坪内隆彦「国体観なき外交の終焉」(『伝統と革新』2014年11月)

●国家はただ生存するだけでいいのか
 興亜論(大アジア主義)を考える際、国家の生存とは何かという問題を突き詰めて考える必要がある。狭い意味での安全保障、物理的な生存ということを最優先で考えれば、外交は与えられた条件、自国を取り巻く国際環境の中で、現実主義的に構築されるべきだという結論が導き出されるのは分かり切ったことである。冷戦終結後もなお日本人が日米同盟以外の選択肢を提示し得ないのは、自らの防衛を自らの手に取り戻すという気概を失ったからだけではなくて、現実主義外交が外務当局や知識人に定着しているからである。いわば、「物理的生存至上主義」である。
 しかし、人間と同様、国家は物理的に存続すればそれで十分というわけにはいかない。人間に魂があり、誕生の意味、生きる意味があるのと同じように、国家にも魂があり、肇国の意味がある、と筆者は信ずる。どのような形で生存し、どのような役割を担って生存するかこそが重大なのだ。これは、国体と国家の使命と言いかえてもいい。
 この国体と国家の使命の喪失こそが、現実主義外交、日米同盟安住論の根源だと言えないだろうか。むろん、物理的な安全保障は、国体維持の前提でもある。しかし、安全保障の手段が国体とぶつかりあうジレンマから、目を背けてはならない。
 国体と国家の使命が意識されて初めて、興亜外交の価値も認められることになる。後に駐イタリア特命全権大使を務める白鳥敏夫のグループは、昭和十一年十二月に「皇道外交」のマニフェストとも呼ぶべき『日本固有の外交指導原理綱領』(以下『綱領』)をまとめた。
 『綱領』には、国体を考慮に入れた外交の在り方とは何かという視点が明確に示されていた。国家百年の大局的利益よりも、ひたすら現実的利益を追求しようとする「現実的小乗外交」を退けたのである。ただし、『綱領』は、「現実的小乗外交」を、「小乗的発展主義」(現実的利益を追って膨張政策をとろうとするもの)と「小乗的消極主義」(膨張政策は経済的に損だとして消極外交をとるもの)とに分けていた。まさに戦後日本は、「小乗的消極主義」を継続してきたわけである。
 『綱領』は、この二種の「現実的小乗外交」に対して、「大局的大乗外交」の必要性を訴えたのである。「大局的大乗外交」とは、民族的理想を基調とし、現実的な小利は犠牲にしても国家百年の大局的利益を目標とし、日本だけの利己的利益を追求する代わりに諸民族との共通の利益を目標とするものである。
 与えられた国際秩序にどう適用していくかという受動的外交ではなく、国体、国家の使命が求める国際秩序を構築するための積極的外交といってもいい。

●興亜思想の本質─肇国の理想が求める世界皇化
 そもそも、興亜論自体は、満州事変以降の外交目的・戦争目的の合理化という要請から出てきたものではない。わが国の興亜団体は、幕末の国体思想を受け継ぎつつ、明治十年に設立された振亜社(明治十三年に興亜会)や明治十一年に設立された向陽社(明治十二年に玄洋社)などを源流としている。
 その後、興亜論は列強に対する共同防衛、白人による黄色人種抑圧への道義的反発など、様々な力点が置かれながら展開されていった。多様な興亜思想があったことは、昭和十八年に大倉精神文化研究所調査部が編集した『調査報告 (興亜理念文献目録第一輯)』に示されている。同報告は、興亜思想を、「協同主義」、「聯盟主義」、「民族主義」、「経済主義」、「皇化主義」の五つに分類し、皇化主義について〈興亜理念の明徴上最もその核心を衝いた根本原理といふべく、八紘為宇の精神も家族国家の精神も、又親族法的な東亜法秩序観念も帰一するところは皇道原理である。興亜理念は肇国の精神に基き歴代の詔勅に明示せさせ給ふてゐる「万邦をして各々其の所を得しめ兆民をして悉く其の堵に安んぜしむる」の理念を措いて、他になきものと心得なければならぬ〉と書いている。本稿で光を当てるのは、この「皇化主義」としての興亜論にほかならない。
 肇国の理念を示す神武天皇「即位建都の詔」を『日本書紀』は次のように伝える。
 「……苟も民に利(さち)有らば、何にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且当に山林を披(ひらき)払ひ、宮室を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮め、上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし德(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(ただしき)を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為むこと、亦可からず乎。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か、可治之(みやこつくるべし)」
 この肇国の理念について、水戸学研究の高須芳次郎は「日本国は唯漠然とこの地上に肇められ、建てられた国ではない。一切の争闘を排して平和への歩みを続け、一切の不正を斥けて、正義への直進を為すがために、先づ自国を道義の国たらしめるよう、その実現に努めるといふ目的・使命のもとに、建てられた国だ」と指摘している。また、秋田県出身の歌人として知られた村田光烈(みつたか)は昭和十七年に『新亜細亜の誕生』を出版、八紘為宇について「神国日本としての本質を生かさんとするもの、換言すれば道義を根柢とせる人類最高の理想的国家の実現にある」と書いている。
 ただし、皇道を世界に及していくという発想は大東亜戦争勃発によって初めて生まれたものではない。すでに明治二十八年三月に、興亜の先覚荒尾精は『対清弁妄』で次のように書いている。
 「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨(こうゆうたいぼ)を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。……苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」
 荒尾精の思想的影響を受けた興亜陣営の精神的支柱頭山満は、「日本は魂立国の国じや。君民一如、皇道楽土の国柄だ。日本の天皇道位尊く又洪大無辺なものはない。日本の天皇道は只に日本国を治め大和民族を統べ給ふのみならず、実に全世界を救ひ大宇宙を統ぶるものだ。而かも日月の普きが如く、偏視なく所謂一視同仁じや」と述べていた 。吉田鞆明は、頭山の理想が、東亜全体を日本の皇道に化させること、東洋を打って一丸とする皇道楽土を建設しようとすることだったと評している。
 大本の出口王仁三郎は大正十(一九二一)年の第一次弾圧事件を乗り越え、広範な活動を展開するとともに、人類愛善会を旗揚げし、国際秩序への関心を強めていった。彼の思想にも興亜論につながる考えが見られたのだ。
 王仁三郎率いる大本・人類愛善会は、道院・世界紅卍会と関係を強めていた。道院は一九二〇年に山東省済南市で設立された組織で、道徳宗教の頽廃している現代社会を救済して人倫の本源に帰らせ、自修他済によって、人類の福祉完成に邁進することを目的として掲げていた。この目的に沿って慈善活動を執行するのが世界紅卍会である。さらに注目すべきは、王仁三郎と道院・世界紅卍会の連携の中に、頭山満や黒龍会の内田良平が参画していたことである。紅卍字会日本総会会長には王仁三郎が、責任会長には内田が、そして顧問には頭山が就いていた。そして彼らは、満洲事変が勃発すると、「明光帝国」の名のもとに満蒙自治独立自由王国の建設を目指すようになった。
 それは、皇道による世界皇化という興亜論者の夢と重なり合っていたかに見える。内田は、道院・世界紅卍会の主張を引いた上で、「日支共存親善より進んで、世界和同統一の大理想、大使命を讃へ結んでゐるところに、道院と大本教、世界紅卍字会と人類愛善会なる日支両国民族を結合せる信仰実践団体の真面目があり、茲に又た、今次の満蒙独立国家建設運動に対する紅卍字会の重大な役割と意味を示唆してゐるものとみるべきではないだらうか!」と書いていたのである。

●人類文明の転換を目指した出口王仁三郎
 「東洋を打って一丸とする皇道楽土を建設」という興亜論の夢は、人類文明の転換を意味していた。頭山は、東洋から西洋人を駆逐するのは人類を救うためであるとし、「東洋の独立に依つて人類の真の文明を作って、従来の獣の文明から人類を救済する」のだと説いていた。王仁三郎は「白色人種の立てた文明は万物を無生命的に分解するものであつて、これに対する我大日本精神は一木一草にも神性を認め、敬虔な心を以て諸物に対する生命主義の道なのである」と書いている。頭山が、「大東洋主義の具現」、「皇道大亜細亜の建設」を実践しようとした先覚として称えた西郷南州は次のような言葉を残している。
 「文明とは、道の普く行はるゝを言へるものにして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふに非ず。世人の西洋を評する所を聞くに、何をか文明と云ひ、何をか野蛮と云ふや。少しも了解するを得ず。真に文明ならば、未開の国に対しては、仁愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、然らずして残忍酷薄を事とし、己を利するは野蛮なりと云よ可し」
 この南州の言葉は、「もしもわが国が文明国となるために、身の毛のよだつ戦争の栄光に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。われわれの技芸と理想にふさわしい尊敬がはらわれる時まで喜んで待とう」(桶谷秀昭訳)と言い切った岡倉天心の文明論と同質である。
 西洋近代が人類文明の進歩に大きな影響を与えたことは否定できないが、様々な歪みをもたらしていることも事実である。利己主義、物質至上主義、拝金主義の蔓延、覇権主義の横行、人間中心主義による地球環境破壊といった歪みである。
 興亜論者の目標は、西洋近代文明の歪みを是正するために、まずアジアにおいて世界が模範とすべき秩序を構築することにあった。その目標は、欧米列強の支配に抵抗したアジアの志士たちにも共有されていた。例えば、インドのビハリ・ボースは、西洋近代の物質偏重を是正し、東洋の伝統思想の復興による文明転換を目指していた。セイロンのアナガーリカ・ダルマパーラは、「今世紀は一転して眠れる亜細亜を覚醒せざるべからず。而して欧州一流の文明よりも更に完全なる世界的文明を作らざるべからず」と語っていた。
 大東亜戦争下の昭和十八年十一月五日、六日の両日、東京で開催された大東亜会議で語られた各国代表の言葉には、西洋近代文明の在り方を批判し、より健全な人類文明を創造していこうという志が確かに表現されていたのである。まず東條首相は、「大東亜における共存共栄の秩序は、大東亜固有の道義的精神に基づくべきものであります」、「大東亜の精神文化は最も崇高、幽玄なるものであります、今後愈々これを長養醇化して広く世界に及ぼすことは、物質文明の行き詰まりを打開し、人類全般の福祉に寄与すること尠からざるものありと信ずるのであります」と語った。この東條の言葉を受けて、フィリピンのホセ・ラウレル大統領は「東洋は人類文明の揺籃であり、西洋に対しその宗教と文化とを与えた」と語り、タイのワンワイタヤーコーン親王は「アジア大陸は人類発展の源である」と言い切った。さらに、中華民国(南京)国民政府の汪兆銘行政院長は大東亜共同宣言が「欧米の功利主義的見解を一掃した」と語り、欧米の政策の背後にある価値観を批判した。
 確かに、大東亜戦争に至るまで日本政府の政策が一貫していたわけではない。満洲事変以前には、アジアの団結よりも、むしろ列強との協調を優先して権益の拡大を図ってきたことも事実だ。残念ながら、興亜の理想に沿った皇軍に相応しい行動が貫かれていたともいい難い。例えば、興亜の理想を追求した葦津珍彦は昭和十二年暮れに上海戦線における日本軍の軍規の乱れを目撃し、現状を厳しく批判している。このとき、今泉定助は日本軍の暴状を深く憂えて松井石根大将に急遽特使を派遣していた。珍彦の父耕次郎は、昭和十四年九月に「国難に直面し、わが政府当局の反省を望む」を書いたほどである。
 大東亜戦争開始後には、大東亜共栄圏の理想に反して、日本占領下の一部地域では、諸民族の独立よりも、戦争遂行に必要な資源確保などを優先せざるを得ない状況があった。
 これらが、アジア諸国が興亜の理想を言葉通りに信じられなかった背景にある。例えば、早稲田大学に留学した経験を持つ中国のマルクス主義者、李大釗(りたいしょう)は〈「大亜細亜主義」は中国併呑主義の隠語である〉と批判していた。いかなる崇高な理想を掲げても、その主導権を握る者が警戒されるのは常である。
 アジア諸国が欧米列強の干渉を排除することは、日本の興亜論者の夢だった。今年五月に上海で開かれたアジア信頼醸成措置会議の首脳会議で習近平国家主席は「アジアの安全はアジアの人民が守らなければならない」と述べたが、これは、まさにかつて日本人が発していた言葉だ。ところが、日本の反中論者は中国発のアジア主義を警戒し、「東アジア共同体が中国による日本併呑の道具となる」と警戒する。

●わが徳を慕わしめるために
 肇国の理想から導かれるわが国の使命、文明の転換という人類の課題に応えることが、わが国の生きる意味なのではないか。その前提として国家の物理的生存は必要である。アメリカの衰退という長期的趨勢が強まる中で、中国の覇権主義とどう対峙するかという問題は避けては通れない。まず、わが国はアメリカに依存した防衛体制から脱却し、自主防衛体制の確立を急ぐ必要がある。その上で、わが国の崇高な国体を、身を以て世界に示すべきだ。「皇道楽土建設」という使命の内実を中国に理解させ、その使命を共有すべく誘導することが日本にとっての長期的な課題ではなかろうか。
 そのためには、国内維新が不可欠となる。グローバル企業とアメリカの意向によって、国内政策が決められ、一%が九九%を支配するような国の真似をするような状況を打破し、世界から尊敬される国体を磨き上げなければならない。そのためには、国体以上に経済発展が重要なものなのかを再考する機会を国民に与える必要がある。
 国体を磨きあげれば、近隣諸国は自ずと日本の主張に耳を傾けるだろう。今泉は「彼より我が徳を慕ひ風を望み、我が威厳を仰ひで助成を乞ひ、我の擁護を求めて統一を望み、我に心服し、我に同化し来るものを統一主宰する」ことが重要だと説き、頭山は「己を空しゅうし、ただ道を行なうを以て天職としたならば、支那も印度も、数千年前の古賢の教えに替えるに相違ない」と語った。
 そして、わが国体が儒教や仏教など東洋の伝統思想・宗教を受容することによって強化されてきたことを、改めて思い起こさねばならない。頭山満は「支那はもと、道徳の起こった国で、堯舜でも孔孟でも、その他聖賢の輩出した国で、実は日本のお師匠さんじゃ」とさえ語っていた。戦時中、八紘為宇の使命を高らかに謳いあげたとき、高須芳次郎は、藤田東湖が儒教の五倫・五常の説を日本化することによって国民道徳の内容を整頓したと指摘し、中国で道義についての理説がかなり発展していたことを率直に認めていた。
 そもそも、明治の興亜論に繋がる幕末の志士の思想には、「道を共有する日中」という考え方があった、例えば、会沢正志斎は『新論』(一八二五年)において、「夫れ未だ嘗て回回(イスラム)、羅馬(ローマ)の法に沾染(てんせん)せざるものは、すなはち神州の外、独り満清あるのみ。ここを以て神州と唇歯を相為すものは清なり」と書いていた。『新論』から強い影響を受けた平野國臣もまた、『制蛮礎策』(一八六三年)において、「今夫れ宇内に未だ耶蘇を奉ぜざるは我と清とのみ。帝祚世革の相同じからざる有と雖も地勢連隣風気、粗(ほ)ぼ類す。髪眼異ならず。古来通信し固り道を同うするの国なれば、則ち相為に事を謀りて可なり」と書いている。
 正志斎も國臣も、欧米列強のアジア進出に対抗し、関係の深い日中が、ともにキリスト教の進出を防いできた国として提携するという構想を提示していたのである。しかも、正志斎には国体の維持のために攘夷が必要であり、そのために日中の提携が必要だという論理が見られたのである。
 さらにわが国の国体思想を遡るとき、君臣の大義を全うした人物を描こうとした浅見絅斎が『靖献遺言』の持つ特別な意義に注目しなければならない。絅斎が同書に収めたのは、中国の忠孝義烈の士八人だった。もともと、山崎闇斎に始まる崎門学は出処進退の重要性を説いてきたが、それは『近思録』など朱子学の受容によって培われた面がある。
 昨年三月、筆者は崎門学派直系の近藤啓吾先生のご自宅にお邪魔し、先生が所蔵されている『靖献遺言』各種を拝見する機会に恵まれたが、その中に、非常に珍しい『靖献遺言』があった。それは、清国時代の光緒三十二(一九〇六)年に刊行された清国による『靖献遺言』復刊本だった。『靖献遺言』が清国においても価値ある著作とみなされた証拠であろう。
 当時、清国では、欧化に反対し、外国への文化的同化を警戒する国粋派が活動を開始していたのである。黄節、章炳麟らの国粋派は一九〇五年に国学保存会を結成し、同年『国粋学報』を創刊していた。法本義弘によると、黄節は、一九〇〇年から翌年にかけて日本を訪れて国粋主義にふれ、日本の発展が「君国のためには、いつでも喜んで死んでいく」という節義思想を持っているからだと確信し、清国で節義思想を鼓吹しようとした。そんな彼が清国人たちに伝えようとしたのが、元朝に仕えることを拒否し、節義を全うして死んだ大儒、劉因の事績だった。このとき、黄節が参照した文献こそ、『靖献遺言』だったのである。
 このような思想交流の歴史を持つ日中両国には、伝統思想の共同研究に取り組む一定の基礎があると考えることができる。例えば、『靖献遺言』の日中共同研究を行うことは、東洋道徳の根幹となる君臣の大義を回復することに寄与するかもしれない。むろん、現在の日中関係の打開は容易ではない。しかし、かつて頭山満が「日本と支那とは数千年来、同文同種、地理的にも、民族的にも、人情的にも提携融合しなければならぬ立場にある。……日本と支那とは天の与へた夫婦も同様だ」と語った通り、一時的に日中間の対立が深まろうとも、両国の長い歴史的交流の事実は変らないし、日中が互いに近隣にあるという現実も変らない。わが国は、国を守る気概を取り戻して自ら安全を確保した上で、わが徳を慕わしめる努力を重ね、中国が「覇道」を棄てるように善導するという発想で日中関係を再構築するしかない。
 何よりも、我々日本人が国体と国家の使命に覚醒するしかない。そのときこそ、「国体観なき現実主義外交」、「小乗的消極主義」が終焉のときを迎えるだろう。

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