「日本の真価」カテゴリーアーカイブ

明和事件の真相─「大弐が幕府に恐れられた理由」『月刊日本』2013年9月号

 『月刊日本』の連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」で山県大弐『柳子新論』を取り上げています。
2013年9月号には、「大弐が幕府に恐れられた理由」と題して、大弐が死罪となった明和事件の真相について迫りました。

政府の外交と在野の興亜論者

興亜思想と世界皇化
 興亜論者たちは、日本の理想を国際社会へ適用する上で、大きな障害となっていた植民地支配、人種差別を世界からなくし、すべての民族が独立し、対等の関係に立てるように世界を変革しようと試みた。例えばアジアに志した荒尾精は、すでに明治二八(一八九五)年三月に、『対清弁妄』で次のように書いている。
 「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。海外列国、概ね虎呑狼食を以て唯一の計策と為し、射利貪欲を以て最大の目的と為し、其奔競争奪の状況は、恰も群犬の腐肉を争ふが如し。是時に当り、上に天授神聖の真君を戴き、下に忠勇尚武の良民を帥ひ、有罪を討して無辜を救ひ、廃邦を興して絶世を継ぎ、天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」 続きを読む 政府の外交と在野の興亜論者

村岡典嗣「垂加神道の根本義と本居への関係」(大正14年)

 『本居宣長』を著した村岡典嗣は、大正十四年に「垂加神道の根本義と本居への関係」と題して次のように書いている。
 「……文献学を離れて神道一途について見ると、本居のその方面の言説や思想や態度には、垂加神道と多少の類似や共通が認められる。まづその神道信仰の要素であった、神代伝説中の神々や神々の行動の記事に対する解釈を見ると、記紀その主としたところは異ったが、例へば造化神を人体神と見る事、二神の国生みをさながらに事実と見る事、天照大神を日神にして同時に皇祖神と見ること等、いづれも相同じい。而して、かくの如きは、概ね神典の記事に対する信仰的態度の自然の結果と考へられるが、而もその態度の源である神道信仰の宗教的情操そのものに於いて、両者頗る相通ずるものがある。本居は儒教神道を攻撃するとて、体ある神を尊み畏れないで、天を尊み畏れ、高天原を帝都で天でないとし、天照大神を太陽でないとし、神代の事をすべて寓言として説かうとし、又不思議の存在を知らないですべて理論を以て説かうとする類ひを、漢意として挙げて攻撃したが、これらはいづれも、新井白石等の史学派の神典解釈や、熊沢蕃山等の寓意的解釈や、更にまた多少とも惟足や延佳の説にも当るが、ひとり垂加神道の説に対しては、そのいづれも当らぬ。神を人体とし、高天原を一方に天上と解し、天照大神を太陽とし、神代紀の記事を事実と見、又不可思議の存在を認める等、いづれも宣長と同じく、垂加神道に見た所である。斯く考へてくると、垂加神道から、儒意即ち太極図説的哲学を除去したもの、やがて本居の神道であるとも考へ得る如くである」
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里見岸雄『国体論史 上』読書ノート①

里見岸雄は『国体論史 上』において、近世の国体論を通観して次のように書いている。
「……江戸時代の国体論は、必ずしもひとり国学派にその発達の頂点を見るべきものではない。それは大体、江戸時代前期に於ける御用儒学中心の国体論、中期に於ける国学の拾頭、後期に於ける水戸学的実践と次第したものと思ふが、国学派と水戸学派とは、学問的方法論に於て対立し、或る意味では氷炭相容れざるが如き論難攻撃をすら相互に応酬したが、そして、水戸学の採用した儒教的方法が、国学派から曰はせれば、不純なものであり未だ真乎国体に徹せざるものとして斥けられはしたが、然かもその水戸学から、大義名分王覇の峻別は絶叫し出され、封建社会の矛盾の激化と伴うて革新的、戦闘的、実践的国体論が指頭し来り、幕末に到っては更に国際的新情勢の附加に伴ふ攘夷論と結びついて、つひに、国体論は、観念的信仰的陶酔、机上的書斎的学問から一躍、政治的、実践的性格を獲得して、維新の精神的推進力となったのである。 続きを読む 里見岸雄『国体論史 上』読書ノート①

『強斎先生雑話筆記』研究会①

 折本龍則君とともに継続してきた『靖献遺言』研究会の新たな展開として、若林強斎の発言を高弟山口春水がまとめた『強斎先生雑話筆記』の研究会を、開始します。
テキストは、『神道大系 垂加神道 下』(近藤啓吾先生校注)に収められたものを使用します。

友呂岐村教育会刊『皇道読本』

大坂府北河内郡(現寝屋川市)の友呂岐村教育会が昭和16年に刊行した『皇道読本』には、國體の把握に不可欠な文献のエッセンスが網羅されている。
以下、目次を掲げる。

・神勅
・教育ニ関スル勅語
・戊申詔書
・国民精神作興ニ関スル詔書
・神武天皇八紘一宇ノ詔書(橿原奠都ノ詔勅) 続きを読む 友呂岐村教育会刊『皇道読本』

作田荘一─「産霊」の経済を唱えた皇道経済論の魁

以下は、『月刊日本』平成21年6月号に掲載された「作田荘一」(日本文明の先駆者)です。

修業で体得した「我も彼もない境地」
アメリカ流の金融資本主義の限界が指摘される中で、近代経済学の在り方自体を見直そうという気運が出てきている。その際、重要になるのが各民族の伝統思想を基盤にした経済学である。
戦前の我が国では、近代経済学の流入に抗い、皇道経済学、日本主義経済学を構築しようという試みがあった。
出口王仁三郎らの宗教的運動や民族派・維新派の運動の一環として皇道経済論が唱えられる一方、学界でも皇道経済学構築の動きがあったのである。学界における先駆的試みを代表するのが、今回取り上げる作田荘一の経済学である。
作田荘一は、明治十一年十月十一日、山口県佐波郡で生まれた。父親は神道に対する信仰が篤く、家には神棚が三つ設けられ、子供たちは毎夕灯明を上げるならわしがあった。また、作田は幼少期から、地元の大元宮によく参拝していたという(作田荘一『道を求めて』(道の言葉 第六巻)道の言葉刊行会、昭和三十八年、十五頁)。
高等小学校に入学すると、彼は心の悩みを懐き、初めて学校を休み、独り山中や河原で瞑想にふけった。これが、後日瞑想に打ち込む彼の修行の先駆けになったようである。その後、山口高等中学校、山口高等学校を経て、明治三十四年に東京帝国大学の前身、法科大学に入学する。明治三十八年に法科大学を卒業したが、就職に失敗し、郷里の三田尻に帰省した。そして、彼自身が振り返るところによれば、子供のときに時々参詣していた宮市天満宮と呼ばれる、菅公を祀る松崎神社で魂鎮めの行を続け、神秘的な体験をする。これが、作田の求道修行の入門となった。
結局、作田は就職せず、大学院に残ることにした。すでにこのとき、学問的関心は経済学に移っていたが、法律科出身だったため、経済学専攻の希望は叶わず、法律学科の中でも最も法律学らしくない国際公法を選択したという。指導教官は、日露主戦論を唱えた「七博士」の一人、寺尾亨教授だった。作田はときどき寺尾の自宅を訪れたが、法律論よりもアジア問題について聞いたことが面白く、有益だったと振り返っている(前掲書二十四~五十九頁)。
作田は、明治四十年春、逓信省の通信局規格課長、坂野鉄次郎の紹介で同省に入省したが、仕事に打ち込むことができず、まもなく転職を考えるようになる。そんなとき、彼はまたとない機会を得た。明治四十一年五月、東大教授の梅謙次郎の推挙を得て、清国・武昌の湖北法制学堂に経済学の教員として赴任することになったのである。法制学堂とは、官吏養成のために設けられた高等専門学校程度の新型学校である。
彼は、武昌の地で、行に没頭するにふさわしい環境を得た。冬の間、小高い建物の一室に篭れば、夜などは全く人声も聞こえないからである。彼は、ひたすら魂鎮めの行を続け、次のような特別な境地に到達したという。
「いつしか我が身体の存在も意識から消えて行く。身体の存在が影も形もなく消えて了えば、身体に即する『個体』も忘却され、我と彼とを区別する世間人の面が暫く影を隠くす」(前掲書九十八頁)
三年三カ月に及ぶ武昌滞在を経て、明治四十四年七月に日本に帰国、翌年二月に山口に戻り、山口高等商業学校の経済学担当教授に就いた。作田を推薦したのが、中学、高校、大学時代の同窓、河上肇であった。
山口時代に作田は東亜経済への関心を強めた。大正五年、山口高等商業学校に東亜経済研究会が設置され、紀要として『東亜経済研究』が刊行されるなど、活発な東亜経済研究が展開されるようになったからである。『東亜経済研究』には、後に建国大学教授となる中国・朝鮮史学の稲葉岩吉や満鉄調査課の天野元之助ら、錚々たるメンバーが論文を寄せていた。山口時代に作田が古事記や日本書紀などの古典を反復熟読していたことも見逃すことはできない。この熟読による変化を、彼は次のように振り返っている。
「それらの古典を読み返せば、その都度にその中に含蓄されて居る深遠なる意味がだんだんと通じ来たり、隠れたる奥の世界が次第にその幕を開けるかの観を覚えた」(前掲書百七十三頁)
こうして、彼は我が国独自の道の真髄を理解し始めたのである。彼は、「神の道」の道業の中で最も特徴的なものが、「神祭り」と「神参り」だと述べ、次のように書いている。
「『祭り事』が伸びて『政治』となり、『経済』の実務も農事を始めとして、あらゆる産業や商業にまでも神祭りの行事を伴わしめ、『文化』の諸方面にも広範なる感化・影響を与えて居る」(作田荘一『神の道』十三頁) 続きを読む 作田荘一─「産霊」の経済を唱えた皇道経済論の魁

難波田春夫─わが神話に日本経済の本質を捉えた

以下は、『月刊日本』平成21年10月号に掲載された「難波田春夫」(日本文明の先駆者)です。

マックス・シェーラーと神話の知
『翼賛国民運動史』(昭和二十九年)には、小泉純一郎元首相の父小泉純也が、昭和十六年一月の衆議院予算委員会で次のように語ったと記録されている。
「革新政策の名の下に赤化思想を日本に植付けんとするコミンテルンの陰謀を十分警戒する必要がある。……後藤(隆之助)局長が多年主宰している昭和研究会は、共産主義的思想との世人の非難の故に、ついに解散のやむなきにいたつたのである。また中には一連の関係者が同志と共に入り、翼賛会の各局部を固めていることは、一種の不安をもたざるを得ない」
この発言には、大政翼賛会をめぐる、財界・資本主義擁護派、国体明徴派、統制経済派(あくまで便宜的な呼び方)の複雑な駆け引きの一端が示されている。日本主義経済学者として注目を集めていた難波田春夫は、この時代にいかなる主張を展開したのだろうか。
難波田春夫は、明治三十九年三月三十一日、兵庫県に生まれた。大阪高校に入学した大正十四年頃から、西田哲学に関心を強めていたという。昭和三年に大阪高校を卒業、東京帝国大学経済学部に入学する。初めて手にした経済学の本が、スウェーデンの経済学者グスタフ・カッセルの『理論経済学』であった。ちょうどその頃、衆議院議員の小寺謙吉の寄附をファンドとした懸賞論文の論題が「グスタフ・カッセルの理論体系について」と発表された。そこで、難波田はどうせ読むのならば、論文を書き、懸賞論文に応募しようと思い立った。彼はカッセルに関わる多数の学術論文を読破し、経済現象の全体を貫くものが市場メカニズムの論理であるという近代経済学のエッセンスを見出したのである。こうして、難波田は三百枚ほどの論文を書き上げ、見事に入選した。
二年生になって早々の昭和四年春、友人に連れられて経済原論担当の教授のところに遊びに行くと、教授は「大学に残って教授への道を歩んではどうか」と難波田を勧誘した。こうして、経済学者としての難波田の人生が始まったのである。
彼は、昭和六年三月に東京帝大を卒業、翌昭和七年に兵役についた。だが、一カ月足らずで病気になり、淡路島の病院で療養するようになる。それまで、彼は理論経済学、特に景気変動の理論を研究していたが、療養中の瞑想を契機として、資本主義経済がどのように動くかよりも、いかに導かれるべきかということが問題だと気づいたのである。
同年六月に除隊となり、八月に助手として大学に戻ると、難波田は「国家と経済」の研究に没頭した。国立大学文科系が西洋思想のヒューマニズムの思想に傾き、我が国独自の思想を阻害する傾向が強まることを憂慮し、文部省が国民精神文化研究所を設立したのは、ちょうどその頃である。むろん、難波田の研究志向は、こうした国家レベルでの思想立て直しの動きと無縁ではなかったろう。
ただし、彼が「国家と経済」という研究テーマを定める上で、見逃すことのできない人物がいた。ドイツのカトリック神学者マックス・シェーラーである。卒業する頃、難波田はドイツの経済学者・社会学者ヴェルナー・ゾンバルトの著作を読んだのがきっかけで、シェーラーに傾倒していったのである。シェーラーは、「人間とは何か、宇宙全体の中でどのような地位を占めるのか」を自らの哲学のテーマと定め、「哲学的人間学」の概念を提唱した。
経済学者として歩み始めた難波田は、唯物論と観念論の統一というシェーラーの試みに着想を得て、経済理論と経済政策の関係づけについて独自の考え方に到達した。彼は、経済理論は経済という物資的なものの世界を支配する必然性を明らかにするが、経済政策はそこへ観念的、理念的なものを持ち込むことだと捉えることができたからである。こうして、彼は必然の論理を持つ「経済」に対して、「国家」が働きかけ、その在り方を変容することができると主張した(難波田春夫『風流鈔』早稲田大学出版部、昭和五十八年、百八十一頁)。これが、昭和十三年に刊行された『国家と経済 第一巻』において提示された「変容されうる必然」という概念である。
シェーラーの「哲学的人間学」は、我が国の近代の超克論に強い影響を与えている。難波田がシェーラーの思想に着想を得て、独自の経済学を展開しつつあった頃、京都学派の高山岩男はヘーゲル研究を推進する傍ら、シェーラーの思想的影響を受けて、哲学的人間学の研究を推進していた。高山の『哲学的人間学』には、「神話」に一節が割かれている。三木清もまた、『構想力の論理』の一章を「神話」から書き始めた。
神話の知は、近代科学が排除した知である。中村雄二郎氏は「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求で」あると言う。
まさに、高山、三木と歩調を合わせるかのように、難波田は神話の知を経済学に活かすという発想を強め、ギリシア神話や中国の古典などから国家と経済の関係を探ろうとした。その成果が、昭和十三年にまとめられた『国家と経済 第二巻』(『古典に於ける国家と経済』)である。ここで彼は、主体的人間を離脱して客観的に存在する「科学」と、「間柄」としての具体的人間を可能にする根底としての「神話」を対照し、「神話」は、情意的、行為的、全体的な人間の考察を忘れた科学の欠陥を補うために必然的に再生してきたと主張する(十七~二十一頁)。この難波田の試みこそ、近代経済学が前提とする、「利益拡大のために合理的に行動するという人間像」への根源的批判を支えるものとなっていく。 続きを読む 難波田春夫─わが神話に日本経済の本質を捉えた