「蒲生君平」カテゴリーアーカイブ

天皇の火葬をどう考えるべきか─蒲生君平の主張を再考しよう

 天皇の葬法の在り方を考える上で蒲生君平の議論は極めて示唆に富んでいる。
 〈君平は『山陵志』において、持統天皇(在位:六九〇~六九七年)のときから火葬が行われるようになるなど、仏教の流入による大きな変化に注目しました。君平は、仏教の風習の蔓延によって、堂塔を山陵に見立て、僧徒が埋葬のことを司り、謐号を追贈することもなく、尊号を停止することになったと批判しました。そして、次のように厳しく仏教流入、僧徒の権力拡大の弊害を説いたのです。
 「…政治の大綱がゆるんで、官吏は職に勤めず、諸陵寮は廃され、山陵にたいする奉幣使は無くなった。こうした管理不在の結果は、山陵を掘り起こして、その蔵品を盗み去る者さえ出て、少しもおじおそれることさえなくなった。下って戦国乱世になると、その禍害は以上のごときに止まらない。いたるところの堂塔は、兵火にあって滅失し、塔中の蔵品も消亡した。ああ、何と慨嘆に堪えぬ次第ではないか。幸いにして完全に保たれているのは、ただ京都の泉湧寺諸陵、及びその他の二、三に止まっている」 続きを読む 天皇の火葬をどう考えるべきか─蒲生君平の主張を再考しよう

蒲生君平が頼りにした「諸陵寮」とは

 蒲生君平が天皇陵(山陵)を研究調査する上で頼りにしたのは『古事記』『日本書紀』の陵墓関係記事と「諸陵寮」である。「諸陵寮」とは、延長5(927)年に完成した格式(律令の施行細則)『延喜式』の中で、朝廷が管理すべき山陵諸墓に関する記述部分。
 記紀では陵墓所在地が漠然と指定されているのに対して、「諸陵寮」では位置を明示している。
 陵墓名の下に諡号、陵墓所在地名、兆域の大きさ、四至(東西南北の境界)、陵戸や守戸の数などが記されている。

蒲生君平の九志

 
蒲生君平は『山陵志』全二巻を板刻した際、サブタイトルに九志の一、九志の二と明記していた。彼は『神祇志』『山陵志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』の「九志」編纂を目指していたのである。しかし、『山陵志』と『職官志』の刊行にこぎつけたものの、残り七志を完成させることなく、文化10(1813)年に亡くなった。

安藤秀男氏は次のように解説している。
〈各志の関係を説いて、およそ国の礼は祭よりも大なるものはない。歴代天皇が、その誠敬を尽されたところも、ここにあるのだと、先ず「神祇志」を挙げる。また、神祇の祭礼に次いでは、御歴代の山陵が尊崇されなければならないと、『山陵志』を挙げる。次いで、神を祭り、祖先を祀るにも、氏族、あるいは家ごとに行なわれるが故に、氏族の系譜を知らなければならないと、「姓族志」を挙げる。そして、氏族制度と並んで、秩序を正しく維持するためには、官職の変遷を知らなければならないと、『職官志』を挙げる。さらに、職官には其れに相応した服章がなければならないと、「服章志」を挙げ、さらに、位に応じて守るべき形式のほかに、人間相互のあいだにも、必ず守らなければならない約束があると、「礼儀志」を挙げる。さらに、治められるもの、すなわち人民の上について、その生活の様式を知らなければならないと、「民志」を挙げる。さらに、人民を治めるには、礼とあわせて刑をもってしなければならないと、「用志」を挙げ、最後に、人民は礼と刑とをもって治め得ても、外国に対しては軍備がなければならないと、「兵志」を挙げている。
 こうして見ると、「九志」というものには、首尾一貫した一つの思想体系のあることがわかる。それは、儒学の精神に立脚したところの政治の理想、聖人の道、王道とでもいうべきものである〉   

蒲生君平『山陵志』①


天皇陵の位置が不明確であったり、荒廃したりしている現状を嘆き、陵墓特定のための調査に挺身した蒲生君平は、文化5(1808)年にその成果をまとめて『山陵志』を完成させた。水戸斉昭が天保11(1840年)年、光格天皇の崩御に際して、幕府に対し山陵再興と謐号復活を提唱したのも、『山陵志』の影響と見られる。
君平は『山陵志』において次のように書いている。
「山陵というのは、祖先のみたまやと同じなのである。これがなければ、人民としては何を仰ぎ、何にお詣りしたらよかろうか。
人民たるものが、山陵を仰いでこれを祭ればこそ、国家としての礼文もまた盛んになるのである。だから王朝時代には、刑罰を定めた法令に、山陵を破壊する者は、これを謀大逆といって、八大重罪の一つに指定されていた。それは、大赦も許されぬほどの重い刑罰なのである。これこそ君主たる者が、その至孝の徳をもって、天下を治めるための拠りどころである。どうして謹み敬わないでよかろうか〉(安藤英男口語訳) 続きを読む 蒲生君平『山陵志』①