「ナジブ新首相とマハティール路線 明日のアジア望見 第77回」『月刊マレーシア』503号、2009年4月30日

 二〇〇三年一〇月にマハティール首相が引退してから、まもなく六年が経とうとしている。
 この間、マハティール元首相は、自らが後継者に指名したアブドラ首相に対する不満を強めていた。それは、アジアの復権と団結、西洋近代とは異なる独自の発展モデルの追求、自主独立外交の貫徹というテーマについてのアブドラ政権の立場が鮮明ではないと感じていたからだと筆者は見ている。
 昨年三月の下院選挙で、与党連合・国民戦線(BN)が大幅に議席を減らすと、マハティール元首相は、アブドラ首相辞任を迫るようになった。昨年五月一九日には、与党統一マレー国民組織(UMNO)を離党し、アブドラ首相が辞任しなければ復党しないと表明するに至った。当初、アブドラ首相は二〇一〇年半ばの政権委譲計画を明らかにしたが、マハティール元首相らの早期辞任論に押され、今年三月に党総裁を辞めると表明、三月の党役員選挙でナジブ・ラザク(Najib Razak)副総裁が総裁に選出された。
 アブドラ首相の辞任を受け、四月三日にナジブ総裁は、第六代首相に就任した。首相就任に先立ち、三月二四日からの党総会の冒頭演説で、汚職追放に向けた党規改正を断行し、党内改革を推進すると述べるとともに、党の政策を広めるための新たなメディア戦略、都市における貧困対策などを提言した。 そして、首相就任に際して、「One Malaysia, People First, Performance Now(一つのマレーシア、国民第一、今実行を!)」のスローガンを掲げた。
 ナジブ首相は、第二代首相アブドゥル・ラザクの長男で、第三代首相フセイン・オンの甥にあたる。一九七六年、父の死去に伴う補選で、史上最年少の二二歳で下院議員となった。
 ちなみに、マレーシアには初代首相ラーマン(RAHMAN)の予言なるものがあった。歴代首相の頭文字を並べると、「RAHMAN」となるというものである。ナジブの首相就任でこの予言は完成した。「R」は初代ラーマン(Rahman)、「A」は二代アブドゥル・ラザク(Abdul Razak)、「H」は三代フセイン・オン(Hussein Onn)、「M」は四代マハティール(Mahathir)、「A」は五代アブドラ・バダウィ(Abdullah Badawi)、そして最後の「N」は六代ナジブ・ラザク(Najib Razak)。
 そしていま、中国系野党DAPのリム・キットシアンは、第七代首相から「MAHATHIRの予言」が始まると唱えている。
 当初ナジブ支持の立場を留保していたマハティール元首相がナジブ支持に回ったことは、今後の政策に関して両者の間で重要な合意があったからであろう。
 党役員選挙で、アブドラ首相の早期辞任を主張してきた、マハティール寄りのムヒディン・ヤシンが党副総裁に選ばれたことも、権力構造の変化を象徴している。実は、「MAHATHIRの予言」には具体的な名前が挙げられている。ナジブの後継者となる最初の「M」は、ムヒディン・ヤシン(Muhyiddin Yassin)、次の「A」が副総裁補のアフマド・ザヒド(Ahmad Zahid)、次の「H」が副総裁補のヒシャムッディン・フセイン(Hishammuddin Hussein)だというのだ(http://blog.limkitsiang.com/2009/03/28/)。
 ナジブが首相に就任した翌日の四月四日、マハティール元首相はナジブ首相と会い、UMNOへの復党を申請した。また、ナジブ首相は四月九日に新内閣名簿を発表、マハティール元首相の三男ムクリズ下院議員が通産副大臣として初入閣を果たした。
 ムクリズ下院議員は、UMNO役員選挙で青年部長ポストをアブドラ前首相の娘婿のカイリー・ジャマルディン下院議員と争って敗れた。にもかかわらず、ナジブ首相は、そのカイリを入閣させず、ムクリズを入閣させた。ここには、ある種の因縁がある。
 マハティール元首相がナジブの父アブドゥル・ラザク政権で初入閣したのはいまから三五年前の一九七四年のことであった。その五年前の一九六九年五月十三日、マレーシアではマレー系住民と中国系住民との衝突事件が起こり、多数の死傷者が出た。当時、下院議員だったマハティールは、時の首相ラーマンの中国系住民に対する融和策を「ギブ・アンド・テイク政策」と呼び、その政策にマレー系住民が強い不満を持っていると厳しく批判、首相辞任を迫ったのである。この結果、マハティールはUMNOから除名処分を受けた。しかし、ラーマンに代わって首相についたアブドゥル・ラザクは、マハティールの主張を受け入れて、マレー系に対する優遇政策(ブミプトラ政策)を採用したのである。そして、ラザク首相は一九七二年にマハティールのUMNOへの復帰を認め、一九七四年にはマハティールを教育相に抜擢したのである。
 マハティール元首相はアブドラ政権による二つの決定に異論を唱えてきた。一つは、ジョホール州とシンガポールを結ぶコーズウェーに代わる新しい橋の建設計画を中止するとの決定である。もう一つは、近代化の牽引力とすべく自らが生み、育ててきた国産車メーカー・プロトンの子会社MVアグスタを、イタリアの投資会社GEVIに売却するという決定である。
 ナジブ政権発足後、UMNOジョホール支部青年部の幹部が、コーズウェー代替橋建設計画の再開を期待していると述べている。また、公会計委員会は、MVアグスタ売却問題に関して事情聴取するため、プロトンを召喚する方針を明らかにしている。
 ナジブ政権の誕生は、マハティール路線への回帰とムクリズの影響力拡大をもたらすことになるだろう。
(二〇〇九年四月一七日)


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