかつたのでございます。但し、それは今日になつて云へるのでありまして、当時、無選択に取り込んだヨーロツパ文明の爛熟期に当つて、そんなにまで深く遠く日本の東亜に於ける責任や、建国以来の使命を自覚してゐた国民は極く少数の先覚者達に過ぎませず、従つて当時の日本の現状の中に新支那建設の志士達が信頼を見失つた事も無理ではなかつたのでございます。かうして東亜の維新は清国の頑迷無自覚が日本の自覚発展を嫉視妨害し、次には日本の成長期の矛盾が新支部の愛国者を失望させ両国提携を遅らせるといふ行路難に悩んで居たのでございました。
(続く)