「日本人」カテゴリーアーカイブ

近松家と赤穂義士

■知られざる尊皇思想の発火点・尾張藩
 尾張藩が水戸藩と並ぶ尊皇思想の発火点となったのは、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」が脈々と継承されたからである。
「王命に依って催さるる事」は、事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
 この義直の遺訓は、第四代藩主・徳川吉通(在任期間:一六九九~一七一三年)の時代に復興し、明和元(一七六四)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて十九世紀半ば、第十四代藩主・徳川慶勝の時代に、近松茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。
 ここで注目したいのが、近松家と赤穂義士の関わりである。もともと、近松茂矩が学んだ崎門学においては、赤穂義士の行動を肯定する議論が展開されていた。もちろん、崎門学派の中でも佐藤直方のような否定論はあったが、浅見絅斎は「四十六士論」において、義士の行動を称えていた。そして、勤皇の志士の中には、赤穂義士の行動に尊皇反幕の思想を読み取ろうとする者もいたように見える。
 赤穂事件は、吉通が藩主に就任してまもなくの元禄十四(一七〇一)年三月十四日に起きた。浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で、高家の吉良上野介義央に斬りかかった。将軍・綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹に処せられた。これに対して、翌元禄十五年十二月十四日夜、家臣の大石内蔵助良雄以下四十七人が、江戸の吉良邸に討ち入りしたのだ。
 縁者である近松勘六(行重)が赤穂義士の一人だったこともあり、茂矩にとって赤穂事件は極めて重い意味を持っていた。勘六は、討ち入りの際、表門隊の一員として早水藤左衛門らと屋外で奮戦、泉水に転落したが、ひるむことなく敵を斬り伏せたという。勘六の兄弟の奥田定右衛門も義士の一人であった。

■近松勘六と山鹿素行
 令和二年二月には、大アジア研究会代表の小野耕資氏、樽井藤吉研究者の仲原和孝氏と共に大津に赴いた際、勘六旧邸を訪れたが、残念ながら邸宅内の見学は叶わなかった。
近松勘六旧宅
 令和四年十一月三日の明治節の日、『維新と興亜』同人で泉岳寺を訪れ、勘六のお墓にお参りすることができた。
近松勘六墓
 ここで注目すべきは、勘六が山鹿素行の思想に学び、尊皇思想に目覚めていたことである。素行は、元和八(一六二二)年八月に生まれ、林羅山に朱子学を、小幡景憲、北条氏長らに甲州流兵学を学んだ。寛文五(一六六五)年に『聖教要録』で朱子学を批判し、赤穂藩浅野家預けとなった。
 「聖人の学を志すときは聖人を師とす」(『山鹿語類』)とあるように、素行が志した学問は「聖学」、すなわち「聖人」の学問であった。当初彼は、中国の聖人、孔子とそれ以前の十聖人(伏義・神農・黄帝・堯・舜・禹・湯・文・武・周公)を聖人として崇めた。やがて彼は、聖人たる根拠を求めていく過程で、神を聖人と同一視するようになり、日本の神々こそ「聖人」であり、「往古の神勅」をはじめとする遺教こそ「聖学」・「聖教」の渕源であり、神道こそ「聖道」である、という考え方を固めるに到った。こうして彼は、儒学に匹敵するわが国の「聖教」を導き出すべく、『日本書紀』が伝える神勅と向き合ったのだ。
 そして素行は寛文九(一六六九)年に『中朝事実』を著し、易姓革命のない日本こそが中華であると言い切った。「中朝」とは日本を指している。
 素行は、神武天皇が群臣に詔して、「ここに謹んで天位に即き、国民を統治し、アマテラス及びタカミムスビがこの国を授け給うた御徳に沿い、ニニギノミコトが降臨されて、正道を中心として人民を導かれた御心をさらに天下に弘めたいと考える」と仰せられたことを重視していた。また、第十代・崇神天皇が即位四年の冬十月に下された詔について、素行は、天子が皇位を私有視することを戒められたものであり、永遠の皇室の御繁栄を基礎づけられたものと拝察できると書いている。さらに素行は、「民のかまど」の逸話に示される仁政で知られる第十六代・仁徳天皇について「御身に並々ならぬ節約を守られ、国民を裕福にさせて、頼るべき人のない哀れな者を救って、国民の貧富は、そのまま帝王の貧富だとされた」と述べている。
 勘六が素行の国体思想を継承していたことは、西村豊の『赤穂義士修養実話』に、「原惣衛門(近松勘六)は大石内蔵助の四天王にて義挙に貢献したことは云ふまでもないが、近松勘六の一美事として見るべきは、山鹿素行の遺著なる山鹿語類を愛読した点である」と書かれていることから明らかだ。
 西村は、勘六が郷友に送った手紙に「山鹿語類、武教要録の儀、先其許へ御指置可被下候」とあることを指摘し、こう続ける。
 「義士中にありて山鹿に親炙せしものは原惣右衛門、間喜兵衛の二人のみ、此は山鹿日記に見えて居る、其外大石内蔵助始め四十七士は山鹿の感化を得る所ありしあらんも、其の得し所のもの如何なる順序を以てせるか又如何なる書物に依りて得たるか今明かに之れを知ることが出来ないが、勘六の如きは間接と云ひながら、此の手紙によるときは彼は山鹿の尤も心力を注ぎし語類を蔵すれば、之を愛読したのは明白である」
 一方、『天津日を日神と仰ぎ奉る国民的信仰に就いて』などを著した丸山敏雄は、「大石内蔵助が、その大業成就の最大動因は、その師山鹿素行先生に享けた『中朝事実』にあらはれた国体観念であり、山鹿流軍学にうけた日神の信仰でなければならぬ」と述べている。大星伝を受容していた近松茂矩は、素行から勘六や大石に伝えられた国体思想と不可分の「日神(天照大神)信仰」、そして大星伝に強く共鳴するところがあったに違いない。
『義士四十七図 近松勘六行重』(尾形月耕画)
 赤穂義士十七回忌にあたる享保四(一七一九)年、片島武矩が編纂した『赤城義臣伝(太平義臣伝)』が刊行されている。その首巻には、義士の図像が掲載されているが、勘六の図像の賛を書いたのが茂矩であった。
 また、茂矩は赤穂義士の一人で、名古屋出身の片岡高房(源五右衛門)に対しても特別な思いを抱いていた。茂矩の『昔咄』には、「内匠頭大変の時、源五右衛門、始めから義心鉄石の如くにて、四十七人のなかにて勝れたる者なり」と記されている。

徳富蘇峰と崎門学

■なぜ蘇峰の父は「一敬」と号したのか
 徳富蘇峰は、竹原の崎門学派・唐崎赤斎の顕彰碑碑文を撰したのをきっかけに、崎門学への思いを一層強めていった。やがて蘇峰は、横井小楠やその門人であった父一敬らについても、次のように書くに至る。
 「世間では横井小楠を目して、陽明学派と称するも、彼は本来山崎学派にして、小学、近思録、大学或門、中庸或門輯略などは、彼自ら読み、且つ門人にも課した。而して其の門人たる吾が父及び其弟の如きも、闇斎を崇敬するの余り、闇斎の名たる敬義を分ち用ゐ、一敬、一義と称してゐた程であつた。又小楠の学友長岡是容、元田永孚の如きも、亦然りであつた。固より彼等は永く崎門の牆下には立たなかつたが、其の門戸は是れに由つた。されば元田永孚の 明治天皇に御進講申上げたる経書の如きも、彼が如何に山崎学に負ふところの多大であつたかは、今更之をくだくだしく説明する迄もあるまい。若し地下の闇斎先生にして知るあらば、吾道の明治聖代に際して、大いに世に明らかになりたるを、定めて思ひ掛けなき幸運として感謝したであらう」(「歴史より観たる山崎闇斎先生及び山崎学」『山崎闇斎と其門流』伝記学会編、明治書房所収)
 この蘇峰の一文に誇張したところはない。崎門の楠本碩水が編んだ『崎門学脈系譜』付録には「私淑派」というカテゴリーが設けられており、そこには吉井正伴、吉井底斎、長岡温良(監物)、横井小楠、元田東野、徳富淇水、徳富龍山らの名前が記されているのだ。徳富の父徳富淇水は一敬と、淇水の弟龍山は一義と号していたのだ。また、平泉澄は『解説近世日本国民史』で次のように書いている。
 〈蘇峰の晩年に、といふよりは最後に面談した時に、遺言として色々話があつた中に、淇水の諱一敬の敬も、龍山の諱一義の義も、また蘇峰の諱正敬の敬も、すべて是れは山崎闇斎の諱敬義の一字を貰つたのであると、私に語られた。また其の幼年時代に母の膝の上に抱かれながら、謝畳山(枋得)の詩「雪中の松柏いよいよ青々」を聴き覚えに覚えた事は、蘇峰自伝に見えてゐる。して見れば徳富家は、江戸時代かなり有力に肥後に伝はつてゐた山崎闇斎の学問を以て家学としてゐた事、明かである〉
 すでに蘇峰は大正七(一九一八)年六月三日に『近世日本国民史』の執筆を開始していた。そのきっかけは、明治天皇の崩御であった。明治という時代の終焉に当り、蘇峰は「明治天皇御宇史」の著述を決意したのである。
 大正十三(一九二四)年十一月四日には、崎門学派弾圧事件が発生した宝暦、明和の時代を扱った第二十二巻「宝暦明和篇」を書き始め、大正十四年二月十三日に脱稿している。同巻では、「尊王斥覇の思潮」の一章を割いて、以下のように述べている。
 「国典の研究は、決して幕政の支持に有利ではなかつた。歌人は、万葉、古今の王朝を偲び、律令格式の学者は、朝政の盛時を慕ひ、歴史研究者は、皇祖肇国の大業を仰ぎ、何れの方面に於ても、慕古の思想を萌生し、而して慕古の思想は、やがて、復古の思想たらざるを得なかつた」
 蘇峰は、「宝暦明和篇」起稿前年の大正十二(一九二三)年の八月には、「月田蒙斎」という随筆で次のように書いている。
 「山崎派の本山とも云ふ可きは、京都の望楠軒であった。望楠軒の主盟は、若林強斎・西依成斎而して最後に梅田雲浜だ。若し夫れ九州に於ける山崎派の学統は、肥後の月田蒙斎より、肥前の楠本碩水に至り、延いて今日に及んでいる」(『第二蘇峰随筆』大正十四年所収)

■徳富蘇峰・平泉澄・有馬良橘が崎門学継承を強く意識した昭和三年
 崎門学の継承において、蘇峰が果たした役割は極めて大きい。その活発な活動は、平泉澄との出会いによって拍車がかけられたように見える。
徳富蘇峰
 以下、高野山大学助教の坂口太郎氏の「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」(第十九回松本清張研究奨励事業研究報告書、平成三十一年三月)に基づいて、蘇峰と平泉の関係について紹介したい。
 両者の好誼は、大正十五(一九二六)年から蘇峰が亡くなる昭和三十二(一九五七)年まで三十年以上にわたって続いた。
 平泉は蘇峰を追悼した「徳富蘇峰先生」で、「私が先生より受けましたもの、又先生が私に対して示されました深い御理解、或は御愛顧といふものが、殆ど日夜咫尺して居ると異ならぬやうに私は感ずるのであります」と述べている。
 蘇峰の『近世日本国民史』の連載が『国民新聞』で開始された大正七年、平泉は東京帝国大学文科大学の学生だったが、国民新聞に載った「国民史」の連載を切り抜いて読んでいたという。
 両者の直接的に交流は、『国民新聞』が主体的に運営していた国民教育奨励会での活動を通じて始まっている。大正十五年八月に奈良県吉野山蔵王堂で開講された師範大学講座において、平泉は「国史通論」と題して講演したのだ。以来、平泉は蘇峰から講演会の講師として招聘されるようになる。
 また、蘇峰は平泉の『神皇正統記』研究を支援していた。蘇峰は貴重な自らの蔵書である、『神皇正統記』の梅小路家本・登局院本を特別に平泉に貸し出している。
 そして、昭和三年は蘇峰と平泉、さらには海軍大将の有馬良橘が崎門学の継承を強烈に意識する年となる。その年は、橋本左内の七十年忌に当っていた。左内の顕彰に注力していた平泉は、左内七十年忌に際して、盛大な講演会と展覧会を催すべく、蘇峰に講演を懇望したのであった。同年十月七日、東京小松原の回向院において、橋本左内の墓前祭が斎行され、その後、東京帝国大学仏教青年会館に場所を移して、記念祭典と講演会が開催された。「橋本左内先生」と題して講演を務めたのが蘇峰である(坂口太郎「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」)。
 蘇峰は翌十一月、昭和天皇の即位御大典に際して京都に赴き、海軍大将の有馬良橘の案内で黒谷にある闇斎の墓にお参りしている。平泉が予てから尊敬していた有馬と出会うのは、翌十二月のことだ。平泉は、同月十四日に開催された、海軍の退役高級武官の親睦修養組織「有終会」主催の講演会で、「歴史を貫く冥々の力」と題して講演し、崎門学の真価を訴えたのである。平泉は次のように振り返る。 続きを読む 徳富蘇峰と崎門学

国体をつないだ礒宮八幡神社の赤斎唐崎先生碑

 敗戦の瞬間、占領軍によってわが国の国体の破壊が開始された。この苦難の時代を耐え抜いて国体精神を守り抜いたのは、先人の魂を伝えるために身を挺して日本人であった。中でも広島県・竹原の崎門学派・唐崎赤斎の魂を伝えようと志した同門、同郷の吉井章五の不屈の精神こそ、日本人が忘れてはならない歴史の一つなのではなかろうか。
 筆者は令和四年七月、竹原市を訪れ、赤斎ゆかりの礒宮八幡神社に向かった。吉井が幾多の困難を乗り越えて建立した赤斎唐崎先生碑の前に立つと、「首向宮闕」の四文字が目に飛び込んできた。赤斎の遺墨だ。徳富蘇峰撰、上田鳩桑書の碑文冒頭には「先生、覇府(幕府)鼎盛の世に当り、尊皇の大義を首倡し……」とある。この碑こそ、吉井が赤斎顕彰に人生を懸けた証である。
 筆者はいま、崎門正統を継いだ近藤啓吾先生門下の金本正孝先生の研究を継いで、赤斎の足跡を令和の世に伝えようとしている。

唐崎赤斎墓赤斎唐崎先生碑赤斎唐崎先生碑 
 吉井が「年来の素願」であった赤斎顕彰碑建立に動いたのは、昭和四(一九二九)年秋のことであった。吉井は上京し、熊本新聞主幹を務めた同郷の村上定を訪問、顕彰碑の建設について相談したのである。村上はただちにこれに賛同し、篆額は東郷平八郎大将に依頼してはどうかと提案した。吉井が村上に宛てた書簡が残されている。
「……唐崎先生之碑文之儀、種々御厄介之儀御頼申上候処、早速御賛同御承諾被下喜悦大に力を得申候、既に申上候通り小生年来の素願にて、此機を失しては、永久に国士を礼賛する標識、望無之事と信じ申候。又一郷之思想を永久ニ誤らしめざるは之に優るもの無之存候。此素願を是非共達成致度く存申候間、何卒微衷御洞察の上、此上とも万事御援助賜候て所願貫徹せしめられ度御願申上候。篆額之儀、興国標的たる大偉人東郷大将の御揮毫の御気付は更に大妙、宜しく〱御心添被下、又書の儀は其内東都なり平安の大家御考慮被下候様願申候……」
 金本は、この書簡が出されたのは昭和四年十一月八日だと推測している。
 吉井の念頭には、碑文を徳富蘇峰に依頼することがあったに違いない。村上は蘇峰と交友があったからだ。昭和五年が明けると、吉井の念願は蘇峰に伝えられたのである。蘇峰が約半年かけて練った文稿は、同年六月二十七日に吉井に届けられた。

東条政権下の維新派─昭和18年10月の一斉検挙事件

 令和4年10月7日に開催された『維新と興亜』塾「橘孝三郎を読み解く」(講師:小野耕資)に参加させていただいた。
 小野氏からの講義の後、東条政権下の橘孝三郎の動向にかかわる質問があった。近衛新体制下、東条政権下における維新派の動向は極めて重要なテーマである。
 小菅刑務所で服役していた橘が仮釈放となって出所するのは、昭和15年10月17日のことである。血盟団事件の井上日召も同じ日に出所している。
 三上卓は、これより先昭和13年7月に仮釈放となっている。橘が仮釈放となる少し前の昭和15年2月前後、三上は大岸頼好らとともに、何度も近衛文麿と面会、やがて近衛新体制運動が動き出す中で、同年7月初旬、七生社の穂積五一らと日本主義陣営の横断的組織の結成に動き、同年8月16日 学士会館で「翼賛体制建設青年連盟」(後に皇道翼賛青年連盟と決定)を結成することを決めた。一方、井上日召は、三上や四元義隆の協力を得て、昭和16年7月に「ひもろぎ塾」を設立した。
 東条政権が発足するのは、その3カ月後の昭和16年10月18日である。東条は昭和17年1月18日、戦時刑事特別法案を国会に提出した。国家総動員法、言論出版集会結社等臨時取締法につらなる戦時体制強化を目指した法案だった。一部議員の反対を押し切って成立した同法は同年3月に施行された。東条は、さらに同年末に召集された第81議会で、「国政を変乱」する目的の刑法犯や、治安・秩序を乱す宣伝活動なども処罰対象とする同法改正案を提出した。帝京大学教授の小山俊樹氏は次のように述べている。
 〈戦刑法の改正過程は、強権化した東条英機政権への反発者を炙り出すものとなった。
 一九四三年二月、第八一議会では衆院議員の清瀬一郎(元五・一五事件弁護人)が、「言論の自由」を求め、統制強化をすすめる東条政権を正面から批判した。さらに鳩山一郎(元政友会)ら旧既成政党の非主流派(自由主義派)と、中野正剛(元東方会・東方同志会会長)ら国家主義派、笹川良一・赤尾敏ら民間右派、水谷長三郎(元社会大衆党)ら旧無産政党系など、左右の立場を問わない衆院議員が結集して戦刑法の改正に反対した。皇道翼賛青年連盟も、東方同志会など一四団体と連名で反対を表明した。だが東条内閣は強行採決で改正案を成立させ、反対者への弾圧を強化した。
 東条政権の高まる威圧を前に、三上ら維新勢力は軍部との対立を深める。毛呂(清輝)は回想する。
 「東条の憲兵政治は常に私らの動きに眼を光らせていた。〔中略〕当時は支配者は官僚化した軍部であり、その治下での国内革新の運動は技術的にも非常に困難だった」。東方同志会の幹部も、三上とはこの頃に「相提携してともども東条内閣と戦った」と回顧する。
 ただし毛呂によると、三上は皇道翼賛青年連盟の一部が「非常手段による東条内閣打倒を計画したとき」に反対し、委員長を辞して脱退したという(「日本クーデターの真相」)。三上の動向は判然としないか、青年たちを危険にさらすテロは本意ではなかったのであろう。
 このとき政権批判の急先鋒は、東条首相をこきおろす「戦時宰相論」を『朝日新聞』に寄稿した(即日発禁)中野正剛であった。中野は密かに、天野辰夫(神兵隊事件首謀者)と結んで宇垣一成(元陸相・元外相)擁立工作を進めていた。片岡駿(勤皇まことむすび=五・一五事件元受刑者の本間憲一郎らを中心に一九三九年結成)の協力によって、東条に予備役へ編入された石原莞爾(陸軍予備役中将)とも密かに連絡した。
 一九四三年一〇月二一日の全国一斉検挙は、これらの反東条の動向を圧殺しようとするものであった。東方同志会・勤王まことむすび・大日本勤王同志会などの民間右派から、百数十名を超える大量の検挙者が出た(皇道翼賛青年連盟の構成員もこの数に含まれる)。〉
 やがて三上は東条暗殺計画に参画する。昭和19年6月22日、三上は東条政権打倒に動いていた高木惣吉海軍少将に近い神重徳大佐と密会、暗殺計画を作成していった。高木の残した記録によると、「決行人員は七人。場所は海軍省手前の四つ角。自動車三台に分乗し、海軍省内、大審院の濠沿い、内務省側にそれぞれ待機。(東条の)オープンカーが警視庁前に見えたら合図させ、前と両方の三方から挟み撃ちにして衝突させ、射殺する」という計画だった。
 ところが、7月13日付で神大佐に、連合艦隊司令部参謀への転出内示が出される。そのため、計画の実行は一週間延期された。その間、7月18日にサイパン失陥の責任をとる形で、東条内閣は総辞職。暗殺計画は実行されなかった。
 一方、永松浅造は『生きている右翼』で次のように書いている。
 「皇道翼賛青年連盟の毛呂清輝、小島玄之もまた軍部の擅横に対して蹶起した。
 その理由は、東条内閣と大政翼賛会と、陸軍大将阿部信行を総裁とする翼賛政治会とは、三位一体となって国政を壟断し、議会の真の機能を停止状態に麻痺させている。これは明かに欽定憲法を無視し、蹂躍した軍部中心の幕府的存在で、その亡状、天人倶に許しがたい。速かにその非を改めると同時に辞職せよと、猛然、非難攻撃をした」

竹原の吉井家と頼家─垂加神道を支えた「浜旦那」

 令和4年7月、広島県竹原市を訪れた。尊皇斥覇を体現した唐崎家とも関わりのあった吉井家、頼家の足跡を辿るためだ。
 まず、照蓮寺を訪れ、山陽の祖父・惟清(これすが)と祖母・仲のお墓にお参りした後、竹原町並み保存地区に移動。
 竹原は平安時代、京都・下鴨神社の荘園として栄えた歴史から、「安芸の小京都」と呼ばれている。江戸時代に入浜式塩田を開いてから、竹原は大いに発展した。竹原は塩作りの町として躍進し、「浜旦那」と呼ばれる塩田経営者たちが栄華を誇った。松阪家、頼家、ニッカウイスキーの竹鶴政孝の竹鶴家(竹鶴酒造)、吉井家、森川家などが浜旦那として知られる。
吉井家は半三郎当徳が第三代当主に就いてから、大俵塩問屋の特権を認められ、質店に加え、酒造・塩業さらに塩問屋と業種を追加し、商家として飛躍的な発展を遂げた。
 実は吉井家と竹原の崎門学の発展を牽引した唐崎家には深い結びつきがあったのだ。
 山崎闇斎に師事した唐崎定信が長生寺(赤斎自決の場所)に、猿田彦神を祀る庚申堂を建てた際、それを支援したのが、半三郎当徳であった。さらに、定信の後を継いだ清継の妻は吉井家から嫁いでいる。赤斎らの遊学費用を負担したのも吉井家であった。しかも、吉井家六代目当主の当聴自身が闇斎の高弟植田艮背に師事している。また、吉井正伴、吉井元庸ら吉井の同族も垂加神道を修めていた。
 一方、頼家の祖先は小早川氏に仕え、三原の頼兼村に住んでいたと伝えられているが、惟清の曾祖父の時に竹原に移住して海運業を営み、祖父の頃に紺屋を始めた。今も惟清が紺屋を営んでいた旧宅が残っている。裏庭には山陽の詩を刻んだ碑が建っている。
 惟清も竹原の崎門派と交わり、晩年には谷川士清に師事していた。つまり、惟清、唐崎赤斎、赤斎の父・信通は同門ということになる。惟清は小半紙に「忠孝」の二文字を書いて守袋に収めていた。この「忠孝」の二文字は、唐崎定信ゆかりのものに違いない。
 惟清には五人の息子が生まれたが、次男と五男は早世。残った3兄弟が、長男春水、三男春風、四男杏坪である。惟清は生涯の望みとして、「男子を学者にすること」「富士山を見ること」「家を新築すること」の三つがあったが、この望みはいずれも子供達によって実現した。
 春水は広島藩主浅野重晟により藩儒および藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)教授として招聘された。
 春風は大阪で医学と儒学を学び、医業を開業し、塩田経営にも乗り出し、天明元(1781)年には春風館を建築した。また、春風の養子である小園の子三郎が分家し、春風館の西側に隣接して復古館を建てた。
 杏坪は春水とともに安芸に移りのち藩儒となった。
 春水もまた崎門学の影響を受けていたようだ。頼成一は、「春水は少年時代から垂加派の主義思想を脳裏に深く強く焼きつけられてゐたに違いない」と書いている。
 なお、道の駅たけはらと交差点を挟んで対角側の本川沿いには頼山陽広場があり山陽の銅像が建っている。

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尊皇斥覇の発火点─竹原の唐崎家と頼家

 令和4年7月、広島県竹原市を訪れた。山崎闇斎を祖とする崎門の精神を体現した唐崎赤斎(常陸介)の魂を訪ねるためだ。もう一つの目的は、頼山陽の祖先の足跡を把握すること。
 寛政5(1793)年6月、赤斎の盟友・高山彦九郎が久留米で切腹。赤斎は彦九郎 の魂を受け継いで尊皇斥覇の運動を続けたが、大きな壁にぶつかったのだろう。寛政8(1796)年11月16日、長生寺を訪れ、先祖の墓前で切腹した。動機を尋ねられた赤斎は「聊か憤激のことあり」とのみ応え、絶命したという。 まず竹原駅から市立竹原書院図書館に向かい、崎門の金本正孝氏による赤斎研究書や『唐崎常陸介資料集』などを閲覧、複写。
 次に礒宮八幡神社に向かう。もともとは建久5(1194)年、鎌倉の幕臣後藤兵衛実元が、宇佐八幡宮の分霊を後藤家の守護神として勧請し、後藤家に鎮祭したのが始まり。後藤実元の没後、地元の人々により現在地(田ノ浦一丁目6-12)の南西方面の鳳伏山麗に社殿を建てて祀ったとされる。万治元(1658)年に現在地に遷座したのが、赤斎の高祖父・唐崎正信だ。正信の息子の定信は山崎闇斎の門人である。
 生前、赤齋は尊皇斥覇の精神を鼓舞するため、境内の千引岩に、文天祥の筆になる「忠孝」ニ文字を刻した。この「忠孝」の二文字こそ、定信が闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から授けられたものだった。
 礒宮八幡神社には赤斎唐崎先生碑が建っている。題額の四文字「首向宮闕」は赤斎の遺墨。碑文は徳富蘇峰、書は上田鳩桑。
 建立されたのは昭和28年8月10日。建設者として、後に総理を務める池田勇人ら七人の名前が刻まれているが、中心人物は竹原の長老吉井章五だ。吉井のほか、崎門の内田周平翁らが関わった、建立に至るドラマについては稿を改めたい。
 礒宮八幡神社を後にし、赤斎が切腹した長生寺に赴き、墓前で赤斎の無念に思いを馳せた。
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石原莞爾の民族協和主義①

 ちょうど五十年前の昭和四十七年、田中角栄は日中国交回復に動いた。それを支えたのが元帥と呼ばれた男・木村武雄である。日中国交回復を使命と定めた木村の原点には、師・石原莞爾の民族協和主義があった。
 昭和十六年三月、石原は京都の十六師団長を最後に、現役の軍職から退いた。当時、「石原退職の原因は、木村が石原将軍擁立の政治運動をやったことだ」という噂も流れていた。そこで木村は、謝罪もかねて石原を京都の師団長官舎に訪れたのだ。その時、石原は木村に次のように語ったという。
 「今までの日本人は、民族独善主義の道を歩いて来た。そしてその結果、日清戦争・日露戦争にも勝ち、更に第一次大戦でも勝利して、日本は世界の三大列強の一つになる事が出来た。然し日本が満州問題に発言して以来、日本の民族独善主義は完全に民族協和主義に変ってしまったのだ。それで民族協和主義に徹しなければ、これからの日本は成り立たない。これからの日本は役に立たなくなるんだ」
石原莞爾木村武雄著『師・石原莞爾先生』
 では、なぜ民族協和主義に変わったのか。石原は次のように語った。
 「日本人は、日本と云う島国に住んでおる時代は民族独善主義でも良かったけれども、日本が大陸に発言して満州に新しい国造りをやってからは、完全に民族協和主義になってしまった。そうならざるを得なくなったのだ。それ以前には、朝鮮半島に新しい日本国を建設して、朝鮮民族と日本民族で手を携えて朝鮮内外の場所で、お互いが仲良くなるよう努力したが、その時にはまだ民族協和主義に日本は徹していなかったのだ。
 その証拠には、日本が朝鮮半島で教育を指導するようになったが、その教育を通して、朝鮮民族の使用しておった朝鮮語は使わせないようにした。朝鮮語を教えないようにして日本語だけで朝鮮民族の教育をやった。これをみても、その時代の日本は、やはり日本民族の独善主義がそのままその時代まで横行しておったと思う。ところが、日本が一度満州に足場を造って、そこで満州問題について日本が発言するようになってからは、民族独善主義では通らなくなった。それで民族協和主義に変ったのだ。なぜかと申せば、満州には在来の先住民族として蒙古人が住んでおる。そこに満州民族がどっとおしかけてきて、満州民族も住むようになった。更に漢民族も多数住みつくようになった。それに西の方からはロシア人がやって来て住むようになり、東の方からは朝鮮民族がやって来て住むようになり、そこにまたまた日本人が、日清日露戦争以来、特に日華事変以来やって来て住みつくようになってからは、六族が満州に住むようになった。そこで六族が相共に協和しなければ満州国と云うものを育成、強化する訳にはゆかなくなったのだ。それ以来、日本人は民族独善主義をかなぐり捨てて、民族協和主義を掲げざるを得なくなったのだ」
 この話を聞いて、木村は民族協和主義が日本にとっては必要欠くべからざるものである事を確信した。

尾張藩垂加神道派・近松茂矩と橘家神道秘伝(松本丘編『橘家神道未公開資料集 一』収録の『橘家神道口傳抄』)

この度、皇學館大學教授の松本丘先生が編まれた『橘家神道未公開資料集 一』(神道資料叢刊 十八、令和四年三月)を贈呈していただいた。誠に有難うございます。
筆者は崎門学研究会代表の折本龍則氏、同副代表の小野耕資氏とともに崎門学、垂加神道の勉強を続けてきたが、『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』執筆過程で、尾張藩の垂加神道派にも強い関心を持つようになった。
尾張藩初代藩主・徳川義直の遺訓「王命に依って催さるる事」は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。
松本丘編『橘家神道未公開資料集 一』

近松茂矩は、長沼流を皆伝した後、橘家神道に継承された秘伝を取り入れて、独自の流派「一全流」を創始していた。
今回、松本先生が編まれた『橘家神道未公開資料集 一』には、名古屋市蓬左文庫所蔵の『橘家神道口傳抄』が収められている。松本先生の解題にある通り、同書は玉木葦斎の講述、吉見幸和筆記に係る。安永四年に吉見が上京した際に、葦斎から伝授された橘家神道秘伝である。さらに、松本先生は次のように指摘されている。
本文と同筆の書入に「茂矩」の名が見えてをり、幸和門人で兵学者としても知られた近松茂矩の筆写に係るものと考へられる。尾張徳川家家令であつた鈴木信吉氏の旧蔵書である」(解題五頁)
茂矩が橘家神道の秘伝を伝授されていたことが窺われる。

拳骨拓史氏が『兵学思想入門』で引いているように、近松は『神国武道弁』で「所謂神道は武道の根なり。武道の本は神道なり。道に二つなし」と述べていた。そんな近松が、橘家神道の秘伝を伝えられていた敬公の『軍書合鑑』の真価を見抜いたのは決して偶然ではない。近松は『昔咄』において次のように書いていたのである。
「軍書合鑑は、寛永年間の御撰述の由、是又本朝にて、軍術正伝の書の最第一と称せん、故いかなれば、凡そ神代相承の軍術は、神武天皇より代々の天皇、天津日嗣の時に、三種の神器と同じく、御相伝ありし、但し敏達天皇慮有りて、其神伝軍術をば、難波親王へ御伝受あづけられて、親王の御子孫代々伝へて、守り奉るべき勅令にて、橘家代々受けあづかり奉りて、三十四代相承し、唯授一人として、他へみだりに、伝ふる事なし」
さらに近松は、「付会をなして、何流と称する軍師」たちを批判した上で、「天下の兵法を立てた」として長沼澹斎を称え、さらに次のように述べている。
「源敬(敬公)様此御選ありて、終に依王命被催に、筆を停め給ふ、これよく本朝神武の道を得させられし事、言はずして明白なり、故に予恐れながら、本朝正兵伝書編述の根元なりと、称し奉りぬ」
このように近松は、敬公が本朝神武の道を極めていたことを示すものとして「王命に依って催さるる事」をとらえ、尾張尊皇思想を力強く継承せんとしたのだった。

坪内隆彦「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」(『宗教問題』36号、令和3年11月30日発売)

以下、『宗教問題』(36号、令和3年11月30日発売)に掲載していただいた「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」を紹介する。

■尾張藩尊皇思想の起点─「王命に依って催さるる事」
尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)が編纂した兵法書『軍書合鑑(ぐんしょごうかん)』の末尾には、「王命に依って催さるる事」の一語が記されている。尾張藩尊皇思想の起点となったこの遺訓は、歴代の藩主にだけ口伝で伝えられてきたが、第四代藩主・吉通の時代に明文化への道が開かれた。病にあった吉通は、跡継ぎの五郎太が未だ幼少だったため、遺訓の内容を侍臣の近松茂矩(しげのり)に伝え、後に残そうとしたからである。近松は明和元(一七六四)年に『円覚院様御伝(えんかくいんさまごでん)十五ヶ条』を著し、「王命に依って催さるる事」について、「いかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘の如き事出来て、官兵を催さるゝ事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と記した。
一方、『円覚院様御伝十五ヶ条』が書かれた十四年後の安永七(一七七八)年、水戸藩では第六代藩主・治保(はるもり)(文公)が、第二第藩主・光圀(義公)が遺した一句「古謂ふ君以て君たらずと雖も、臣臣たらざる可からず」を楷書で浄写し、義公の精神を復興させようとした。名越時正は、この一句にある絶対の忠が「朝廷と幕府との間に、万一どのやうな不祥な事態が起らうとも、我が主君たる天皇には絶対随順の至誠を尽すべし、といふ重大な意味を有することを感得した文公が、やがてこれを長子武公(第七代藩主・治紀)に伝へたに相違ない」と述べている。水戸においてもまた、義公遺訓は「朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」との趣旨として、文公から武公へ、武公から斉昭(烈公)へ、そして烈公から慶喜へと伝えられた。青山延于(のぶゆき)が編修した『武公遺事』には、武公が烈公に対して「何ほど将軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては、不義の事なれば、我は将軍家に従ふことはあるまじ」と語っていたことが記録されている。
実は、尾張藩における尊皇思想の継承は垂加神道、そして兵学思想と密接な関係を持っていた。敬公の遺訓を復興させた吉通とそれを明文化した近松茂矩は、ともに垂加神道を学んでいたのだ。しかも、吉通は長沼流兵学を好んだという。長沼流を創設した長沼澹斎(たんさい)(宗敬(むねよし))は、甲州流などの兵法を学んだ後、寛文(一六六六)年に『兵要録』を著し、長沼流兵法を創始した。近松もまた長沼流を皆伝しており、さらに幕末の尾張藩で活躍した徳川慶勝の側近・長谷川敬もまた長沼流を継承していた。『兵要録』には、「仮にも不義非道の弓矢をとらざれ」という言葉が記されている。これは『円覚院様御伝十五ヶ条』にある「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と見事に符合しており、近松の尊皇思想が兵学思想によって補強されていたことが窺えるのである(詳しくは拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』望楠書房)。
そして、垂加神道の尊皇思想、特に皇統守護の精神を兵学思想によって補強した人物が、今回紹介する玉木葦斎(いさい)(正英)である。寛文十(一六七一)年に生まれた葦斎は、元禄四(一六九一)年に闇斎の門人・出雲路信直に入門、さらに正徳三(一七一三)年に同じく闇斎の門人・正親町公通の門に入って垂加神道を修めた。葦斎は正徳五年には、公通から闇斎の『中臣祓風水草』の伝授を受けている。葦斎は垂加神道の継承者としての自覚を持ちつつも、同時に橘家(きっけ)神道を継承し、その発展に力を尽くすことを優先したように見える。
ただ、谷省吾は、「二つの神道(垂加神道と橘家神道=引用者)を併行して学びはじめた彼の神学的思索の過程においては、二つの神道が一つの人格・頭脳の中で、分ちがたく重なりあつてゐたことは当然である。……葦斎といふ一個のすぐれた坩堝の中で、両神道の所伝が燃焼されて、新しい綜合が行はれたことは確かである」と述べている(『垂加神道の成立と展開』)。

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坪内隆彦「国体観なき外交の終焉」(『伝統と革新』2014年11月)

●国家はただ生存するだけでいいのか
 興亜論(大アジア主義)を考える際、国家の生存とは何かという問題を突き詰めて考える必要がある。狭い意味での安全保障、物理的な生存ということを最優先で考えれば、外交は与えられた条件、自国を取り巻く国際環境の中で、現実主義的に構築されるべきだという結論が導き出されるのは分かり切ったことである。冷戦終結後もなお日本人が日米同盟以外の選択肢を提示し得ないのは、自らの防衛を自らの手に取り戻すという気概を失ったからだけではなくて、現実主義外交が外務当局や知識人に定着しているからである。いわば、「物理的生存至上主義」である。
 しかし、人間と同様、国家は物理的に存続すればそれで十分というわけにはいかない。人間に魂があり、誕生の意味、生きる意味があるのと同じように、国家にも魂があり、肇国の意味がある、と筆者は信ずる。どのような形で生存し、どのような役割を担って生存するかこそが重大なのだ。これは、国体と国家の使命と言いかえてもいい。
 この国体と国家の使命の喪失こそが、現実主義外交、日米同盟安住論の根源だと言えないだろうか。むろん、物理的な安全保障は、国体維持の前提でもある。しかし、安全保障の手段が国体とぶつかりあうジレンマから、目を背けてはならない。
 国体と国家の使命が意識されて初めて、興亜外交の価値も認められることになる。後に駐イタリア特命全権大使を務める白鳥敏夫のグループは、昭和十一年十二月に「皇道外交」のマニフェストとも呼ぶべき『日本固有の外交指導原理綱領』(以下『綱領』)をまとめた。
 『綱領』には、国体を考慮に入れた外交の在り方とは何かという視点が明確に示されていた。国家百年の大局的利益よりも、ひたすら現実的利益を追求しようとする「現実的小乗外交」を退けたのである。ただし、『綱領』は、「現実的小乗外交」を、「小乗的発展主義」(現実的利益を追って膨張政策をとろうとするもの)と「小乗的消極主義」(膨張政策は経済的に損だとして消極外交をとるもの)とに分けていた。まさに戦後日本は、「小乗的消極主義」を継続してきたわけである。
 『綱領』は、この二種の「現実的小乗外交」に対して、「大局的大乗外交」の必要性を訴えたのである。「大局的大乗外交」とは、民族的理想を基調とし、現実的な小利は犠牲にしても国家百年の大局的利益を目標とし、日本だけの利己的利益を追求する代わりに諸民族との共通の利益を目標とするものである。
 与えられた国際秩序にどう適用していくかという受動的外交ではなく、国体、国家の使命が求める国際秩序を構築するための積極的外交といってもいい。

●興亜思想の本質─肇国の理想が求める世界皇化
 そもそも、興亜論自体は、満州事変以降の外交目的・戦争目的の合理化という要請から出てきたものではない。わが国の興亜団体は、幕末の国体思想を受け継ぎつつ、明治十年に設立された振亜社(明治十三年に興亜会)や明治十一年に設立された向陽社(明治十二年に玄洋社)などを源流としている。
 その後、興亜論は列強に対する共同防衛、白人による黄色人種抑圧への道義的反発など、様々な力点が置かれながら展開されていった。多様な興亜思想があったことは、昭和十八年に大倉精神文化研究所調査部が編集した『調査報告 (興亜理念文献目録第一輯)』に示されている。同報告は、興亜思想を、「協同主義」、「聯盟主義」、「民族主義」、「経済主義」、「皇化主義」の五つに分類し、皇化主義について〈興亜理念の明徴上最もその核心を衝いた根本原理といふべく、八紘為宇の精神も家族国家の精神も、又親族法的な東亜法秩序観念も帰一するところは皇道原理である。興亜理念は肇国の精神に基き歴代の詔勅に明示せさせ給ふてゐる「万邦をして各々其の所を得しめ兆民をして悉く其の堵に安んぜしむる」の理念を措いて、他になきものと心得なければならぬ〉と書いている。本稿で光を当てるのは、この「皇化主義」としての興亜論にほかならない。
 肇国の理念を示す神武天皇「即位建都の詔」を『日本書紀』は次のように伝える。
 「……苟も民に利(さち)有らば、何にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且当に山林を披(ひらき)払ひ、宮室を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮め、上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし德(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(ただしき)を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為むこと、亦可からず乎。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か、可治之(みやこつくるべし)」
 この肇国の理念について、水戸学研究の高須芳次郎は「日本国は唯漠然とこの地上に肇められ、建てられた国ではない。一切の争闘を排して平和への歩みを続け、一切の不正を斥けて、正義への直進を為すがために、先づ自国を道義の国たらしめるよう、その実現に努めるといふ目的・使命のもとに、建てられた国だ」と指摘している。また、秋田県出身の歌人として知られた村田光烈(みつたか)は昭和十七年に『新亜細亜の誕生』を出版、八紘為宇について「神国日本としての本質を生かさんとするもの、換言すれば道義を根柢とせる人類最高の理想的国家の実現にある」と書いている。
 ただし、皇道を世界に及していくという発想は大東亜戦争勃発によって初めて生まれたものではない。すでに明治二十八年三月に、興亜の先覚荒尾精は『対清弁妄』で次のように書いている。
 「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨(こうゆうたいぼ)を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。……苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」
 荒尾精の思想的影響を受けた興亜陣営の精神的支柱頭山満は、「日本は魂立国の国じや。君民一如、皇道楽土の国柄だ。日本の天皇道位尊く又洪大無辺なものはない。日本の天皇道は只に日本国を治め大和民族を統べ給ふのみならず、実に全世界を救ひ大宇宙を統ぶるものだ。而かも日月の普きが如く、偏視なく所謂一視同仁じや」と述べていた 。吉田鞆明は、頭山の理想が、東亜全体を日本の皇道に化させること、東洋を打って一丸とする皇道楽土を建設しようとすることだったと評している。
 大本の出口王仁三郎は大正十(一九二一)年の第一次弾圧事件を乗り越え、広範な活動を展開するとともに、人類愛善会を旗揚げし、国際秩序への関心を強めていった。彼の思想にも興亜論につながる考えが見られたのだ。
 王仁三郎率いる大本・人類愛善会は、道院・世界紅卍会と関係を強めていた。道院は一九二〇年に山東省済南市で設立された組織で、道徳宗教の頽廃している現代社会を救済して人倫の本源に帰らせ、自修他済によって、人類の福祉完成に邁進することを目的として掲げていた。この目的に沿って慈善活動を執行するのが世界紅卍会である。さらに注目すべきは、王仁三郎と道院・世界紅卍会の連携の中に、頭山満や黒龍会の内田良平が参画していたことである。紅卍字会日本総会会長には王仁三郎が、責任会長には内田が、そして顧問には頭山が就いていた。そして彼らは、満洲事変が勃発すると、「明光帝国」の名のもとに満蒙自治独立自由王国の建設を目指すようになった。
 それは、皇道による世界皇化という興亜論者の夢と重なり合っていたかに見える。内田は、道院・世界紅卍会の主張を引いた上で、「日支共存親善より進んで、世界和同統一の大理想、大使命を讃へ結んでゐるところに、道院と大本教、世界紅卍字会と人類愛善会なる日支両国民族を結合せる信仰実践団体の真面目があり、茲に又た、今次の満蒙独立国家建設運動に対する紅卍字会の重大な役割と意味を示唆してゐるものとみるべきではないだらうか!」と書いていたのである。 続きを読む 坪内隆彦「国体観なき外交の終焉」(『伝統と革新』2014年11月)