著者 | 書名 | 出版社 | 出版年 |
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大井一哲著 | 『大坂朝日毎日新聞不逞記事論評』 | 日本社会問題研究所 | 1928年 |
大井一哲著 | 『満洲独立論 : 満洲は支那の領土に非ず満洲は満洲人の満洲なり』 | 日本社会問題研究所 | 1928年 |
大井一哲著 | 『今が農民奮起の時』 | 日本社会問題研究所 | 1930年 |
大井一哲著 | 『政党亡国論』 | 日本社会問題研究所 | 1930年 |
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大井一哲著 | 『大坂朝日毎日新聞不逞記事論評』 | 日本社会問題研究所 | 1928年 |
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佐藤清勝は、現代政治(明治維新以降。執筆は昭和十八年)は天皇政治であると主張した。彼がそう主張した第一の根拠は、大日本帝国憲法が明治天皇の叡慮によって制定された欽定憲法だということである。そして、大日本帝国憲法は、天皇の大権、具体的には行政、司法、立法の大権、兵馬の権、宣戦講和の権、条約締結の権、文武官任免の権、栄爵賞典授与の権、大赦特赦等の権を確定したものだと説いた。
ところが、佐藤は政治の実態に強い危機感を覚えていた。彼は、現代政治は政党政治、議会政治に推移しつつあると指摘し、次のように政党、政治家に対する厳しい批判を展開したのである。
「……党利党益のみを顧みて、国利民福を念とせず、徒らに政争に没頭し、為めに議会は法律及び予算の審議協賛をなさずして、会期の大部分を政争の論難攻撃に費して居る、而して、議会に列する議員も亦、国家の利権を獲得し、国家の利益を壟断せんとし、賄賂公行、道義正に地に没せんとしつつある、斯の如きものによりて、国政を運用せんとするときは、一般の人民亦是に倣ひ、唯利益是れ追求し、道義廃頽し、人倫壊敗し、遂に、国家を挙げて救ふべからざるに至るのである、加之、議院政治、政党政治の余弊は、金権者万能を来し、為めに金権者流に好都合なる法律案のみを通過し、国家下層窮民の福祉を増進すべき法律案は却つて閑却せられ、為めに、下層の窮民をして、更に困憊せしめ、遂に、赤貧洗ふが如きものゝ多数を生ずることは、国家の慶事ではないのである……政治家は先づその倜黨の心を去つて、国家を思ふの心に復らなければならぬ、政治家は先づその私欲、権勢欲を去つて、天皇の大御心を体せねばならぬ」(三百二十頁) 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑩[完]
佐藤清勝は、わが国の近古は天皇政治の時代ではなく、武門政治の時代であったと述べる。源頼朝が政権を掌握してから、徳川慶喜が政権を奉還するまで、第八十二代の後鳥羽天皇(在位:一一八三~一一九八年)から第百二十一代の孝明天皇(在位:一八四六~一八六七年)の時代であり、この間僅かに第九十六代の後醍醐天皇が親政を行ったのみである。
この時代について佐藤が特筆するのは、亀山上皇と孝明天皇の国家観である。弘安の役(一二八一年)の際の亀山上皇について、佐藤は「…親ら石清水の八幡宮に行啓あらせられて、外敵撃攘を祈り給ひ、更に手書を伊勢の大神宮に奉り、身を以て国難に代らんと祈らせ給ふたのである」と書いている(二百五十二頁)。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑨
中古天皇政治の意義を語るに当たり、佐藤清勝は中古の時代を次のように区分した。
(1)第三十六代の孝徳天皇(在位:西暦六四五~六五四年)から第五十五代の文徳天皇(在位:西暦八五〇~八五八年)に至る親政時代、(2)第五十六代の清和天皇(在位:八五八~八七六年)から第七十二代の白河天皇(在位:一〇七三~一〇八七年)に至る藤原氏の摂政時代、(3)第七十三代の堀河天皇(在位:一〇八七~一一〇七年)から第八十一代の安徳天皇(在位:一一八〇~一一八五年)に至る上皇・法皇の院政時代──。
それぞれの時代によって変化は生じたが、佐藤は、中古全体について、その天皇政治の第一義は「大政の総攬」であると説く。大化の革新によって、官制、法令が整備され、左右大臣の下に八省百官を置いて政務を分掌させることになった。この結果、政治の細務は臣僚に委ねられることになったが、天皇は政治の大綱を総攬されたと、佐藤は述べる。さらに、次のように続ける。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑧
佐藤清勝は、『世界に比類なき天皇政治』第二編「日本の天皇政治」二章以下で、歴史を遡って天皇政治の実例を明示した。ここで佐藤は「太古」「上古」「中古」「近古」「現代」の五つの時代に分けたが、政治研究として十分成立する「上古」以降をその分析の対象とした。
「上古」は、神武天皇から第三十五代の皇極天皇(在位:皇紀一三〇二~一三〇五年)までである。佐藤は、「上古」の政治史の概要、政治組織、対内政治、対外政治を眺めた後、この時代の天皇の政治思想を、国家観、政治観、法政観、臣民観から考察し、上古天皇政治の本質に迫った。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑦
佐藤清勝は、『世界に比類なき天皇政治』第二編「日本の天皇政治」第一章「天皇政治の原理」において、次のように書いている。
「…日本国家と欧米国家とは、その外形を同ふするもその本質を異にして居る。我等の国家は父子兄弟子孫の派生的国家であるに対し、彼等の国家は旅人の団体の如き、寄合的国家である。我等の国家は一家族の拡大したる国家であるに対し、彼等の国家は各種異民族の四方より集り来たる国家である。我等の国家は完全一体であるに対し、彼等の国家は混合雑駁体である。斯の如く国家をなす成員の性質を異にし、国家の本質を異にするが故に、我等の国家観念と彼等の国家観念とは異ならざるを得ぬ。我等の国家観念は相親相愛であり、和合輯睦であるに対し、彼等の国家観念は抑圧強制であり、権力統制である。我等の国家観念は人情的であり、道徳的であるに対し、彼等の国家観念は理智的であり、強力的である。斯の如く、国家観念を異にするが故に、我等の政治思想と彼等の政治思想とは異ならざるを得ぬ。我等の政治思想は愛人撫民であるに対し、彼等の政治思想は命令服従である。我等の政治思想は道徳的であるに対し、彼等の政治思想は権力的である」(九十七頁)
佐藤清勝は、④「民主政治説に対する批判」を次のように展開する。
民主政治の根本思想は、個人の自然権説に出発する、この説は個人の自由平等を主張し、個人人格の尊厳を高調する思想である。この思想を根底として、これに社会契約説を付加し、国家を個人の集合体と考える。自己の天賦の権力を有する個人が契約によって国家を構成するのだから、人民は国家の主権者であり、人民の総意は国家の意志であり、したがってこの総意は多数によって決定されるべきであるとする。こうして、代議政治、民主政治が行われる。
また、民主政治は、人民が立法し行政する政治である。立法のために多数による決定を行うが、多数は善悪を意味せず、力を意味する。善であっても、少数であれば実施されず、悪であっても多数であれば実施される。このため、多数決政治は必然的に力の政治となる。つまり、民主政治の根本思想は個人主義であり、また強力主義の思想である。国家主義の思想であり、道徳主義であるわが国の政治思想とは、西洋の民主政治は相容れない(二十二~二十五頁)。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート⑤
佐藤清勝は、君主政治、民主政治、共産政治のいずれの根本思想も、個人主義であり、強力主義だと批判した。彼はまず、③「君主政治説に対する批判」として、西洋政治思想においては、権力の起源を、神学的に解釈したり、自然科学的に解釈したり、あるいは法理的に解釈したりと、様々な変遷があったが、いずれにせよ政治を君主の権力行使の作用であると見てきたことには変わりがないと指摘し、次のように説明する。
西洋思想においては、君主の権力は最高であり、無制限であり、絶対であると主張した。このような思想は、市民や農民を眼中に置かず、君主の個人的権力だけを強唱するものであって、例えばルイ一四世などは「朕は国家なり」と主張するに至った。つまり、欧州の君主政治の根本思想は権力主義であり、君主の個人主義である。 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』(昭和十八年六月)読書ノート④
原理的な西洋政治学批判を展開した佐藤清勝は、①「国家観からの批判」に続いて、②「法律説の観点」から西洋の政治の在り方を批判した。彼は、神法説、自然法説、歴史法説、功利法則説など、法律に関する学説の変遷を見た上で、次のように述べる。
「法治は法律によりて政治を施行することである、即ち、法治国は統治権により法律を発布し、この法律を実行せしめて、人民を治むる国家である。即ち、法律は統治の権力をその泉源として、人民をこの権力に服従せしむるのである。……法律はその背後にある主権者の権力によつて施行せらるゝのであるから、法治は即ち権力政治である力を万能とする政治である」(十四、十五頁)
佐藤は、このような法治に対して、わが国古来の政治は道徳を根底とする政治であったと主張し、概要次のように説いた。
わが国でも、多少の法令規則はあったが、それは政治の補助手段であって、その実質は道徳政治であった。道徳政治は、為政者がまず道徳を実践し、模範を示し、これを実行させる政治である。この点で全く法律政治とは異なる。わが国上古、中古の歴代天皇は、道徳を実践されただけではなく、よく人民を愛撫し、人民に恩恵を施し、刑罰を寛大にされ、仁慈の政治を行われたのである。
このように説いた上で、以下のように結論づけている。
「欧米国家の政治は、その法律思想に於て権力主義である。是に反し、我国古来の政治思想は道徳主義であつた。権力主義の思想は道徳主義の思想と相容れざる思想である」(十六、十七頁)