「著作/文献」カテゴリーアーカイブ

「『靖献遺言』を読んで涙を落とさない人は、不忠者に違いない」(山片蟠桃)


懐徳堂出身の町人儒者・山片蟠桃は『夢の代』において、栗山潜鋒の『保建大記』と浅見絅斎の『靖献遺言』を、以下のように絶賛しています。
「日本の書籍多しと雖、世教に渉るはなし、慶長以降武徳熾んにして、文家も亦少とせず、大儒数輩著す所の書、すこぶる孝弟仁義を説くこと多し、中にも栗山先生の保建大記及び浅見先生の靖献遺言これが冠たり…靖献は……屈原以降の八忠臣を主とし、挙てその余これに類したる忠臣を褒し、又これに反したる賊臣を貶して、天下の忠と不忠を正すこと私意を以てせず、万世にわたりて議論なかるべしとす……ああ浅見氏の骨髄この書にあり、此書をよみて涕を落さざる人は、その人必ず不忠ならん、又此の書を以てその浅見氏の人となりを想像すべし、ここにおいてか、予栗山・浅見二先生のこの書をつねに愛玩すること久し、ゆえに論ここにおよぶもの也、我邦の述作においては、先この書を以て最とし読べし、自から得る所あらん必ずこれを廃すべからず、ゆえに丁寧反復す」
もともと、懐徳堂初代学主に就いたのは、絅斎の門人だった三宅石庵でした。懐徳堂には、山片蟠桃に至るまで、崎門学の流れが続いていたのでしょう。

法本義弘の『靖献遺言』研究書①

連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の二冊目(浅見絅斎『靖献遺言』)執筆のために、法本義弘による研究書と向き合っています。700頁を超える『靖献遺言精義』、そのエッセンスを分かりやすくまとめた『淺見絅齋の靖獻遺言』。


近藤啓吾先生による体系的な研究と並んで、これら法本による著作も『靖献遺言』理解に非常に役立ちます。

いかなる危機に瀕してもわが国体は不滅である!

「いかなる危機に瀕してもわが国体は不滅である!」山鹿素行『中朝事実』第2回(明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊 第2回)『月刊日本』2012年9月号の一部 ⇒最初の4ページ分のPDF

松陰が「先師」と呼んだ山鹿素行
 安政六(一八五九)年四月、「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし」と判断した吉田松陰は、「草莽崛起」を説いて決起を促しました。しかし、半年後の十月二十七日、彼は二十九歳の若さで斬首の刑に処せられました。その六年前の嘉永六(一八五三)年、ペリー艦隊の来航に遭遇した松陰は、藩主に上書した『将及私言』で次のように述べていました。
「今般亜美理駕夷の事、実に目前の急、乃ち万世の患なり、六月三日、夷舶浦賀港に来りしより、日夜疾走し、彼の地に至り其の状態を察す。軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり。然るに戦争に及ばざるは、幕府の令、夷の軽蔑侮慢を甘んじ、専ら事穏便を主とせられし故なり。然らずんば今已に戦争に及ぶこと久しからん。然れども往時は姑く置く。夷人幕府に上る書を観るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一港を請ふの事件。一として許允せらるべきものなし。夷等来春には答書を取りに来らんに。願ふ所一も許允なき時は、彼れ豈に徒然として帰らんや。然れば来春には必定一戦に及ぶべし。然るに太平の気習として、戦は万代の後迄もなきことの様に思ふもの多し、豈に嘆ずべきもの甚だしきに非ずや。今謹んで案ずるに、来春迄僅かに五六月の間なれば、此の際に乗じ嘗胆坐薪の思ひをなし、君臣上下一体と成りて備へをなすに非ずんば、我が太平連綿の余を以て彼の百戦錬磨の夷と戦ふこと難かるべし」 続きを読む いかなる危機に瀕してもわが国体は不滅である!

興亜論者・波多野烏峰と『靖献遺言』

『亜細亜合同論』、『印度独立戦争』などの著者として知られる波多野烏峰が、『靖献遺言』の訓戒を刊行していた事実は、崎門学派、特に浅見絅斎学派と興亜思想の特別な関係を考察する材料だと言える。
なぜか国会図書館には所蔵されていないが、波多野烏峰訓解『靖献遺言』大正7年の存在が明らかになった。これとは別に、波多野春房訓解『靖献遺言』文会堂書店、明治43年があり、波多野烏峰と波多野春房とは同一人物である可能性が濃厚であると考えられる。

浅見絅斎邸址

2012年8月、『月刊日本』の新連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の二冊目(浅見絅斎『靖献遺言』)の取材のために、京都市中京区錦小路の「浅見絅斎邸址」を訪れました。錦小路は、かつて浅見先生の私塾があった場所です。錦小路から「錦陌(きんぱく)講堂」と名付けられていました。

弟子の稲葉迂斎による『迂斎先生学話』で描かれた状況を思い浮かべました。
「浅見先生の講釈を聞きにくる者は四十人ほどいる。講釈場の広さは二間(一間=一・八メートル)と八間ほどだ。先生は台所の方から出てこられる。入り口のところに敷物を敷き、そこにすぐ座り、大きな見台(本を読むときにのせる台)を前にしてあぐらをかいて講義なさる。先生が出ていかれるときには、みな平伏して頭をあげている者など一人もいない」
浅見先生は、はじめの名を順良といい、後に安正となりましたが、絅斎と号していました。この「絅斎」もまた、錦小路の「錦」から「錦を衣て絅(うすぎぬ)を尚(くわ)う」という教えに着想を得たものです。
『中庸』の一節「錦を衣て絅を尚う」とは、華々しい錦の着物の上に、絅(うすい上着)をはおって、その輝きを目立たなくするという意味で、自らの輝きを人に見せびらかしたりしないという戒めの言葉です。