頭山満と李烈鈞─孫文会設立準備のために

 昭和四十七(一九七二)年九月の日中国交正常化から胡耀邦総書記が失脚する昭和六十一年頃までは、日中関係は比較的安定していた。
 昭和五十八年十一月には、胡耀邦総書記が訪日し、昭和天皇と会見している。日中首脳会談では中曽根康弘首相が、中国側の提示した三原則に「相互信頼」を加えて四原則にしたいと述べ、「日中友好二一世紀委員会」の設立を提案し、中国側も賛同した。
後列左から山田純三郎、戴季陶、李烈鈞、前列中央孫文、右隣頭山満(1924年11月25日 神戸オリエンタルホテル)
 こうした中で、昭和六十年四月一日、孫文の側近李烈鈞の次男・李贛駒が玄洋社記念館を訪問した。李贛駒は、大正十三(一九二四)年の神戸オリエンタルホテルでの孫文・頭山満会談写真を見つけて、「私の父が居る」と感激の声を上げ、懐かしそうに次のように述べた。
李烈鈞
 「父・李烈均は辛亥革命以前から孫文、黄興らと共に行動を一緒にしたが、この写真の時の父は孫文より一足先に日本入りしており『大アジア主義』を各地で孫文代理として演説をしていたそうです」(『玄洋』昭和六十年七月二十日)
李贛駒
 中国駐福岡総領事館が開設されたのは、その二週間後の四月十七日である。そして同年六月十九日には、金吉松初代総領事と呉仰禹領事が玄洋社記念館を訪れ、展示品を熱心に見学した。『玄洋』は次のように伝えている。
 「金総領事は日本語を完全にマスターしているので通訳の必要はなく、係員の説明を非常に興味深く聞き入れると同時に同行の呉領事にその都度通訳されていたのが印象であった。
 中でも玄洋社創設時の幹部を教育し育て上げた人が、女性の高場乱という漢学者であったことは非常に感銘を受けた模様で、玄洋社の創立目的や、アジア主義の実践行動など近世日本史の一面を心ゆくまで味わっていた様にうかがわれた」
 昭和六十年、六十一年頃らは、このように王道アジア主義で日中が手を結ぶ機運が急速に盛り上がっていたのである。欧米の指導者たちはこれに強い危機感を抱き、日中離間策を本格的に展開していくことになる。

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