石原莞爾の魂と戦後政治—木村武雄の生涯②

■「田中さんの人柄に惚れてしまった」
 木村武雄は『自伝 米沢そんぴんの詩』で田中を信頼するようになった経緯について述べている。昭和四十五年十一月の山形市長選挙で、社会党などが支持する現職の金沢忠雄に対して、自民党は本田権之助を擁立した。しかし、「本田劣勢」が伝えられていた。そこで山形県県連会長を務めていた木村は、本田勝利を目指して知恵を絞り、山形大学の医学部設置案に目をつけたのだ。木村は次のように振り返る。
田中角栄
 〈選挙の直前、東北、北海道の自民党大会を山形県体育館で催す段取りをし、党の三役を担ぎ出した。田中幹事長には事前に「今度の大会は実は市長選のためで、大会で医学部設置の陳情があるので、そのときは、いやだなどと選挙の妨害になるようなことはいわないでほしい」と頼んでいた。役人出身者はこの種の頼みには、決してうんといわないが、田中さんは野人出身である。「よかろう」と返事をしたのである。
 大半が山形市の人で、一万人以上の大集会がはじまり、本田市会議員候補が「県民の要望、山形大学に医学部の設置を実現してほしい」と決議を出した。田中さんが立ち「党の三役揃いぶみでこのことを預かり、必ず実現させましょう」と演説した。ほォ、田中という人物は約束を守る男だな、とそのとき思った〉
 市長選で本田は落選、木村は医学部設置を諦めかけた。しかし、医学部設置は山形県にとっては大切な問題だと考え直し、医学部設置を実現しようとした。しかし、文部省は一切受けつけず、大蔵省も文部省の要求のないものは了解できないとの姿勢を示した。そこで木村は田中に再び頼み込んだのだ。
 〈私は再度田中さんに「長い政治生活にこんなことでケチをつけられたくない。困難なのはわかっている。そこを押して頼む」と強く要望した。
 田中さんは私の熱意に負けたのであろう。「わかった、文部省が認めないのなら党の決議案として提出してやろう。そのかわり、これをきっかけに予算編成が大蔵省から党中心になるぞ」という話になった。それを知った大蔵省と文部省は了解をし、無事、山形大学医学部設置案が通ったのである。
 私は前にも増して田中さんの人柄に惚れてしまった。そのとき、よし、次期総理に田中さんを担ごう、と初めて決心したわけである〉
 佐藤栄作の意中の人物は、田中角栄ではなく福田赳夫だった。だが、佐藤派の木村は田中擁立に動いたのだ。その目的は日中国交正常化にあったのだ。

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