四、成長するための生産=「むすび」
皇道経済論者は、人間もまた、宇宙の創造に参画すべき存在と考えた。「むすび」の思想に基づいて、この点を強調したのが、作田荘一であった。彼は、古事記や日本書紀などの古典によって、わが国独自の道の真髄を悟り、「創造そのことを以て生活の宗旨となし、『むすび』の道を以て万事を統べ貫き、而も斯の道を行ふものが億兆心を一にする全体であることは、我等の古ながらの変りなき尊い伝統である。…『むすび』の道に随ふとき、始めて労働神聖の意義が明らかとなり、その実現が保証される」とむすびを強調した[i]。
一方、古神道に没入した東京帝大教授の筧克彦は、皇産霊神(高皇産霊神と神皇産霊神)は、創造、化育、生成を行う神様であり、人間の各々も創造、化育、生成の働きを、皇産霊神の下に行っていると説いた。
筧の影響を受けた、農本主義者の加藤完治もまた、創造とは、我々が物を作るときに、命のない物に、我々の命を叩き込む、我々の魂をその中に入れることだと述べた。そして、化育とは、命のあるものと命のあるものとが向き合って一方の命が他の命を刺激し、これによって円満完全に発展させることだとした。彼は、「磨かれた精神を以て相手の生物に対する場合、相手は立派になる、相手を立派にするべく努力するその時の又此方の魂が磨かれて行く」とも述べている[ii]。 続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 四
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作田荘一─「産霊」の経済を唱えた皇道経済論の魁
以下は、『月刊日本』平成21年6月号に掲載された「作田荘一」(日本文明の先駆者)です。
修業で体得した「我も彼もない境地」
アメリカ流の金融資本主義の限界が指摘される中で、近代経済学の在り方自体を見直そうという気運が出てきている。その際、重要になるのが各民族の伝統思想を基盤にした経済学である。
戦前の我が国では、近代経済学の流入に抗い、皇道経済学、日本主義経済学を構築しようという試みがあった。
出口王仁三郎らの宗教的運動や民族派・維新派の運動の一環として皇道経済論が唱えられる一方、学界でも皇道経済学構築の動きがあったのである。学界における先駆的試みを代表するのが、今回取り上げる作田荘一の経済学である。
作田荘一は、明治十一年十月十一日、山口県佐波郡で生まれた。父親は神道に対する信仰が篤く、家には神棚が三つ設けられ、子供たちは毎夕灯明を上げるならわしがあった。また、作田は幼少期から、地元の大元宮によく参拝していたという(作田荘一『道を求めて』(道の言葉 第六巻)道の言葉刊行会、昭和三十八年、十五頁)。
高等小学校に入学すると、彼は心の悩みを懐き、初めて学校を休み、独り山中や河原で瞑想にふけった。これが、後日瞑想に打ち込む彼の修行の先駆けになったようである。その後、山口高等中学校、山口高等学校を経て、明治三十四年に東京帝国大学の前身、法科大学に入学する。明治三十八年に法科大学を卒業したが、就職に失敗し、郷里の三田尻に帰省した。そして、彼自身が振り返るところによれば、子供のときに時々参詣していた宮市天満宮と呼ばれる、菅公を祀る松崎神社で魂鎮めの行を続け、神秘的な体験をする。これが、作田の求道修行の入門となった。
結局、作田は就職せず、大学院に残ることにした。すでにこのとき、学問的関心は経済学に移っていたが、法律科出身だったため、経済学専攻の希望は叶わず、法律学科の中でも最も法律学らしくない国際公法を選択したという。指導教官は、日露主戦論を唱えた「七博士」の一人、寺尾亨教授だった。作田はときどき寺尾の自宅を訪れたが、法律論よりもアジア問題について聞いたことが面白く、有益だったと振り返っている(前掲書二十四~五十九頁)。
作田は、明治四十年春、逓信省の通信局規格課長、坂野鉄次郎の紹介で同省に入省したが、仕事に打ち込むことができず、まもなく転職を考えるようになる。そんなとき、彼はまたとない機会を得た。明治四十一年五月、東大教授の梅謙次郎の推挙を得て、清国・武昌の湖北法制学堂に経済学の教員として赴任することになったのである。法制学堂とは、官吏養成のために設けられた高等専門学校程度の新型学校である。
彼は、武昌の地で、行に没頭するにふさわしい環境を得た。冬の間、小高い建物の一室に篭れば、夜などは全く人声も聞こえないからである。彼は、ひたすら魂鎮めの行を続け、次のような特別な境地に到達したという。
「いつしか我が身体の存在も意識から消えて行く。身体の存在が影も形もなく消えて了えば、身体に即する『個体』も忘却され、我と彼とを区別する世間人の面が暫く影を隠くす」(前掲書九十八頁)
三年三カ月に及ぶ武昌滞在を経て、明治四十四年七月に日本に帰国、翌年二月に山口に戻り、山口高等商業学校の経済学担当教授に就いた。作田を推薦したのが、中学、高校、大学時代の同窓、河上肇であった。
山口時代に作田は東亜経済への関心を強めた。大正五年、山口高等商業学校に東亜経済研究会が設置され、紀要として『東亜経済研究』が刊行されるなど、活発な東亜経済研究が展開されるようになったからである。『東亜経済研究』には、後に建国大学教授となる中国・朝鮮史学の稲葉岩吉や満鉄調査課の天野元之助ら、錚々たるメンバーが論文を寄せていた。山口時代に作田が古事記や日本書紀などの古典を反復熟読していたことも見逃すことはできない。この熟読による変化を、彼は次のように振り返っている。
「それらの古典を読み返せば、その都度にその中に含蓄されて居る深遠なる意味がだんだんと通じ来たり、隠れたる奥の世界が次第にその幕を開けるかの観を覚えた」(前掲書百七十三頁)
こうして、彼は我が国独自の道の真髄を理解し始めたのである。彼は、「神の道」の道業の中で最も特徴的なものが、「神祭り」と「神参り」だと述べ、次のように書いている。
「『祭り事』が伸びて『政治』となり、『経済』の実務も農事を始めとして、あらゆる産業や商業にまでも神祭りの行事を伴わしめ、『文化』の諸方面にも広範なる感化・影響を与えて居る」(作田荘一『神の道』十三頁) 続きを読む 作田荘一─「産霊」の経済を唱えた皇道経済論の魁