尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より


尾張藩國體思想の発展は、藩校・明倫堂の歴史と密接に関わっている。この明倫堂の伝統を受け継いだ明倫中学校と愛知県第一高等女学校を前身とし、昭和二十三年に設立されたのが、愛知県立明和高等学校である。以下、『愛知県立明和高等学校 二百年小史』(昭和五十八年)に掲載された年表を引く。
[前回から続く]〈●天明五(一七八五)年六月十三日、明倫堂東隣に聖堂を建つ。
「先聖殿」の額はここに移された。額はいま徳川美術館にある。

●寛政四(一七九二)年四月十九日、岡田新川、明倫堂督学となる。
この年、秦鼎(はたかなえ)教授となる。

●寛政七(一七九五)年七月二十三日、石川香山、督学並びに経述館総裁。
新川・香山の時、学生七十名程、朱子学を講じた。(典籍秘録)

●享和元(一八〇一)年六月十日、冡田大峰、御儒者として召出さる。
大峰が御儒者となってから、恩田薫楼、奥田鴬谷(仝二年)、高田権之丞、秦世寿(四年)、林南涯、児玉一郎兵衛、能井東九郎(六年)教授となる。

●文化八(一八一一)年五月十八日、冡田大峰、督学となる。
冡田大峰は寛政異学の禁以来用いられた朱子学を廃め古学に復し、平洲の学を継ぎ、治道と学問とを一致させようとした。平洲歿(享和元)時、弔文を書いたのは大峰である。明倫堂出身者の登用のため撰挙科目、読書次第を制す。(明治二年まで)「学問の用心、孝悌忠信を本とし、政事之道を心得て、もし一官一職に任ぜらるれば、其官職相応の謀慮を発し、治安の一助をなさんと志し、本業と助業とを分ちて孝経・論語をはじめ、経義を研究するを本業とし、史子、百書に博渉して、其時世の興廃、人物の得失を弁ずるを助業とする也。」

●天保三(一八三二)年七月十日、林南涯督学となる。
正木梅谷(文化一二)、冡田俊次郎(文政三年・一八二〇)、渡辺与一郎(九年)、渡辺忠左衛門(一〇年)教授となる。

●天保四(一八三三)年四月一日、鈴木朖教授となる。
日本書紀、古今和歌集等国学に関する科目が行われるようになった。本居宣長の国学の影響で以後盛んである。

●天保十四(一八四三)年四月二十三日、正木梅谷督学となる。
天野久右衛門恬庵(天保五)、冡田謙堂(天保一二年)、住枝竹堂(天保一二年)、渡辺松園(嘉永二年・一八四九)、彦坂作十郎(嘉永二年)、沢田眉山(嘉永六年)

●嘉永六(一八五三)年十月十三日、阿部伯孝督学となる。
朝倉善右衛門(安政二年)、冡田伯文(安政三年)、植松茂岳(安政四年教授次座)教授となる。

●安政六(一八五九)年十一月、正木梅谷再び督学となる。
●文久元(一八六一)年十二月、冡田謙督学となる。
●文久二(一八六二)年、阿部伯孝再び督学となる。
●文久三(一八六三)年七月一日、渡辺松園督学となる。
増田東廩教授となる。
●文久三(一八六三)年十一月十四日、明倫堂内に武技場を置く。
●文久三(一八六三)年十一月二十日、田宮如雲、明倫堂総裁となる。
植村茂岳(元治元年・一八六四)教授となる。
如雲の「慶勝九ヶ条」は時勢に対する心がまえを示し、当時を察することができる。中に「それ学校は一国士風の亀鑑につき、まずこれより流弊一新の源を開き申すべく存念候間、いづれもこの主意を体し奮発これあるべきこと」「入学のもの第一大義正義を弁明することを主に致し、身を殺して仁を成すの本意を一切忘るべからず」「尾藩国学の学生たるもの、天下へ押出して、それ程の人体にこれなく侯ては恥べきの至りなり」の文がある。医師・町人を問わず、心あるものは入学せしめ、天文、地理、兵学、有識等を毎月二、五、七の日開講する。「靖献遺言」を必読の書としていることにより、時勢の急なることを知る。〉
☞[続く]

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