マハティール元首相の妻シティ・ハスマ(Siti Hasmah Mohamad Ali)さんが令和八年九月二十八日朝、首都クアラルンプールの国立心臓研究所で死去した。同日、プトラジャヤの国家廟で国葬が執り行われた。マハティール首相より一つ下の百歳だった。心より哀悼の意を表し、故人のご冥福をお祈り申し上げる。
ハスマさんは英領植民地期の一九二六年、セランゴール州クランで生まれた。マレー系女性医師の先駆け的存在で、母子保健や識字率向上などで多大な功績を残した。
筆者はマハティール元首相に五度単独インタビューをしたが、多くの場合にハスマさんが同席していた。
七十年間連れ添ったハスマさんを失ったマハティール首相の悲しみの深さは、想像するに余りある。この悲しみから立ち直り、マレーシア国民、そして世界のために活動を続けられることを心から祈っている。
筆者は三十二年前の平成六年に『アジア復権の希望マハティール』を上梓した。当時、欧米のメディアは「マハティールは独裁者だ」と一方的な批判を繰り返していた。それもあって、筆者は若き日のマハティール首相のことをありのままに描き、彼の真の姿を伝えようと努めた。「ハスマとの出会い」と題して、次のように書いた。
彼(マハティール)の大学(マラヤ大学シンガポール校)生活は、上級生による「一年生いじめ」という過酷な情況からはじまった。いじめといっても、どこの学校にもあるような「しごき」である。しかし彼は、まもなく最愛の人をみつけることになる。
同学年には七十人の生徒がいたが、マレー人はわずか七人だった。ほとんどの生徒は中国系であった。七人のマレー人の中にたった一人の女子学生、シティ・ハスマ・アリがいた。彼女が、後にマレーシア首相夫人となるハスマ女史である。

シャイで、かわいいハスマに、多くの男子生徒たちが注目した。その中にマハティールもいた。
だが、マハティールもまた恥ずかしがり屋で、積極的に声をかけるようなことはできなかった。
彼は大学に入るまで、女性とつき合ったことがなかった。ハスマ自身、「彼はとても恥ずかしがり屋で、でしゃばるタイプではなく、あまり社交的ではなかった。特に女性に対しては」と振り返る。
運のいいことに、マハティールは自然にハスマと接するチャンスを得た。彼は、とても優秀な成績だったので、周りの生徒たちの補習を助けるテューターを任されていたのだが、あるときハスマに教えることになったのである。テューターと生徒の関係だが、二人だけの時間を彼は持つことができた。彼は指導中に、ときどき彼女と喧嘩をすることになってしまったが、いつもすぐに仲直りし、次第に打ち解けあっていった。一年生の終わりころには、二人はいつもいっしょにいるようになった。こうして、すでに在学中に二人は、結婚を決めていた。
ハスマはマハティールより一年遅れたが、一九五四年無事に大学を卒業して医師として社会に出た。その二年後の一九五六年八月五日、二人は結婚した。マハティールはハスマとの新しい生活に夢中になっていた。この時期、彼にとって最高の楽しみは、新居のインテリア作りであった。子供のころから、彼は部屋の模様替えをするのが大好きだった。
新婚生活がスタートしてまもなくハスマに赤ちゃんができ、翌五七年六月、長女が生まれた。二人はマリナ(Marina)と名づけた。五八年十一月には長男としてミルザン(Mirzan)が生まれた。マハティールとハマスは二人とも子供好きで、後二人、モクザニ(Mokhzani)とムクリズ(Mukhriz)をもうけたほか、六〇年にはメリンダ(Melinda)を養子にもらった。