天皇の葬法の在り方を考える上で蒲生君平の議論は極めて示唆に富んでいる。
〈君平は『山陵志』において、持統天皇(在位:六九〇~六九七年)のときから火葬が行われるようになるなど、仏教の流入による大きな変化に注目しました。君平は、仏教の風習の蔓延によって、堂塔を山陵に見立て、僧徒が埋葬のことを司り、謐号を追贈することもなく、尊号を停止することになったと批判しました。そして、次のように厳しく仏教流入、僧徒の権力拡大の弊害を説いたのです。
「…政治の大綱がゆるんで、官吏は職に勤めず、諸陵寮は廃され、山陵にたいする奉幣使は無くなった。こうした管理不在の結果は、山陵を掘り起こして、その蔵品を盗み去る者さえ出て、少しもおじおそれることさえなくなった。下って戦国乱世になると、その禍害は以上のごときに止まらない。いたるところの堂塔は、兵火にあって滅失し、塔中の蔵品も消亡した。ああ、何と慨嘆に堪えぬ次第ではないか。幸いにして完全に保たれているのは、ただ京都の泉湧寺諸陵、及びその他の二、三に止まっている」
持統天皇以後、四代にわたって火葬が行われましたが、聖武天皇(在位:七二四~七四九年)以降は土葬が復活しました。ところが、一条天皇(在位:九八六~一〇一一年)から再び火葬が復活、以後歴代天皇の多くが火葬されるようになりました。君平が憤慨するこのような状況が改善されたのは、後光明天皇(在位:一六四三~一六五四年)が崩御されたときです。奥八兵衛という名の一市民が、命がけで火葬に反対した結果、朝廷は火葬をとりやめたのです。 幕末期の孝明天皇の際に、ようやく火葬の形式は廃止されました。歴代天皇のうち七十三人が土葬、四十一人が火葬、八人が不明です。
平成二十五年十一月、天皇、皇后両陛下の「ご喪儀」の在り方を検討していた宮内庁は、葬法を火葬とすると発表しました。
これについて竹田恒泰氏は、「ここ千三百年間、歴代天皇は常に自分の墓は質素にせよ、葬儀は簡素にせよと仰ってきた。もし陛下の仰せの通りにし続ければ、墓はどんどん小さくなり、最後はペット並の墓になってしまっただろう。しかし、国民は陛下のお言葉を有り難く受け取りつつも、陛下には少しでも立派なお墓にお眠りいただきたいと願い、立派な墓を作り続けてきた」との趣旨の発言をしています。君平もまた、『山陵志』において、「御陵の場所を選定し、土木工事の規模を定め、労役を始めるにあたっては、必ず天下諸国に命じて、人夫を召集された。この労役については、人民の何れもが、父母を喪った時のように、深く哀悼の意を抱いていたので、誰も彼も進んで課役に服し、それを強いられたと思うものは一人もいなかった」と書いています。 君平が明確に指摘した、仏教流入以後の山陵荒廃の歴史を思い起こし、葬法の問題は慎重に考える必要があります〉
天皇の火葬をどう考えるべきか─蒲生君平の主張を再考しよう
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