唐崎定信は闇斎が「道は大日孁貴の道、教は猿田彦神の教」と説き、猿田彦神を祭ることとした教えにしたがい、竹原市本町にある長生寺に庚申堂を建てた。その時、定信に協力したのが、吉井半三郎当徳(まさのり)であった。

吉井氏の先祖は、豊田郡小泉村に住んでいた小早川氏の家臣吉井肥後に遡る。寛永の初め頃、その子源兵衛が竹原下市に移住し、米屋を営み、さらに質屋も営んで財を蓄えた。源兵衛は、慶安三(一六五〇)年、竹原に塩田が開かれると、いち早く塩浜経営に乗り出し、吉井家の基盤を築いたのである。明暦三(一六五六)年には、二代目米屋又三郎が年寄役に任ぜられている。これ以降、吉井家は代々年寄役を務めることとなる。
唐崎定信が闇斎に学び、竹原に戻った延宝四年頃、吉井家の当主は三代目の当徳であった。唐崎家と吉井家は、定信・当徳の時代から崎門学を通じた深いつながりがあったということである。しかも、定信の後を継いだ清継の妻は吉井家から嫁いでいる。
清継の子の信通や彦明、さらに孫の赤斎の遊学費用を、吉井家が負担していた。唐崎家は代々師について崎門学を学んだが、それは吉井家の支援があったからこそ可能だったのである。例えば、信通は、谷川士清や松岡仲良の塾に入門し、彦明は三宅尚斎の門に入り、赤斎もまた長期間に亘って谷川士清や松岡仲良に学んだ。
吉井家もまた、唐崎家を支援するだけではなく、崎門学を学んだ。一族の吉井正伴(田坂屋)は玉木葦斎に学び、葦斎の歿後は松岡仲良に学んでいる。また、同族の吉井元庸(増田屋)も松岡仲良に学んでいる。六代目米屋半三郎当聰は、十五歳の時から闇斎の高弟植田艮背に従学していた。だからこそ、当聰は赤斎の精神を理解し、庇護者として彼の活動を助けたのである(金本正孝「唐崎赤斎先生碑の建立と吉井章五翁」)。
「日本人」カテゴリーアーカイブ
唐崎赤斎が刻印した「忠孝」の二文字
唐崎定信が闇斎から授けられた「忠孝」の二字は、唐崎家の宝として受け継がれ、赤斎は、明和三(一七六六)年頃、礒宮八幡神社境内の千引岩(ちびきいわ)に、この「忠孝」の二文字を刻印したのである。

赤斎が自決する前年、寛政七(一七九五)年八月に仲村堅は「忠孝石碑並びに銘」と題して次のように書いている。
宋南遷の後国勢稍(やや)蹙(しゅく)す有り。天驕(てんきょう)(匈奴)日に横たう当に此時なるべし。恢復を欲し王室を張皇(ちょうこう)す。而して能く其事をする者。李綱・岳飛・文天祥・張世傑の数人の輩のみ。然(しかれ)ども其の義気忠烈は天祥の右に出る者無し。其の行状史書に載在(さいざい)す如し。是に以て贅(ぜい)に及ばず。我芸(げい)の鴨郡竹原。応皇の別廟有り。五十宮(礒宮八幡神社)と称す。前面は海。後は山を負う。巍々(ぎぎ)とした宮殿なり。鬱々(うつうつ)とした林木。真に以て奇勝と為す山麓に一巨石有り。信国公文天祥書す所忠孝二大字を刻む。祠官唐赤斎石工を使わして刻ましむ也。字大三尺許り。端厳遵勁後人(たんげんしゅうけいこうじん)の及ぶ所に非ず。蓋し信国公の忠烈然りと之使う所となすか。初め赤斎氏の祖父隼人京師に遊学し、闇斎先生の門に業を受く。高第の弟子に為る。先生嘗て某侯の門に遊ぶ。席上夫(か)の忠孝二字の真を観る。乃ち請う之の影書を。以て其家に蔵すと。隼人君師資の誼を以て、又請う之が影書を。扁額を作り、以て家珍に為す。既にして赤斎氏以為(おもえ)らく扁額之壊れ易し。石に刻めば之に勝りたるに如かず。是に於いて上石を遂ぐ。永(とこし)えに子孫に伝えて不朽ならん。嗚呼赤斎氏の挙。上(かみ)は志に父祖を継ぎ、下(しも)は謀 子孫に貽(のこ)す。延べば他人に及ぼし、是詩の謂う所の、孝子匱(とぼし)からず永く爾(それ)類(たぐい)を錫(たま)う者(こと)か。旦其端厳遵勁(たんげんしゅうけい)。覧者(みるもの)をして信国公の人となりを髣彿せしむ。千万世の下(もと)。則ち其功亦偉ならず哉。余郡の耳目官(じもくのかん)と為す。拝謁五十宮。此に於いて寓目に与る実感す信国公の忠烈を。且つ嘉(よみ)す赤斎氏の盛挙を。是に於いて記し以て贈と為す。作を遂げ銘し曰く。
応皇の鎮まる所 維(こ)れ海の浜 魚塩(ぎょえん)(海産物)利有り
茲に民聚(あつま)る 賈舶(こはく)岸に泊す 巨室(きょしつ)比隣す
維(これ)山の麓なり 盤石嶙峋(りんしゅん) 石工鐫(せん)する所
筆勢絶倫なり 此文公に況(たと)えん 宋の名臣に有り
遵勁(しゅうけい)にして飛動 端厳(たんげん)なる精神 名下(なのもと)に虚(むなし)からず
佳手珎なるべし 維れ此の唐氏 祖親の志を継ぐ
胎厥(たいけつ)(子孫)不朽 延べば他人に及ぼし 華表(鳥居)直立す
神宮奐輪(かんりん) 幾千万世 奉祀明神(ほうしめいしん)
闇斎が唐崎定信に与えた文天祥「忠孝」の二文字
蘇峰は、唐崎赤斎顕彰碑撰文をきっかけに崎門学に傾倒していった。大きな転機となったのが、竹原を訪問し、崎門学と竹原のゆかりを目のあたりにしたことである。
唐崎赤斎の祖先定信は礒宮八幡神社神官だった。定信は万治元(一六五八)年に、磯宮八幡宮を古宮山から現在の竹原市田ノ浦に移転建設した中興の祖と言われている。
この定信こそ、竹原に垂加神道を広めた最初の人であつた。定信は延宝年間(一六七三年~一六八一年)に上京し、山崎闇斎に師事し、垂加神道を学んだのである。定信が闇斎に宛てた誓文が残されている。
一 神道御相伝の御事誠に有難き仕合せ恩義の至り忘れ申す間敷事
一 以て其の人に非ざれば示すべからず堅守し此の訓を御許可無きに於いては猥りに口を開き人に伝へ申す間敷事
一 畏国の道習合附会仕る間敷事
右三ヶ条の旨相背くに於いては
伊勢八幡愛宕白山牛頭天王、殊に伊豆箱根両所権現、惣て日本国中大小神祇の御罰相蒙る者也
延宝三年乙卯十一月十九日
柄崎隼人藤原定信
山崎加右衛門様
定信は闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から文天祥筆の「忠孝」の二大文字を授けられた。木綿布に対する闇斎の礼状も残されている。
「見事木綿壱疋御送給、遠路御懇意之到、過分二存候、我等弥無事可被心安下被」(見事な木綿壱疋御送り給い、遠路御懇意の到り、過分に存じ候、我等いよいよ無事、安心下さるべく候)
金本正孝は、闇斎のこの書状(縦十四センチ・横三十センチ)は、延宝四年に書かれたものと推定してゐる(「世に知られざる唐崎士愛の生涯」『芸林』第四十五号第二号)。

近松家と赤穂義士
■知られざる尊皇思想の発火点・尾張藩
尾張藩が水戸藩と並ぶ尊皇思想の発火点となったのは、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」が脈々と継承されたからである。
「王命に依って催さるる事」は、事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
この義直の遺訓は、第四代藩主・徳川吉通(在任期間:一六九九~一七一三年)の時代に復興し、明和元(一七六四)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて十九世紀半ば、第十四代藩主・徳川慶勝の時代に、近松茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。
ここで注目したいのが、近松家と赤穂義士の関わりである。もともと、近松茂矩が学んだ崎門学においては、赤穂義士の行動を肯定する議論が展開されていた。もちろん、崎門学派の中でも佐藤直方のような否定論はあったが、浅見絅斎は「四十六士論」において、義士の行動を称えていた。そして、勤皇の志士の中には、赤穂義士の行動に尊皇反幕の思想を読み取ろうとする者もいたように見える。
赤穂事件は、吉通が藩主に就任してまもなくの元禄十四(一七〇一)年三月十四日に起きた。浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で、高家の吉良上野介義央に斬りかかった。将軍・綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹に処せられた。これに対して、翌元禄十五年十二月十四日夜、家臣の大石内蔵助良雄以下四十七人が、江戸の吉良邸に討ち入りしたのだ。
縁者である近松勘六(行重)が赤穂義士の一人だったこともあり、茂矩にとって赤穂事件は極めて重い意味を持っていた。勘六は、討ち入りの際、表門隊の一員として早水藤左衛門らと屋外で奮戦、泉水に転落したが、ひるむことなく敵を斬り伏せたという。勘六の兄弟の奥田定右衛門も義士の一人であった。
■近松勘六と山鹿素行
令和二年二月には、大アジア研究会代表の小野耕資氏、樽井藤吉研究者の仲原和孝氏と共に大津に赴いた際、勘六旧邸を訪れたが、残念ながら邸宅内の見学は叶わなかった。

令和四年十一月三日の明治節の日、『維新と興亜』同人で泉岳寺を訪れ、勘六のお墓にお参りすることができた。

ここで注目すべきは、勘六が山鹿素行の思想に学び、尊皇思想に目覚めていたことである。素行は、元和八(一六二二)年八月に生まれ、林羅山に朱子学を、小幡景憲、北条氏長らに甲州流兵学を学んだ。寛文五(一六六五)年に『聖教要録』で朱子学を批判し、赤穂藩浅野家預けとなった。
「聖人の学を志すときは聖人を師とす」(『山鹿語類』)とあるように、素行が志した学問は「聖学」、すなわち「聖人」の学問であった。当初彼は、中国の聖人、孔子とそれ以前の十聖人(伏義・神農・黄帝・堯・舜・禹・湯・文・武・周公)を聖人として崇めた。やがて彼は、聖人たる根拠を求めていく過程で、神を聖人と同一視するようになり、日本の神々こそ「聖人」であり、「往古の神勅」をはじめとする遺教こそ「聖学」・「聖教」の渕源であり、神道こそ「聖道」である、という考え方を固めるに到った。こうして彼は、儒学に匹敵するわが国の「聖教」を導き出すべく、『日本書紀』が伝える神勅と向き合ったのだ。
そして素行は寛文九(一六六九)年に『中朝事実』を著し、易姓革命のない日本こそが中華であると言い切った。「中朝」とは日本を指している。
素行は、神武天皇が群臣に詔して、「ここに謹んで天位に即き、国民を統治し、アマテラス及びタカミムスビがこの国を授け給うた御徳に沿い、ニニギノミコトが降臨されて、正道を中心として人民を導かれた御心をさらに天下に弘めたいと考える」と仰せられたことを重視していた。また、第十代・崇神天皇が即位四年の冬十月に下された詔について、素行は、天子が皇位を私有視することを戒められたものであり、永遠の皇室の御繁栄を基礎づけられたものと拝察できると書いている。さらに素行は、「民のかまど」の逸話に示される仁政で知られる第十六代・仁徳天皇について「御身に並々ならぬ節約を守られ、国民を裕福にさせて、頼るべき人のない哀れな者を救って、国民の貧富は、そのまま帝王の貧富だとされた」と述べている。
勘六が素行の国体思想を継承していたことは、西村豊の『赤穂義士修養実話』に、「原惣衛門(近松勘六)は大石内蔵助の四天王にて義挙に貢献したことは云ふまでもないが、近松勘六の一美事として見るべきは、山鹿素行の遺著なる山鹿語類を愛読した点である」と書かれていることから明らかだ。
西村は、勘六が郷友に送った手紙に「山鹿語類、武教要録の儀、先其許へ御指置可被下候」とあることを指摘し、こう続ける。
「義士中にありて山鹿に親炙せしものは原惣右衛門、間喜兵衛の二人のみ、此は山鹿日記に見えて居る、其外大石内蔵助始め四十七士は山鹿の感化を得る所ありしあらんも、其の得し所のもの如何なる順序を以てせるか又如何なる書物に依りて得たるか今明かに之れを知ることが出来ないが、勘六の如きは間接と云ひながら、此の手紙によるときは彼は山鹿の尤も心力を注ぎし語類を蔵すれば、之を愛読したのは明白である」
一方、『天津日を日神と仰ぎ奉る国民的信仰に就いて』などを著した丸山敏雄は、「大石内蔵助が、その大業成就の最大動因は、その師山鹿素行先生に享けた『中朝事実』にあらはれた国体観念であり、山鹿流軍学にうけた日神の信仰でなければならぬ」と述べている。大星伝を受容していた近松茂矩は、素行から勘六や大石に伝えられた国体思想と不可分の「日神(天照大神)信仰」、そして大星伝に強く共鳴するところがあったに違いない。

赤穂義士十七回忌にあたる享保四(一七一九)年、片島武矩が編纂した『赤城義臣伝(太平義臣伝)』が刊行されている。その首巻には、義士の図像が掲載されているが、勘六の図像の賛を書いたのが茂矩であった。
また、茂矩は赤穂義士の一人で、名古屋出身の片岡高房(源五右衛門)に対しても特別な思いを抱いていた。茂矩の『昔咄』には、「内匠頭大変の時、源五右衛門、始めから義心鉄石の如くにて、四十七人のなかにて勝れたる者なり」と記されている。
徳富蘇峰と崎門学
■なぜ蘇峰の父は「一敬」と号したのか
徳富蘇峰は、竹原の崎門学派・唐崎赤斎の顕彰碑碑文を撰したのをきっかけに、崎門学への思いを一層強めていった。やがて蘇峰は、横井小楠やその門人であった父一敬らについても、次のように書くに至る。
「世間では横井小楠を目して、陽明学派と称するも、彼は本来山崎学派にして、小学、近思録、大学或門、中庸或門輯略などは、彼自ら読み、且つ門人にも課した。而して其の門人たる吾が父及び其弟の如きも、闇斎を崇敬するの余り、闇斎の名たる敬義を分ち用ゐ、一敬、一義と称してゐた程であつた。又小楠の学友長岡是容、元田永孚の如きも、亦然りであつた。固より彼等は永く崎門の牆下には立たなかつたが、其の門戸は是れに由つた。されば元田永孚の 明治天皇に御進講申上げたる経書の如きも、彼が如何に山崎学に負ふところの多大であつたかは、今更之をくだくだしく説明する迄もあるまい。若し地下の闇斎先生にして知るあらば、吾道の明治聖代に際して、大いに世に明らかになりたるを、定めて思ひ掛けなき幸運として感謝したであらう」(「歴史より観たる山崎闇斎先生及び山崎学」『山崎闇斎と其門流』伝記学会編、明治書房所収)
この蘇峰の一文に誇張したところはない。崎門の楠本碩水が編んだ『崎門学脈系譜』付録には「私淑派」というカテゴリーが設けられており、そこには吉井正伴、吉井底斎、長岡温良(監物)、横井小楠、元田東野、徳富淇水、徳富龍山らの名前が記されているのだ。徳富の父徳富淇水は一敬と、淇水の弟龍山は一義と号していたのだ。また、平泉澄は『解説近世日本国民史』で次のように書いている。
〈蘇峰の晩年に、といふよりは最後に面談した時に、遺言として色々話があつた中に、淇水の諱一敬の敬も、龍山の諱一義の義も、また蘇峰の諱正敬の敬も、すべて是れは山崎闇斎の諱敬義の一字を貰つたのであると、私に語られた。また其の幼年時代に母の膝の上に抱かれながら、謝畳山(枋得)の詩「雪中の松柏いよいよ青々」を聴き覚えに覚えた事は、蘇峰自伝に見えてゐる。して見れば徳富家は、江戸時代かなり有力に肥後に伝はつてゐた山崎闇斎の学問を以て家学としてゐた事、明かである〉
すでに蘇峰は大正七(一九一八)年六月三日に『近世日本国民史』の執筆を開始していた。そのきっかけは、明治天皇の崩御であった。明治という時代の終焉に当り、蘇峰は「明治天皇御宇史」の著述を決意したのである。
大正十三(一九二四)年十一月四日には、崎門学派弾圧事件が発生した宝暦、明和の時代を扱った第二十二巻「宝暦明和篇」を書き始め、大正十四年二月十三日に脱稿している。同巻では、「尊王斥覇の思潮」の一章を割いて、以下のように述べている。
「国典の研究は、決して幕政の支持に有利ではなかつた。歌人は、万葉、古今の王朝を偲び、律令格式の学者は、朝政の盛時を慕ひ、歴史研究者は、皇祖肇国の大業を仰ぎ、何れの方面に於ても、慕古の思想を萌生し、而して慕古の思想は、やがて、復古の思想たらざるを得なかつた」
蘇峰は、「宝暦明和篇」起稿前年の大正十二(一九二三)年の八月には、「月田蒙斎」という随筆で次のように書いている。
「山崎派の本山とも云ふ可きは、京都の望楠軒であった。望楠軒の主盟は、若林強斎・西依成斎而して最後に梅田雲浜だ。若し夫れ九州に於ける山崎派の学統は、肥後の月田蒙斎より、肥前の楠本碩水に至り、延いて今日に及んでいる」(『第二蘇峰随筆』大正十四年所収)
■徳富蘇峰・平泉澄・有馬良橘が崎門学継承を強く意識した昭和三年
崎門学の継承において、蘇峰が果たした役割は極めて大きい。その活発な活動は、平泉澄との出会いによって拍車がかけられたように見える。

以下、高野山大学助教の坂口太郎氏の「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」(第十九回松本清張研究奨励事業研究報告書、平成三十一年三月)に基づいて、蘇峰と平泉の関係について紹介したい。
両者の好誼は、大正十五(一九二六)年から蘇峰が亡くなる昭和三十二(一九五七)年まで三十年以上にわたって続いた。
平泉は蘇峰を追悼した「徳富蘇峰先生」で、「私が先生より受けましたもの、又先生が私に対して示されました深い御理解、或は御愛顧といふものが、殆ど日夜咫尺して居ると異ならぬやうに私は感ずるのであります」と述べている。
蘇峰の『近世日本国民史』の連載が『国民新聞』で開始された大正七年、平泉は東京帝国大学文科大学の学生だったが、国民新聞に載った「国民史」の連載を切り抜いて読んでいたという。
両者の直接的に交流は、『国民新聞』が主体的に運営していた国民教育奨励会での活動を通じて始まっている。大正十五年八月に奈良県吉野山蔵王堂で開講された師範大学講座において、平泉は「国史通論」と題して講演したのだ。以来、平泉は蘇峰から講演会の講師として招聘されるようになる。
また、蘇峰は平泉の『神皇正統記』研究を支援していた。蘇峰は貴重な自らの蔵書である、『神皇正統記』の梅小路家本・登局院本を特別に平泉に貸し出している。
そして、昭和三年は蘇峰と平泉、さらには海軍大将の有馬良橘が崎門学の継承を強烈に意識する年となる。その年は、橋本左内の七十年忌に当っていた。左内の顕彰に注力していた平泉は、左内七十年忌に際して、盛大な講演会と展覧会を催すべく、蘇峰に講演を懇望したのであった。同年十月七日、東京小松原の回向院において、橋本左内の墓前祭が斎行され、その後、東京帝国大学仏教青年会館に場所を移して、記念祭典と講演会が開催された。「橋本左内先生」と題して講演を務めたのが蘇峰である(坂口太郎「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」)。
蘇峰は翌十一月、昭和天皇の即位御大典に際して京都に赴き、海軍大将の有馬良橘の案内で黒谷にある闇斎の墓にお参りしている。平泉が予てから尊敬していた有馬と出会うのは、翌十二月のことだ。平泉は、同月十四日に開催された、海軍の退役高級武官の親睦修養組織「有終会」主催の講演会で、「歴史を貫く冥々の力」と題して講演し、崎門学の真価を訴えたのである。平泉は次のように振り返る。 続きを読む 徳富蘇峰と崎門学
国体をつないだ礒宮八幡神社の赤斎唐崎先生碑
敗戦の瞬間、占領軍によってわが国の国体の破壊が開始された。この苦難の時代を耐え抜いて国体精神を守り抜いたのは、先人の魂を伝えるために身を挺して日本人であった。中でも広島県・竹原の崎門学派・唐崎赤斎の魂を伝えようと志した同門、同郷の吉井章五の不屈の精神こそ、日本人が忘れてはならない歴史の一つなのではなかろうか。
筆者は令和四年七月、竹原市を訪れ、赤斎ゆかりの礒宮八幡神社に向かった。吉井が幾多の困難を乗り越えて建立した赤斎唐崎先生碑の前に立つと、「首向宮闕」の四文字が目に飛び込んできた。赤斎の遺墨だ。徳富蘇峰撰、上田鳩桑書の碑文冒頭には「先生、覇府(幕府)鼎盛の世に当り、尊皇の大義を首倡し……」とある。この碑こそ、吉井が赤斎顕彰に人生を懸けた証である。
筆者はいま、崎門正統を継いだ近藤啓吾先生門下の金本正孝先生の研究を継いで、赤斎の足跡を令和の世に伝えようとしている。


吉井が「年来の素願」であった赤斎顕彰碑建立に動いたのは、昭和四(一九二九)年秋のことであった。吉井は上京し、熊本新聞主幹を務めた同郷の村上定を訪問、顕彰碑の建設について相談したのである。村上はただちにこれに賛同し、篆額は東郷平八郎大将に依頼してはどうかと提案した。吉井が村上に宛てた書簡が残されている。
「……唐崎先生之碑文之儀、種々御厄介之儀御頼申上候処、早速御賛同御承諾被下喜悦大に力を得申候、既に申上候通り小生年来の素願にて、此機を失しては、永久に国士を礼賛する標識、望無之事と信じ申候。又一郷之思想を永久ニ誤らしめざるは之に優るもの無之存候。此素願を是非共達成致度く存申候間、何卒微衷御洞察の上、此上とも万事御援助賜候て所願貫徹せしめられ度御願申上候。篆額之儀、興国標的たる大偉人東郷大将の御揮毫の御気付は更に大妙、宜しく〱御心添被下、又書の儀は其内東都なり平安の大家御考慮被下候様願申候……」
金本は、この書簡が出されたのは昭和四年十一月八日だと推測している。
吉井の念頭には、碑文を徳富蘇峰に依頼することがあったに違いない。村上は蘇峰と交友があったからだ。昭和五年が明けると、吉井の念願は蘇峰に伝えられたのである。蘇峰が約半年かけて練った文稿は、同年六月二十七日に吉井に届けられた。
東条政権下の維新派─昭和18年10月の一斉検挙事件
令和4年10月7日に開催された『維新と興亜』塾「橘孝三郎を読み解く」(講師:小野耕資)に参加させていただいた。
小野氏からの講義の後、東条政権下の橘孝三郎の動向にかかわる質問があった。近衛新体制下、東条政権下における維新派の動向は極めて重要なテーマである。
小菅刑務所で服役していた橘が仮釈放となって出所するのは、昭和15年10月17日のことである。血盟団事件の井上日召も同じ日に出所している。
三上卓は、これより先昭和13年7月に仮釈放となっている。橘が仮釈放となる少し前の昭和15年2月前後、三上は大岸頼好らとともに、何度も近衛文麿と面会、やがて近衛新体制運動が動き出す中で、同年7月初旬、七生社の穂積五一らと日本主義陣営の横断的組織の結成に動き、同年8月16日 学士会館で「翼賛体制建設青年連盟」(後に皇道翼賛青年連盟と決定)を結成することを決めた。一方、井上日召は、三上や四元義隆の協力を得て、昭和16年7月に「ひもろぎ塾」を設立した。
東条政権が発足するのは、その3カ月後の昭和16年10月18日である。東条は昭和17年1月18日、戦時刑事特別法案を国会に提出した。国家総動員法、言論出版集会結社等臨時取締法につらなる戦時体制強化を目指した法案だった。一部議員の反対を押し切って成立した同法は同年3月に施行された。東条は、さらに同年末に召集された第81議会で、「国政を変乱」する目的の刑法犯や、治安・秩序を乱す宣伝活動なども処罰対象とする同法改正案を提出した。帝京大学教授の小山俊樹氏は次のように述べている。
〈戦刑法の改正過程は、強権化した東条英機政権への反発者を炙り出すものとなった。
一九四三年二月、第八一議会では衆院議員の清瀬一郎(元五・一五事件弁護人)が、「言論の自由」を求め、統制強化をすすめる東条政権を正面から批判した。さらに鳩山一郎(元政友会)ら旧既成政党の非主流派(自由主義派)と、中野正剛(元東方会・東方同志会会長)ら国家主義派、笹川良一・赤尾敏ら民間右派、水谷長三郎(元社会大衆党)ら旧無産政党系など、左右の立場を問わない衆院議員が結集して戦刑法の改正に反対した。皇道翼賛青年連盟も、東方同志会など一四団体と連名で反対を表明した。だが東条内閣は強行採決で改正案を成立させ、反対者への弾圧を強化した。
東条政権の高まる威圧を前に、三上ら維新勢力は軍部との対立を深める。毛呂(清輝)は回想する。
「東条の憲兵政治は常に私らの動きに眼を光らせていた。〔中略〕当時は支配者は官僚化した軍部であり、その治下での国内革新の運動は技術的にも非常に困難だった」。東方同志会の幹部も、三上とはこの頃に「相提携してともども東条内閣と戦った」と回顧する。
ただし毛呂によると、三上は皇道翼賛青年連盟の一部が「非常手段による東条内閣打倒を計画したとき」に反対し、委員長を辞して脱退したという(「日本クーデターの真相」)。三上の動向は判然としないか、青年たちを危険にさらすテロは本意ではなかったのであろう。
このとき政権批判の急先鋒は、東条首相をこきおろす「戦時宰相論」を『朝日新聞』に寄稿した(即日発禁)中野正剛であった。中野は密かに、天野辰夫(神兵隊事件首謀者)と結んで宇垣一成(元陸相・元外相)擁立工作を進めていた。片岡駿(勤皇まことむすび=五・一五事件元受刑者の本間憲一郎らを中心に一九三九年結成)の協力によって、東条に予備役へ編入された石原莞爾(陸軍予備役中将)とも密かに連絡した。
一九四三年一〇月二一日の全国一斉検挙は、これらの反東条の動向を圧殺しようとするものであった。東方同志会・勤王まことむすび・大日本勤王同志会などの民間右派から、百数十名を超える大量の検挙者が出た(皇道翼賛青年連盟の構成員もこの数に含まれる)。〉
やがて三上は東条暗殺計画に参画する。昭和19年6月22日、三上は東条政権打倒に動いていた高木惣吉海軍少将に近い神重徳大佐と密会、暗殺計画を作成していった。高木の残した記録によると、「決行人員は七人。場所は海軍省手前の四つ角。自動車三台に分乗し、海軍省内、大審院の濠沿い、内務省側にそれぞれ待機。(東条の)オープンカーが警視庁前に見えたら合図させ、前と両方の三方から挟み撃ちにして衝突させ、射殺する」という計画だった。
ところが、7月13日付で神大佐に、連合艦隊司令部参謀への転出内示が出される。そのため、計画の実行は一週間延期された。その間、7月18日にサイパン失陥の責任をとる形で、東条内閣は総辞職。暗殺計画は実行されなかった。
一方、永松浅造は『生きている右翼』で次のように書いている。
「皇道翼賛青年連盟の毛呂清輝、小島玄之もまた軍部の擅横に対して蹶起した。
その理由は、東条内閣と大政翼賛会と、陸軍大将阿部信行を総裁とする翼賛政治会とは、三位一体となって国政を壟断し、議会の真の機能を停止状態に麻痺させている。これは明かに欽定憲法を無視し、蹂躍した軍部中心の幕府的存在で、その亡状、天人倶に許しがたい。速かにその非を改めると同時に辞職せよと、猛然、非難攻撃をした」
竹原の吉井家と頼家─垂加神道を支えた「浜旦那」
令和4年7月、広島県竹原市を訪れた。尊皇斥覇を体現した唐崎家とも関わりのあった吉井家、頼家の足跡を辿るためだ。
まず、照蓮寺を訪れ、山陽の祖父・惟清(これすが)と祖母・仲のお墓にお参りした後、竹原町並み保存地区に移動。
竹原は平安時代、京都・下鴨神社の荘園として栄えた歴史から、「安芸の小京都」と呼ばれている。江戸時代に入浜式塩田を開いてから、竹原は大いに発展した。竹原は塩作りの町として躍進し、「浜旦那」と呼ばれる塩田経営者たちが栄華を誇った。松阪家、頼家、ニッカウイスキーの竹鶴政孝の竹鶴家(竹鶴酒造)、吉井家、森川家などが浜旦那として知られる。
吉井家は半三郎当徳が第三代当主に就いてから、大俵塩問屋の特権を認められ、質店に加え、酒造・塩業さらに塩問屋と業種を追加し、商家として飛躍的な発展を遂げた。
実は吉井家と竹原の崎門学の発展を牽引した唐崎家には深い結びつきがあったのだ。
山崎闇斎に師事した唐崎定信が長生寺(赤斎自決の場所)に、猿田彦神を祀る庚申堂を建てた際、それを支援したのが、半三郎当徳であった。さらに、定信の後を継いだ清継の妻は吉井家から嫁いでいる。赤斎らの遊学費用を負担したのも吉井家であった。しかも、吉井家六代目当主の当聴自身が闇斎の高弟植田艮背に師事している。また、吉井正伴、吉井元庸ら吉井の同族も垂加神道を修めていた。
一方、頼家の祖先は小早川氏に仕え、三原の頼兼村に住んでいたと伝えられているが、惟清の曾祖父の時に竹原に移住して海運業を営み、祖父の頃に紺屋を始めた。今も惟清が紺屋を営んでいた旧宅が残っている。裏庭には山陽の詩を刻んだ碑が建っている。
惟清も竹原の崎門派と交わり、晩年には谷川士清に師事していた。つまり、惟清、唐崎赤斎、赤斎の父・信通は同門ということになる。惟清は小半紙に「忠孝」の二文字を書いて守袋に収めていた。この「忠孝」の二文字は、唐崎定信ゆかりのものに違いない。
惟清には五人の息子が生まれたが、次男と五男は早世。残った3兄弟が、長男春水、三男春風、四男杏坪である。惟清は生涯の望みとして、「男子を学者にすること」「富士山を見ること」「家を新築すること」の三つがあったが、この望みはいずれも子供達によって実現した。
春水は広島藩主浅野重晟により藩儒および藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)教授として招聘された。
春風は大阪で医学と儒学を学び、医業を開業し、塩田経営にも乗り出し、天明元(1781)年には春風館を建築した。また、春風の養子である小園の子三郎が分家し、春風館の西側に隣接して復古館を建てた。
杏坪は春水とともに安芸に移りのち藩儒となった。
春水もまた崎門学の影響を受けていたようだ。頼成一は、「春水は少年時代から垂加派の主義思想を脳裏に深く強く焼きつけられてゐたに違いない」と書いている。
なお、道の駅たけはらと交差点を挟んで対角側の本川沿いには頼山陽広場があり山陽の銅像が建っている。
[flagallery gid=16]
尊皇斥覇の発火点─竹原の唐崎家と頼家
令和4年7月、広島県竹原市を訪れた。山崎闇斎を祖とする崎門の精神を体現した唐崎赤斎(常陸介)の魂を訪ねるためだ。もう一つの目的は、頼山陽の祖先の足跡を把握すること。
寛政5(1793)年6月、赤斎の盟友・高山彦九郎が久留米で切腹。赤斎は彦九郎 の魂を受け継いで尊皇斥覇の運動を続けたが、大きな壁にぶつかったのだろう。寛政8(1796)年11月16日、長生寺を訪れ、先祖の墓前で切腹した。動機を尋ねられた赤斎は「聊か憤激のことあり」とのみ応え、絶命したという。 まず竹原駅から市立竹原書院図書館に向かい、崎門の金本正孝氏による赤斎研究書や『唐崎常陸介資料集』などを閲覧、複写。
次に礒宮八幡神社に向かう。もともとは建久5(1194)年、鎌倉の幕臣後藤兵衛実元が、宇佐八幡宮の分霊を後藤家の守護神として勧請し、後藤家に鎮祭したのが始まり。後藤実元の没後、地元の人々により現在地(田ノ浦一丁目6-12)の南西方面の鳳伏山麗に社殿を建てて祀ったとされる。万治元(1658)年に現在地に遷座したのが、赤斎の高祖父・唐崎正信だ。正信の息子の定信は山崎闇斎の門人である。
生前、赤齋は尊皇斥覇の精神を鼓舞するため、境内の千引岩に、文天祥の筆になる「忠孝」ニ文字を刻した。この「忠孝」の二文字こそ、定信が闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から授けられたものだった。
礒宮八幡神社には赤斎唐崎先生碑が建っている。題額の四文字「首向宮闕」は赤斎の遺墨。碑文は徳富蘇峰、書は上田鳩桑。
建立されたのは昭和28年8月10日。建設者として、後に総理を務める池田勇人ら七人の名前が刻まれているが、中心人物は竹原の長老吉井章五だ。吉井のほか、崎門の内田周平翁らが関わった、建立に至るドラマについては稿を改めたい。
礒宮八幡神社を後にし、赤斎が切腹した長生寺に赴き、墓前で赤斎の無念に思いを馳せた。
[flagallery gid=15]
石原莞爾の民族協和主義①
ちょうど五十年前の昭和四十七年、田中角栄は日中国交回復に動いた。それを支えたのが元帥と呼ばれた男・木村武雄である。日中国交回復を使命と定めた木村の原点には、師・石原莞爾の民族協和主義があった。
昭和十六年三月、石原は京都の十六師団長を最後に、現役の軍職から退いた。当時、「石原退職の原因は、木村が石原将軍擁立の政治運動をやったことだ」という噂も流れていた。そこで木村は、謝罪もかねて石原を京都の師団長官舎に訪れたのだ。その時、石原は木村に次のように語ったという。
「今までの日本人は、民族独善主義の道を歩いて来た。そしてその結果、日清戦争・日露戦争にも勝ち、更に第一次大戦でも勝利して、日本は世界の三大列強の一つになる事が出来た。然し日本が満州問題に発言して以来、日本の民族独善主義は完全に民族協和主義に変ってしまったのだ。それで民族協和主義に徹しなければ、これからの日本は成り立たない。これからの日本は役に立たなくなるんだ」


では、なぜ民族協和主義に変わったのか。石原は次のように語った。
「日本人は、日本と云う島国に住んでおる時代は民族独善主義でも良かったけれども、日本が大陸に発言して満州に新しい国造りをやってからは、完全に民族協和主義になってしまった。そうならざるを得なくなったのだ。それ以前には、朝鮮半島に新しい日本国を建設して、朝鮮民族と日本民族で手を携えて朝鮮内外の場所で、お互いが仲良くなるよう努力したが、その時にはまだ民族協和主義に日本は徹していなかったのだ。
その証拠には、日本が朝鮮半島で教育を指導するようになったが、その教育を通して、朝鮮民族の使用しておった朝鮮語は使わせないようにした。朝鮮語を教えないようにして日本語だけで朝鮮民族の教育をやった。これをみても、その時代の日本は、やはり日本民族の独善主義がそのままその時代まで横行しておったと思う。ところが、日本が一度満州に足場を造って、そこで満州問題について日本が発言するようになってからは、民族独善主義では通らなくなった。それで民族協和主義に変ったのだ。なぜかと申せば、満州には在来の先住民族として蒙古人が住んでおる。そこに満州民族がどっとおしかけてきて、満州民族も住むようになった。更に漢民族も多数住みつくようになった。それに西の方からはロシア人がやって来て住むようになり、東の方からは朝鮮民族がやって来て住むようになり、そこにまたまた日本人が、日清日露戦争以来、特に日華事変以来やって来て住みつくようになってからは、六族が満州に住むようになった。そこで六族が相共に協和しなければ満州国と云うものを育成、強化する訳にはゆかなくなったのだ。それ以来、日本人は民族独善主義をかなぐり捨てて、民族協和主義を掲げざるを得なくなったのだ」
この話を聞いて、木村は民族協和主義が日本にとっては必要欠くべからざるものである事を確信した。