蒲生君平『山陵志』①


天皇陵の位置が不明確であったり、荒廃したりしている現状を嘆き、陵墓特定のための調査に挺身した蒲生君平は、文化5(1808)年にその成果をまとめて『山陵志』を完成させた。水戸斉昭が天保11(1840年)年、光格天皇の崩御に際して、幕府に対し山陵再興と謐号復活を提唱したのも、『山陵志』の影響と見られる。
君平は『山陵志』において次のように書いている。
「山陵というのは、祖先のみたまやと同じなのである。これがなければ、人民としては何を仰ぎ、何にお詣りしたらよかろうか。
人民たるものが、山陵を仰いでこれを祭ればこそ、国家としての礼文もまた盛んになるのである。だから王朝時代には、刑罰を定めた法令に、山陵を破壊する者は、これを謀大逆といって、八大重罪の一つに指定されていた。それは、大赦も許されぬほどの重い刑罰なのである。これこそ君主たる者が、その至孝の徳をもって、天下を治めるための拠りどころである。どうして謹み敬わないでよかろうか〉(安藤英男口語訳)
続いて君平は、山陵の変遷について述べる。持統天皇のときから火葬が行われるようになるなど、仏教の流入による大きな変化に注目する。君平は、仏教の風習の蔓延によって、堂塔を山陵に見立て、僧徒が埋葬のことを司り、謐号を追贈することもなく、尊号を停止することになったと批判する。そして、次のように厳しく仏教流入、僧徒の権力拡大の弊害を説いた。
〈…政治の大綱がゆるんで、官吏は職に勤めず、諸陵寮は廃され、山陵にたいする奉幣使は無くなった。こうした管理不在の結果は、山陵を掘り起こして、その蔵品を盗み去る者さえ出て、少しもおじおそれることさえなくなった。下って戦国乱世になると、その禍害は以上のごときに止まらない。いたるところの堂塔は、兵火にあって滅失し、塔中の蔵品も消亡した。ああ、何と慨嘆に堪えぬ次第ではないか。幸いにして完全に保たれているのは、ただ京都の泉湧寺諸陵、及びその他の二、三に止まっている〉
君平が憤慨するこのような状況が改善されたのは、後光明天皇が崩御されたときである。このとき、朝廷では遺体を火葬しようとしたが、奥八兵衛という名の一市民が、命がけで火葬に反対したのだった。結局、朝廷は八兵衛の熱誠に動かされ、火葬をとりやめた。

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