文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
[前回から続く]〈宣長学が、古典注釈学としての学問の領域にとどまる限り、それは尾張垂加派からみても決して否定するものではなく、むしろ評価すべきものとみていることは確認しうると思う。だが、宣長の学問は、彼の神への熱い思いと密接不可分のものであった。尾張垂加派の宣長批判は、まさにこの点にかかわっており、宣長の「我国の学、神道めきたる事」は「いとあやしき事のみぞ多かる」という(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)。
ただ、宣長の神道に対しても全面否定するものではなかったことは、「宣長、大和魂を論じ出しよりして、我国漢学を宗とする者までも皇国皇統を推尊し、外国を賤しむるを知れり。其功、大なりといふべし」(深田正韶『正韶詠草一』など)と述べていることから理解することができる。高木秀條や深田正韶の少年期から青年期にかけて、名古屋を舞台に展開された宣長と徂徠学派の市川鶴鳴との『くず花』『末賀乃比礼』論争は、おそらく彼らの意識の中にあったと思われる。中国的価値に深くとらわれた儒者に対決する限り、宣長の神道論は、尾張垂加派にとっても十分に有用なものであった〉
では、尾張垂加派は宣長の神道論のどこを問題視したのだろうか。岸野氏は、①「古伝」そのものの持つイデオロギー性、②両者の神道の支持基盤、③「日本魂」の本質理解、④死後の霊魂の問題──の四点を挙げて、以下のように説いている。
①について、岸野氏は概要次のように述べている。
垂加派にとって『日本書紀』は、元来何ら議論の余地のない無条件の神書であったが、国学が『古事記』の価値を強調し、宣長がそれを神道領域にまで持ち込むと、絶対的無条件の「神書」であった『日本書紀』が相対化されてしまう。これに対して、垂加派は二点の理由を挙げて『日本書紀』の価値を強調する。
第一の理由は、『古事記』は天皇家の「一家の私史」に過ぎないが、『日本書紀』は「勅撰」であり、「朝廷でもあまたたび講せられ」ている公的性格を持ったものであること。第二の理由は、『古事記』は確かに「神代のすがたをありのままにかきたる書」であるが、それゆえ素朴にすぎて「君臣の分別」に欠けている。
垂加派は、宣長の神道が『古事記』の価値を強調したことは、公私の秩序と君臣の秩序を逆転させるイデオロギー的意味を持ちうるものだととらえた。
②について、岸野氏は、「尾張垂加派の支持基盤と、尾張本居門の支持基盤のちがいは際立っていた」と述べている。尾張垂加派が、神道が天皇を中心とした堂上公家の独占物であることを強調したかについては、さらに検討をしてみたい。
③について、岸野氏は概要以下のように述べる。
宣長は、儒仏の伝わる以前の日本の古代人の精神に「日本魂」の本質を見た。これに対して、尾張垂加派は、古代国家成立期以降、儒仏を容認してきた、その精神的態度にこそ「日本魂」の本質があると説いた。彼らは、儒仏も日本の「風土」に随い、国風化すれば、それ自身、「我国の道」であり、そのような異文化を排斥しない鷹揚な精神的態度こそ「日本魂」だとした。
④について、岸野氏は概要以下のように述べる。
宣長は儒仏を否定し、死後の問題については「世の人は、貴きも善も悪きも、みな悉く死すれば予美国にゆかざるを得ず、いと悲しき事にてぞ侍る」として、それ以上の追求は著書の限りでは行わなかった。しかし、「草莽」の国学者たちは、宣長のこの側面に物足りなさを感じ、死後の霊魂の行方について自己の体系の中に執拗に構成しようとした平田篤胤に強い共感を示していった。
尾張垂加派は、学問としての篤胤を否定したものの、篤胤の関心の所在は十分に理解していたと思われる。彼らは勿論、この側面で篤胤と切り結ぶことはせず、矛先を宣長の生活者としての側面に向ける。
ただ、「尾張垂加派は闇斎段階と異なり仏教に対して容認的である」とする岸野氏の指摘については、さらに検討したい。また、岸野氏は、以上の四点を検討した上で、〈幕末の政治思想との関連でいえば、尾張垂加派の思想は公武合体論を指向するものであり、彼らからみた宣長の神道論は、現存体制擁護の言辞の背後に、一君万民論による現存秩序破壊の危険性を十分に包含したものであったといえよう〉(百五十七頁)と述べているが、これについても、さらに検討したい。