吉村寅太郎、松本奎堂とともに天誅組総裁として維新の魁となった藤本鉄石は、黒住宗忠が開いた黒住教の影響を受けていた。天保十一年、鉄石は二十五歳のときに脱藩して、全国行脚の途についた。延原大川の『黒門勤皇家列伝』には、「この天保年間は、宗忠の説いた大道が備前の国を風靡した頃で、鉄石も早くより宗忠の教説人格に接触して、大いに勤皇精神を鼓舞されたものと思われる」と書かれている。
さらに同書は「彼は常に自筆の天照大御神の御神號並に、宗忠七ヵ条の大訓を書して肌守となし、或は、宗忠大明神の神號を大書して人に与えし…」とある。宗忠七ヵ条とは、
「日々家内心得の事
一、神国の人に生まれ常に信心なき事
一、腹を立て物を苦にする事
一、己が慢心にて人を見下す事
一、人の悪を見て己れに悪心をます事
一、無病の時家業おこたりの事
一、誠の道に入りながら心に誠なき事
一、日々有り難き事を取り外す事
右の条々常に忘るべからず恐るべし 恐るべし
立ち向こう人の心は鏡なり己が姿を移してやみん」
続きを読む 天誅組総裁・藤本鉄石と黒住教、そして崎門
「国学・神道」カテゴリーアーカイブ
黒住教関連文献
雑誌
著者 | タイトル | 雑誌名 | 巻・号 | ページ | 出版時期 |
---|---|---|---|---|---|
中村 聡 | 初期黒住教と国学者をめぐっての一試論 | 國學院大學研究開発推進センター研究紀要 | 2 | 145-170 | 2008-03 |
杉島 威一郎 | 黒住宗忠の「道」と「黒住教」 | 芦屋大学論叢 | 44 | 112-95 | 2006-11-17 |
近藤啓吾 | 黒住宗忠翁と垂加神道 | 神道史研究 | 54(2) | 148-159 | 2006-10 |
中村眞人 | 近代日本の形成と民衆宗教 : 教派神道「黒住教」の事例から | 東京女子大学比較文化研究所紀要 | 67 | 1-15 | 2006 |
井ヶ田良治 | 近世後期における民衆宗教の伝播 : 丹後田辺牧野家領の黒住教 | 社会科学 | 76 | 31-52 | 2006 続きを読む 黒住教関連文献 |
垂加神道と黒住教
いまこそ、伊勢神道、垂加神道の視点から黒住教の真髄を考察するときだと考える。それは、近藤啓吾先生が『神道史研究』(平成18年10月)に発表した「黒住宗忠翁と垂加神道」冒頭で、以下のように書いているからにほかならない。
〈私はかねて黒住宗忠翁が門下に示された和歌や書簡に、「正直」といひ「日の神の御道」といひ「我が本心は天照大神の分身」であるといつて、かの山崎闇斎先生垂加神道によつて継承された古き伊勢神道の信仰が、脈々波打つてゐることを感取し、しかも翁のこの信仰がいづこより伝はり来りしかを考へてつひにその資を求め得ず、歎息すること久しかつた。 続きを読む 垂加神道と黒住教
国学と水戸学の関係
維新の原動力となった国学と水戸学。両者は対立しつつも、相互補完的な関係にあった。この論点に言及した、『月刊日本』平成26年1月号に掲載した「現在も続く直毘霊論争」の一部を紹介する。
〈本居宣長は、強いて神の道を行おうとすると、かえって「神の御所為」に背くことになると主張していました。『玉勝間』においては、中国の古書はひたすら教誡だけをうるさく言うが、人は教えによって善くなるものではないと書いています。これに対して、水戸学の会沢正志斎は次のように批判しました。
「仁政の要を知らざれば、人の上たること能はず、臣として君徳を輔佐すること能はず、義を知らざれば、元弘、延元の世の如きにも、去就を誤る類のものあり。礼を知らざれば君に事へ、人に交るに敬簡の宜を得ず、譲を教へざれば争心消せず、孝悌、忠信を教へざれば、父母に事へ、人と交て不情の事多し。多人の中には自然の善人もあれども、衆人は一様ならず、教は衆人を善に導く為に施す也」 続きを読む 国学と水戸学の関係
吉田神道と垂加神道①
山崎闇斎は、神籬磐境の伝を吉川惟足から伝えられた。
しかし、惟足の伝に潜む問題点を看過しなかった。惟足の子従長が整理した『四重奥秘神籬磐境口授』(『神籬磐境口訣』)には、「君道ハ日ノ徳ヲ以テ心トス、日ノ徳ヲウシナフ時ハ、天命ニ違ヘリ、天命ニ違フ時ハ、其位ニ立ガタシ」と書かれていたのである。
これはまさに易姓革命に通ずる思想であり、『拘幽操』の精神に適うものではない。ここで闇斎が立ち止まり、「神籬は皇統守護の大道、磐境は堅固不壊の心法」との立場を固めたことは、歴史的な意味を持っている。近藤啓吾先生は、闇斎が惟足の限界を超えて、わが国の道義の本源への考究を進めたことに「闇斎の学問の面目があり、垂加神道の本義がある」と書いている。
明和事件の真相─「大弐が幕府に恐れられた理由」『月刊日本』2013年9月号
村岡典嗣「垂加神道の根本義と本居への関係」(大正14年)
『本居宣長』を著した村岡典嗣は、大正十四年に「垂加神道の根本義と本居への関係」と題して次のように書いている。
「……文献学を離れて神道一途について見ると、本居のその方面の言説や思想や態度には、垂加神道と多少の類似や共通が認められる。まづその神道信仰の要素であった、神代伝説中の神々や神々の行動の記事に対する解釈を見ると、記紀その主としたところは異ったが、例へば造化神を人体神と見る事、二神の国生みをさながらに事実と見る事、天照大神を日神にして同時に皇祖神と見ること等、いづれも相同じい。而して、かくの如きは、概ね神典の記事に対する信仰的態度の自然の結果と考へられるが、而もその態度の源である神道信仰の宗教的情操そのものに於いて、両者頗る相通ずるものがある。本居は儒教神道を攻撃するとて、体ある神を尊み畏れないで、天を尊み畏れ、高天原を帝都で天でないとし、天照大神を太陽でないとし、神代の事をすべて寓言として説かうとし、又不思議の存在を知らないですべて理論を以て説かうとする類ひを、漢意として挙げて攻撃したが、これらはいづれも、新井白石等の史学派の神典解釈や、熊沢蕃山等の寓意的解釈や、更にまた多少とも惟足や延佳の説にも当るが、ひとり垂加神道の説に対しては、そのいづれも当らぬ。神を人体とし、高天原を一方に天上と解し、天照大神を太陽とし、神代紀の記事を事実と見、又不可思議の存在を認める等、いづれも宣長と同じく、垂加神道に見た所である。斯く考へてくると、垂加神道から、儒意即ち太極図説的哲学を除去したもの、やがて本居の神道であるとも考へ得る如くである」
続きを読む 村岡典嗣「垂加神道の根本義と本居への関係」(大正14年)
天日・天照大神・天皇の三位一体に基づく現人神天皇観の誕生
前田勉氏は、『近世神道と国学』において、次のように書いている。
〈…(玉木)正英の神籬=「日守木」解釈は、…天照大神の霊魂は今もなお天皇と「同床同殿」に生きているという神器観に、…橘家神軍伝の「大星伝」とが結びつくことによって、新たに創出されたものではなかったか。それは、文字通り天日と天照大神と天皇の三位一体にもとづく現人神天皇観の誕生を意味していた。
さらに正英の神籬解釈の特筆すべき点は、「日守木」の「日」を守護する忠誠とは、現人神天皇への忠誠であったことである。正英において忠誠とは、現人神天皇への忠誠であって、それを超えた普遍的な道徳的原理に根拠づけられたものではなかった〉
そして前田氏は、是非分別せず、ひたすらに天皇に帰依する、天皇への被虐的ともいえる絶対的忠誠のモデルにされたのが楠木正成であるとする(160、161頁)。
天皇の有徳・不徳と万世一系性の矛盾を解いた玉木正英
前田勉氏は、『近世神道と国学』において、次のように書いている。
〈…(玉木)正英は、天皇の有徳・不徳と万世一系性の矛盾という闇斎学派の人々の喉元に突きつけられていたアポリアに、彼独自の三種の神器観を媒介にして、ひとつの明快な答えを提出した。正英の弟子若林強斎によれば、それは次のようなテーゼである。
橘家三種伝の内、上に道有るは、三種霊徳、玉体に有り。上に道無きは、三種霊徳、神器に有るなり。故に無道の君為りと雖も、神器を掌握すれば、則ち是れ有徳の君なり。神器と玉体は一にして別無きなり。
(『橘家三種伝口訣』)
天皇が有徳の君主であれば、「三種霊徳」は天皇の「玉体」にある。しかし、天皇が不徳である場合、「三種霊徳」は「神器」にある。だから、不徳の天皇であっても三種の神器を掌握している限り、「有徳の君」であるという。ここでは、三種の神器の「霊徳」の不可思議な権威が天皇の有徳・不徳以上に重んじられる。普遍的な道徳以上に、天皇の万世一系性が三種の神器の「霊徳」を根拠に強調されているのである。このような三種の神器観は「垂加派の独創」(加藤仁平氏)とされる」
鬼倉足日公とすめら教
青柳種信と辛島並樹
明治時代になって神祇伯は廃止され、白川家も子爵になった。やがて、第33代の白川資長の代で白川家は絶家となってしまう。しかし、伯家神道はいくつかのルートで伝承されていた。その1つが、第30代の雅寿王によって伝授された青柳種信のルートである。 続きを読む 鬼倉足日公とすめら教