フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
以下は、アメリカナイズされ尽くした現在の日本人に対する警鐘ともなっている。
〈多数の自国国民を覚まさしめ行動にまで奮ひ立たせた最大の理想家にして愛国者たる著名にして、尊敬すべき支那人政治家の口より出でたるこの助言は、貪欲にして残忍な恐るべき西洋物質主義に反対し、「王道」なる語に現されたる東洋の徳と正義の哲学への訴へを現してゐる。これは自分達が東洋人の血と肉とを所有してゐることを忘れ、種族的誇りを捨て、自己及び祖先の特性を有せず、又西洋人が與ふる一時的にして、皮相な物質的利益の為及び没利害的なりといふ偽善的申込と交換に、東洋を西洋化せんことを提唱し、又白人は有色人種を軽蔑の念を以て扱ふことをよく知つて居りながら、東洋の同胞よりも白人を好むが如き東洋人に対しよき反省の材料を提供するものである。幾世紀かに亘る西洋諸国の圧迫の結果、東洋の弱者をして最も激しい西洋主義者以上に、西洋化されんことを願ふ種族的裏切者と変へて了つた。かかる人々は白人が東洋文明の全機構を毀損し破壊せんとするの手段媒介となる。彼等は高い精神主義の東洋文明には相応しくないものであるが、かかる人々は白人の保護国に於ても蔑まれる。彼等は東洋に於ける白人が内蔵せる商業上に於て拡大強化せんとするの邪悪なる計画、表面上現す追従的尊敬の上に於てのみ繁栄するのだ。彼等は東洋に於ける西洋物質主義に結びついた金の光沢に目眩めき、西洋が支配する以前に於ける巨大な東洋の諸帝国の基礎となつた、東洋人の不屈の精神たる自己放棄の精神を失つてゐる。寧ろ彼等は西洋諸国の支持が無くなれば、その国は経済的、社会的、文化的に没落するものなりと恥もなく予言するのだ。彼等はその種族的誇りは西洋化された東洋人として名を揚げんとの思ひで窒息させられてゐるので、自国民及び自種族に対し、積重ねられた毎日の侮辱には気がつかない。このやうな孫逸仙の意味深き言葉は、前記の不幸なる東洋主義の裏切者を種族的に本来の地へ還らしめんが為に発せられた言葉であることは疑ひ無い所である。
この種族的裏切者は、比律賓に於けるが如く、夥しく多数存在する所は無いであらう。比律賓人は西洋人の眼を以て自国を眺め、誇らかに西洋の文化文明を吸収した唯一の東洋国家として自らを区別する。〉(同書134頁8行目~136頁8行目)
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)を紹介する。章立ては以下の通り。
第一章 歴史的回顧
第二章 アメリカ政権下の平和的独立運動
第三章 中立の笑劇
第四章 日比同盟
第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義
附録
第一 タイディングス・マクダフイー法
第二 タ・マ修正法
第三 比律賓憲法
まず、「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を数回にわたって紹介する。
〈将来に於ける比律賓共和国の領土保全を護る為に日比同盟をば締結し、中立条約の締結はこれを拒絶するとすれば、その結果必ず東亜諸国民間の関係及び交渉の密接化を助長することとなるであらう。東亜に於ける四独立国たる日本、支那、満州、泰国間に汎亜細亜連合が組織され、以て今や亜細亜諸国間の種族、文化、習慣、伝統の縁を強化する協同及び相互活動を齎す機能を果してゐる。
最も傑出せる汎東洋主義の提唱者は恐らく故孫逸仙なるべき処、彼は神戸に於て為したる演説に於て如何に亜細亜諸国民が白人種により抑圧されたかを述べて次の如くいつてゐる。
「被抑圧亜細亜諸国民が如何にして欧羅巴の力に抗し得るかといふ問題を解決する為には、汎亜細亜主義を研究しなければならぬ・軍国主義的国家は自国民と同様に、他国国民を抑圧するものである。吾が汎亜細亜主義は「王道」に基いて不正を克服せんことを目的とする。諸国家の大衆を同様に開放せんことを企図し、軍国主義に反対する。諸兄日本人は既に『王道』なる諸兄特有の東洋文明に加ふるに西洋軍国主義的文明を採用せられた。諸兄は今や西洋軍国主義の番犬となるか、又は『王道』に基く東洋的生活方法の砦となるか、二者択一の地位に在り。」〉(同書133頁1行目~134頁7行目)
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、津島壽一『芳塘随想 第10集(先輩・友人・人あれこれ)』(芳塘刊行会、昭和38年)の記述。
〈デュランさんは親日家であったが、その根本の思想はフィリピン民族主義者、フィリピン愛国家として教育、政治の部面に活動したのであり、そして、そのためには日本と親しくするのがいいという考えの持ち主であった。従て国語についてもタガログ語を奨励した。デュランさんの議会におけるタガログ語の演説などは堂々たるものであったそうだ。(私にタガログ服の着用を推奨したのも、こういった主張のあらわれだと解釈すべきであろう)
デュランさんは、一九〇〇年五月アルバイ州(Albay)ギオバタンに生まれ、一九二四年国立フィリピン大学卒業後、数年間同大学法学部の教授として後進を指導し、のち弁護士を開業し、また農業方面にも活動した。一九三二年に著書「比国独立と極東問題」を刊行し、この書の中でも親日論を強調した。
日本軍占領中は、内務次官、対日協力会理事長などを勤めたため、ラウレル、ヴァルガス等の要人と共に戦後約十四ヶ月(一九四六―七年中)ばかり獄中生活をしたが、ロハス初代大統領によって釈放された。
議会人としての経歴であるが、大戦前二回立候補したが、一度は親日ということが崇って落選した。が、一九四九年郷里アルバイ地区から下院議員に再選し、ナショナリスタ党の有力な幹部となり、銀行通貨委員会委員長、外務委員会委員として華やかな議会活動をした。が、惜しいことに昭和三十二年(一九五七年)七月来日の際、脳出血に罹り、荻窪の東京衛生病院で三ヶ月間も療養し、帰比後も健康が勝れず、一昨年(昭和三十六年)二月二十八日、マニラ郊外の自宅で他界されたのであった。あの快活であり、率直であり、雄弁家であり、そして親日家であり、世話好きの好紳士を失ったことは誠に痛惜に堪えない。
追記
(一)デュランさんは、戦後二度目の夫人(Mrs. Josephina Belmonte Duran)を迎えたが、その夫人はかってマニラ大学教授時代の教え子であったそうで、教養も豊かに、弁護士の資格を有った立派な方で、デュランさんの逝去した年の十一月、その選挙区(アルバイ)から立って、下院議員(リベラル党)に当選し、現在に至っておるとのことだ。
(二)本項のデュラン氏の経歴等については、同氏と親交のあった山本恒男氏(一九三八年二月─一九四二年七月、正金マニラ支店長)から示教をうけたところによる〉
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、津島壽一『芳塘随想 第10集(先輩・友人・人あれこれ)』(芳塘刊行会、昭和38年)の記述を数回に分けて紹介する。
津島は、明治21(1888)年に香川県阿野郡坂出村(のちの坂出市)で生まれた。東京帝大法学部卒業後、大蔵省に入省、小磯内閣の大蔵大臣を務めた。戦後は、日本国主席全権大使としてフィリピンとの賠償交渉にあたった。
〈「マニラに懐う人々」のうちで、私にとり深い印象をのこした人として、比国下院議員ピオ・デュラン氏(Mr. Pio Duran)がある。
私がデュランさん(以下デュランさんと呼ばして貰う)に初めて会ったのは、昭和二十六年十二月二十八日、元正金マニラ支店長の山本恒男君に伴われて外務省顧問室に私を訪れたときである。
爾来、デュランさんからは、比国の政情や、賠償問題に対する態度その他について、極めて有益な情報と意見を聴くことができた。いよいよマニラヘ出発する時期も近づいた一月十六日(昭和二十七年)には、都内の某所で会食して、これらの問題についてゆっくりと懇談する機会があった。それから、マニラ到着後も、しじゅう私をホテルに訪ずれられ、友人としての立場で何かと面倒を見てくれたものである。
デュランさんは、自他共にゆるす大の親日家である。その夫人の甥二人を養子として薫育されたが、その名前も一人は東郷平八郎デュラン(Togo Heihachiro Duran)他の一人は黒木為禎デュラン(Kuroki Tametoshi Duran)と付けたり、また、この二人を日本の小学校に入れたりしたことによっても、それはうなづけることとおもう。……私のキリノ大統領の晩餐招待のときに急造したタガログ正装の如きもでデュランさんのあっせんにより一日間で間に合わせたのであった。あるときは、マニラホテルの私の部屋へ、極上のタガログ料理を持込んでくれ、団員等と愉快に夕食を共にし、歓談を交えたりしたこともある。とにかく、同氏の厚い情誼には私どもいたく感動したものだ。私のマニラ賠償会談の結末に対しても心から喜んでくれ、離島のときには国際空港に来られて成功を祝してくれたのであった〉(続く)
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述。
〈日本人であるわたしでさえも、終戦を転機に、百八十度転換した母国の激しい変貌にはすっかり戸惑ってしまったくらいだから、忠君愛国の心酔者だったデュラン氏が、愕きそして失望したのも、無理からぬことだったろう。
デュラン氏は、名状しがたい気持で宿舎に戻り、このことを夫人に話したくだりを語りながら、
「ミスター金ケ江、妻に対して、こんなに面目を失墜したことはなかったよ。僕の話を聞きながら笑っている妻の顔を、面目ないというのか、気まりが悪いというのか、まともには見られなかったよ」
と、こぼしたことがあった。
それでもデュラン氏の日本びいきは変ることなく、その後もたびたび来日して、日本商社となにか共同事業を計画しているようだった。そのうちの一つに、氏の郷里がマニラ麻の生産地であるところから、麻を輸出して優秀な日本の技術によって加工する、新しい製品の開発に努力していたが、糖尿病が持病だったデュラン氏は、数年前に、事業の成功を見ずして他界したのである。ヒリッピンでは戦前、戦役を通じて異色の人物だった。
わたしの長男清彦が関西学院を卒業の時、卒論にとりあげたのが、このビヨ・デュラン氏の日比同盟論であったことも、わたしにとっては氏とのゆかりの一つである。
日本へも来日したことのあるファニタ夫人は、デュラン氏の亡きあと、アルバイ州の選挙区の人たちに推されて、下院議員に連続当選しているそうだが、これを見ても、デュラン氏がいかに人びとに人望があったか、想像されるのである。人間の真の価値というものは、その人の死後に決まるものだ、とよく言われるが、このデュラン氏などは、生前よりむしろ死後において、その価値が再認識された一人ではあるまいか〉
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述。
〈…終戦後は、対日協力者としてモンテンルパ刑務所に監禁されていたが、この人について今も忘れられない、一つの思い出がある。
それは、モンテンルパから釈放された氏が、郷里から出馬して下院議員となり、戦後問もなく二番目の新夫人を同伴、来日したことがある。その時は、まだヒリッピン大使館がなくて、ヒリッピン代表部の代表だったメレンショ氏の公邸で会ったことがある。デュラン氏はわたしの顔を見るなり、驚いた声でこう叫んだものだ。
「ミスター金ケ江、武士道の国ニッポンは、いったいどこへ消えてしまったのかね?!」
君主国日本に憧れていたデュラン氏の脳裡にあった、忠君愛国のイメージは、敗戦の虚脱のなかで混迷している日本の姿に接して、はかなくも、音をたてて崩れ去ったものらしかった。その驚きと失望のうちに語るデュラン氏の述懐は、次のようなものであった。
同氏は、かねてから新夫人に向かって、日本ほど素晴らしい国はない、と口をきわめて礼讃し、わがことのように自慢していたという。
「日本の善良な国民は、天皇陛下をうやまうこと神のごとく、たとえば乗っている電車が、天皇のおいでになる皇居の前を通る時は、乗客はみんな起立して、皇居に向かってさい敬礼するし、また日曜日には、ヒリッピン人が教会へお詣りするように、市民たちは朝早くから皇居前の二重橋という所へ行き、そこに跪ずいて両陛下を遥拝し、老いも若きも忠誠を誓うのだよ。こんな国民は世界広しといえども、この日本よりほかにはないんだ。なんと素晴らしい国民じゃないか」
ちょうどその日が日曜日だったので、デュラン氏は夫人を呼んで、
「お前は、三宅坂の教会に行って、ミサのお詣りをしてくるがいい。わたしは、これから二重橋へ行って、両陛下を遥拝してくるから」
そう言って一緒に宿舎を出たデュラン氏が、二重橋まで来てみると、脆ずいて遥拝している敬虔な日本人の姿は一人もなく、そのあたりを若い男女が手をつないで、楽しそうに散歩している意外な光景が限に映り、まるで、マニラのルネタ公園にでも立っているような思いがしたデュラン氏は、思わず眉をひそめて、
「ここが日本の二重橋か……」
と、思わず口走しったというのである〉(続く)
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述を数回に分けて紹介する。
金ケ江氏は明治27(1894)年に長崎県無佐世保市に生まれ、明治42年に16歳で単身マニラに渡航した。昭和10年にナショナル・ゴム工業を創立、戦後は信交商事を設立した。
〈……これから紹介する人たちは、ヒリッピン側でもいわゆる《親日家》として有名な人であった。
まず第一に挙げたいのは、ピヨ・デュラン氏である。氏は、はじめ友人のマルエル・リム氏と共同で法律事務所を開いていた有能な弁護士だった。横浜正金銀行、日本鉱業のほか日本人関係の顧問弁護士をしていて、在留邦人との知己も多く、のちにはヒリッピン大学のプロフェッサアーとなり、さらに郷里アルバイ州から立候補して下院議員になった、明るい性格の人であった。
デュラン氏が、どうして大の日本びいきになり、日比同盟論まで提唱するようになったか、その詳しい動機や経緯は聞きおよんでいないが、アメリカの統治下にあった当時のヒリッピンで、堂々と日比同盟論を主張する氏の勇気と信念には、わたしも感服したものだった。
デュラン氏が学者としての立場から、あらゆる関係の文書を渉猟し、研究を重ねてゆくうちに日本の歴史と国体を知り、そして日本民族に心を惹かれ、ことに氏の魂を強くうったものが、日本古来の武士道の精神であったらしい。
ヒリッピンのように言葉も習慣も、そして文化も宗教も異なる群小の多民族が雑居している国で、国家としての歴史もまた、民族としての伝統もなく、まして植民地として永く外国の圧制下に苦しんできた国柄であってみれば、連綿たる歴史と伝統と文化を待った国家と国民に対して、深い憧憬を抱き、ことに明治維新後、近代国家として発展してきた隣邦・日本に、心から尊敬の念を寄せていたとしても、不思議なことではあるまい。しかも主君に仕えた武士たちの、烈々たる自己犠牲の忠誠心と、義を第一とする五常の道は、おそらくデュラン氏には驚異であったに違いない。
ともあれデュラン氏の日比同盟論は、ヒリッピン人のなかにも多くの共感を呼び、ようやくナショナリズムに目覚めてきた人にちには、人気があったものである。戦時中渡航して来た日本の軍人や右翼関係の人の共鳴と支持を得て、それらの人たちと交わり、ことにアジア協会マニラ支部長望月音五郎氏などは氏を担ぎあげて、利用していたようであった〉(続く)
平成28年10月30日、『大亜細亜』(大アジア研究会発行)第二号が刊行された。
巻頭論説「トランプ大統領就任の意味と興亜の使命」は以下のように結んでいる。
〈…今後の国際社会は国益と謀略に翻弄される時代になると書いたが、それは謀略渦巻く世界観に甘んじるということではない。国益と謀略の時代もまた、パワーポリティクスに基づく西洋発の世界観に他ならないからだ。短期的にそういう時代の到来への備えを怠ってはならないが、同時に長期的に西洋発の近代的価値観を克服する遠大な理想を抱かねばならない。
かつて我が国の先人たちは、単なる国家の生存を超えた理想を胸に抱き、その実現に邁進してきた。その代表的存在である興亜論は、国家や民族の自生的秩序を重んじ、各その処を得る共存共栄の秩序を「八紘為宇」の理想に求めた。謀略渦巻く国際関係の中で、「自由、民主主義、人権」に代わる旗印を掲げることは、われわれに課せられた崇高な使命であると信じる〉
目 次
1面 トランプ大統領就任の意味と興亜の使命
2面 樽井藤吉―「和」の精神により『大東合邦論』を唱えた(坪内隆彦)
6面 アジア主義に生きた杉山家の伝承②(杉山満丸)
10面 「東洋経綸」の魁、平岡浩太郎(浦辺登)
12面 柳宗悦のアジア的価値観 (小野耕資)
14面 大アジア主義と 崎門学の関係(折本龍則)
16面 「筑紫都督府」と 大宰府の成立(山本直人)
18面 西洋近代思想への抵抗 (坪内隆彦)
19面 時論 外国人労働者問題 から見る目指すべき大道の覚醒 (小野耕資)
22面 史料・『東洋学館趣旨書』
23面 連載・大アジア医学の なかの日本②(坪内隆彦)
24面 アルテミオ・リカルテ 生誕百五十年記念祭開催報告
トランプ次期大統領がスティーブ・バノン(Steve Bannon)氏を首席戦略官・上級顧問に指名した11月13日、拙著『キリスト教原理主義のアメリカ』(亜紀書房、1997年)を読み返した。その前年1996年11月、勝利宣言していたのは、共和党候補のロバート・ドールを破って再選を果たした民主党のビル・クリントンだった。
ところが、1996年の議会選挙では共和党が多数を維持した。実は、これを受けて勝利宣言をしたもう一人の男がいた。キリスト教原理主義者と白人至上主義者の奇妙な連合に支えられたキリスト教徒連合のラルフ・リード事務局長だ。リードの勝利宣言は、「アメリカ政治を根底から揺るがす地殻変動の前兆に違いない」。そう確信して書き始めたのが、同書だ。それから20年、ついにキリスト教原理主義者と白人至上主義者の奇妙な連合に支えられたトランプが勝利した。
トランプ勝利は、日本の自立の好機には違いない。しかし、それは新たな危機の始まりになるかもしれない。
以下、大アジア研究会の「アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭のお知らせ」を転載する。
謹啓
時下益々ご清祥の事とお慶び申し上げます。
さて、今年はフィリピン独立の闘士、アルテミオ・リカルテ将軍の生誕百五十年です。リカルテは、今から百五十年前の一八六六年十月二十日、ルソン島最北端のバタックという町で生まれました。当時のフィリピンはスペインの植民地支配に苦しんでおりましたが、やがてスペイン本国の衰退に伴い、独立の気運が昂揚し、ついに一八九六年には最初の革命蜂起が勃発します。リカルテはアギナルド将軍率いる革命軍と共に戦い、米西戦争によってアメリカが新たな侵略者となるや、アメリカとの戦争を指導しました。
この米比戦争の結果、アメリカは百万人ものフィリピン人を虐殺し、一九〇二年にフィリピンを軍事制圧して以降は、過酷な植民地支配を行いました。捕らわれの身となったリカルテも、長きに亘る牢獄生活を強いられましたが、一九一四年、宮崎滔天や犬養毅、頭山満といった有志たちの計らいによって我が国に亡命し、横浜山下町に居を構えて静かな余生を送っていたのです(この縁にちなみ、戦後、横浜山下公園の一角にリカルテ将軍の記念碑が建立されました)。
ところが、一九四一年に大東亜戦争が勃発すると、星条旗に唯一屈しなかったリカルテ将軍のフィリピン帰還を求める声が高まりました。当時のリカルテは七十五歳の老齢に達しておりましたが、意を決してフィリピンに帰還し、山下奉文大将率いる我が軍と共に戦いました。しかし我が軍の戦況が悪化し、山岳地帯での過酷なゲリラ戦を強いられるなかでついに病を発し、一九四五年七月三十一日、八十年の崇高な生涯に幕を閉じました。
かくしてリカルテが、その悲願であったフィリピンの独立を見届けることはありませんでしたが、戦後フィリピンは独立を果たし、リカルテは祖国独立の英雄として讃えられております。またフィリピン解放のために、我が軍とリカルテが共に戦った歴史的事実は、日比両国にとってかけがえのない絆として記憶されるべきであり、将来における日比永遠の友好関係を約する偉大な歴史遺産であります。 続きを読む アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭のお知らせ →
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート