田中角栄は、すでに無役の時代に、自民党都市政策調査会という勉強会で「都市政策大綱」をまとめていた。日本列島改造論につながる発想は突然生まれたわけではなかった。では、どのような過程を経て、日本列島改造論はまとめられたのであろうか。
早坂透は『田中角栄』で次のように書いている。
〈一九七一年の暮れ、通産大臣秘書官の小長啓一は角栄大臣からふいに話を向けられた。「おれもまあ、工業の再配置とか、通産省から見た国土開発を勉強した。これで政策の全体系が頭に入った。代議士二五年の節目だがら、考えをまとめてみるか」
年が明けて一月、角栄は秘書早坂茂三にその話をした。「都市政策大綱は理屈が多すぎて大衆にはわかりにくい。あれを下敷きにした臨床医の診断書がいる。どこでどんな事業をやるかをまとめたい」。早坂が「地名を特記すると跳ね返りが多すぎませんか」と心配する。角栄は「福田くんと争うときに、おれの内政の目玉は国土政策だ。おれの名前で本を出したい」と言い張る。先回りしていえば、早坂の危惧はのちにその通りになって、角栄政権を弱めることになる。
「日本列島改造論」づくりは、小長ら通産官僚、早坂、出版元の日刊工業新聞の記者らが角栄の口述を聞くことから始めた。「君ら、酔って丸の内でひっくり返っても、すぐ救急車で運んでもらって、一晩休めば命には別状ない。同じことを北海道でやったらどうなるか。そういう格差をなくそうじゃないか」。章ごとに執筆を分担、各省も協力した。そのなかには、のちに作家堺屋太一となる通産官僚池口小太郎や、滋賀県知事から新党さきがけの党首になって「小さくともキラリと光る国」を提唱した武村正義もいた。
序文と「I 私はこう考える」と「むすび」は角栄が書いた。といっても、文章の筆致や言葉遣いからみて、秘書早坂が書いて角栄が手を入れたものと思われる。「藤吉郎の墨俣城の一夜づくり」の勢いで仕上げた。「これで結構だ」と角栄。『日本列島改造論』は九〇万部を売るベストセラーになる。
内容はどうか。「序」は、「水は低きに流れ、人は高きに集まる」と始まる。人口や産業の都市集中によって国民所得は上がった。しかし、いまや「巨大都市は過密のルツボで病み、あえぎ、いらだっている半面、農村は若者が減って高齢化し、成長のエネルギーを失おうとしている。都市人口の急増は、ウサギを追う山もなく、小ブナを釣る川もない大都会の小さなアパートがただひとつの故郷という人をふやした」と角栄は綴る。明治百年、都市集中のメリットはデメリットに変わった。
角栄は提案する。「民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開する」。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などがテコになる。「都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすことができる」。
霞が関官僚が執筆した各章は、「Ⅱ 明治百年は国土維新」「Ⅲ 平和と福祉を実現する成長経済」「Ⅳ 人と経済の流れを変える」「Ⅴ 都市改造と地域開発」「Ⅵ 禁止と誘導と」と続く。〉
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石原莞爾の魂と戦後政治—木村武雄の生涯②
■「田中さんの人柄に惚れてしまった」
木村武雄は『自伝 米沢そんぴんの詩』で田中を信頼するようになった経緯について述べている。昭和四十五年十一月の山形市長選挙で、社会党などが支持する現職の金沢忠雄に対して、自民党は本田権之助を擁立した。しかし、「本田劣勢」が伝えられていた。そこで山形県県連会長を務めていた木村は、本田勝利を目指して知恵を絞り、山形大学の医学部設置案に目をつけたのだ。木村は次のように振り返る。
〈選挙の直前、東北、北海道の自民党大会を山形県体育館で催す段取りをし、党の三役を担ぎ出した。田中幹事長には事前に「今度の大会は実は市長選のためで、大会で医学部設置の陳情があるので、そのときは、いやだなどと選挙の妨害になるようなことはいわないでほしい」と頼んでいた。役人出身者はこの種の頼みには、決してうんといわないが、田中さんは野人出身である。「よかろう」と返事をしたのである。
大半が山形市の人で、一万人以上の大集会がはじまり、本田市会議員候補が「県民の要望、山形大学に医学部の設置を実現してほしい」と決議を出した。田中さんが立ち「党の三役揃いぶみでこのことを預かり、必ず実現させましょう」と演説した。ほォ、田中という人物は約束を守る男だな、とそのとき思った〉
市長選で本田は落選、木村は医学部設置を諦めかけた。しかし、医学部設置は山形県にとっては大切な問題だと考え直し、医学部設置を実現しようとした。しかし、文部省は一切受けつけず、大蔵省も文部省の要求のないものは了解できないとの姿勢を示した。そこで木村は田中に再び頼み込んだのだ。
〈私は再度田中さんに「長い政治生活にこんなことでケチをつけられたくない。困難なのはわかっている。そこを押して頼む」と強く要望した。
田中さんは私の熱意に負けたのであろう。「わかった、文部省が認めないのなら党の決議案として提出してやろう。そのかわり、これをきっかけに予算編成が大蔵省から党中心になるぞ」という話になった。それを知った大蔵省と文部省は了解をし、無事、山形大学医学部設置案が通ったのである。
私は前にも増して田中さんの人柄に惚れてしまった。そのとき、よし、次期総理に田中さんを担ごう、と初めて決心したわけである〉
佐藤栄作の意中の人物は、田中角栄ではなく福田赳夫だった。だが、佐藤派の木村は田中擁立に動いたのだ。その目的は日中国交正常化にあったのだ。
「日本海側からの興亜思想 明日のアジア望見 第82回」『月刊マレーシア』509号、2010年5月16日
北海道大学教授の松浦正孝氏による千頁を超える大著『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか』(名古屋大学出版会)は、戦後の日本企業による海外での大規模な開発プロジェクトは、海外進出型のアジア主義の姿を変えた再現であるとし、戦後、東南アジア開発基金構想を唱えた中谷武世らや、土木事業コンサルタント会社日本工営を設立し、アジア各国の水力発電所建設を手掛けた久保田豊らを具体的事例として挙げている。
一方、松浦氏は内需拡大型の公共事業にもアジア主義の継承を見出し、農村への工場誘致を含む田中角栄の大規模な国内公共土木工事は、歴史的に見れば石原莞爾の発想を引き継いだものだと指摘した(同書、八百五十四頁)。
民族協和の理想に基づいた東亜連盟を目指した石原莞爾は、「都市解体、農工一体、簡素生活」の三原則により、人類次代文化に先駆する新建設を断行すべきだと強調していた。 続きを読む 「日本海側からの興亜思想 明日のアジア望見 第82回」『月刊マレーシア』509号、2010年5月16日
田中角栄の外交とアメリカ
独自の資源外交を展開
田中首相は、1973年頃から、独自の資源外交を展開していた。まず同年秋、仏、英、西独、ソ連を次々と訪問し、石油、ウラン鉱石、天然ガス等の共同開発について議論している。 続きを読む 田中角栄の外交とアメリカ |