ピオ・デュラン博士と渡辺はま子─「あゝモンテンルパの夜は更けて」誕生秘話

 昭和26(1951)年12月24日、フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士が来日したことをきっかけに、108人の日本人兵士の命を救う奇跡の曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」は誕生した。
 当時、フィリピン・モンテンルパ市のニュービリビット刑務所には、マニラ軍事裁判で有罪判決を受けた多数の元日本兵が収監されていた。博士は、収監されている日本兵の手紙を持って、日本を訪れた。
 戦前、博士は筋金入りの大亜細亜主義者、親日派として活躍したが、戦後、「対日協力者」として断罪され、ホセ・ラウレルらとともに1947年まで獄中生活を余儀なくされた。ロハス初代大統領によって釈放されると下院議員を志し、ついに1949年に下院議員選挙で当選を果たした。
 新井恵美子氏の『死刑囚の命を救った歌』には、博士が、収監されている日本兵たちの留守家族と対面する様子が描かれている。
 〈(一九五二年)一月十日、デュランは留守家族と懇談し、モンテンルパの様子を語った。その時、死刑囚の鳩貝吉昌の次女・礼子ちゃん(十二歳)がデュランに語りかけた。
 「おじさん、私が生まれてからまだ一度も会ったことのないお父さんが……」と話し始めて、声にならない。デュランは「お父さんに会えるよう努力しましょう」と礼子ちゃんに約束した。「皆さんの気持ちはきっとフィリピンに伝えます」と重ねて約束したのだった〉

 ちょうどその頃、後に「あゝモンテンルパの夜は更けて」をヒットさせる渡辺はま子は、巣鴨の拘置所の戦犯慰問活動を通じて親しくなった教誨師の関口慈先師の紹介で、博士と対面していた。そして、はま子はニュービリビット刑務所に収監されている日本兵のことを初めて知る。すでに14名が処刑された事実も知り、はま子は衝撃を受けた。
 同年6月、はま子は楽譜と短い手紙が入った一通の封書を受け取る。楽譜の題名は「モンテンルパの歌」。作詞・代田銀太郎、作曲・伊藤正康と書いてあった。代田も伊藤も、マニラ軍事裁判で死刑判決を受け、ニュービリビット刑務所に収監されていた日本兵である。「モンテンルパの歌」は、刑務所に収監されていた日本人111名の、日本への望郷の念を込めた曲だった。「モンテンルパの歌」を発案したのは、処刑の瀬戸際に立たされていた日本兵の助命活動に挺身していた、真言宗の僧侶・加賀尾秀忍。はま子は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、『あゝモンテンルパの夜は更けて』が発売されることになる。
 1952年12月25日、はま子はニュービリビット刑務所を訪れ、慰問のステージで『あゝモンテンルパの夜は更けて』を披露した。やがて、日本兵たちも一緒に歌いだし、大合唱となった。慰問のステージの終わりに、デュラン博士は、「君が代をお歌いなさい。私が責任を持ちます」と言い、一同は起立して祖国の方に向かって歌い始めたという。
 『あゝモンテンルパの夜は更けて』大ヒットによる助命嘆願の署名、関係者による粘り強い努力の結果、ついに1953年7月、フィリピンのキリノ大統領の恩赦により、収監されていた108人全員が釈放された。キリノ大統領は、夫人と子供3人を戦争末期に失ったが、「自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである」との声明を発出した。
 この奇跡の救出劇は、2009年にフジテレビ系列の特別番組「戦場のメロディ」として放送されている。
 (1)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る
 (2)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥
 (3)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

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