「アジア的価値観」カテゴリーアーカイブ

「マハティールに見捨てられる日本」全文英訳

以下は、『月刊日本』平成25年4月号に掲載された、稲村公望先生のインタビュー記事「マハティールに見捨てられる日本」の全文英訳です。

The Japan That Dr. Mahathir Abandoned (?!)

INAMURA Kobo, Visiting Professor, Graduate School, Chuo University

(This is an excerpt from the April 2013 issue of Gekkan Nippon magazine.)

Japan, once the up-and-coming star for the countries of Asia

NIPPON: As someone who has struggled against neoliberalism, why is it that you have long taken note of the things that former Malaysian Prime Minister Dr. Mahathir has to say?

INAMURA: It’s because Dr. Mahathir’s words have included a strong message that can make we Japanese remember something important that we ourselves have forgotten.

Japanese society westernized after the war, and neoliberalism took hold with the end of the Cold War. As a result, the culture and civilization that the Japanese people themselves developed, along with the shape of the country supported by them, has been disappearing. Dr. Mahathir constantly offered words of encouragement: “Japanese, take pride in Japan’s traditional values!” “Use the power of Japanese civilization to develop the world!”

If I could speak without fear of being misunderstood, I would say that at one time Japan was like the big brother on which Malaysia could depend. In their younger days, it was a splendid older brother, and the younger brother learned many things. Once the older brother got his own household, however, he strayed from the path. His family didn’t have the power to stop it. The younger brother frantically cried out, “Brother, open your eyes!” The older brother should have quickly taken note of his younger brother’s strenuous cries.
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新亜細亜文化の建設を夢見た歌人・村田光烈

 秋田県出身の歌人として知られた村田光烈(むらた・みつたか)は、大東亜戦争勃発の翌昭和十七年十二月に『新亜細亜の誕生』を出版、新亜細亜文明を構想した。

彼の思想は、日本国体に哲人政治の理想体現を見て、独自の興亜論を唱えた鹿子木員信の思想から影響を受けていた。また、亜細亜の精神的、宗教的価値を称揚した岡倉天心の思想にも通ずる。以下に掲げる『新亜細亜の誕生』の一章「新亜細亜文化の建設」は、そうした村田の思想を最も良く示している。

〈人類文化の揺籃と世界宗教の淵源とを尋ぬる時、そは我が亜細亜を措いて外にない。かの世界最古の文化と呼ばるゝメソポタミヤ乃至古代印度の文化等、欧羅巴文明に先立つこと数千年の往昔に於て、亜細亜には既に卓越せる文化が存在して居り、又世界の三大宗教たる仏教、キリスト教、回教の発祥地も亦実に亜細亜に属する。而して暴戻なる近代資本主義的欧羅巴の征服するところとなつた亜細亜は、今に於てたとへ昔日の栄光を見出すべくもないとは云へ、而も亜細亜独自の高貴な姿に於て、今猶其光芒の搖曳するものあるを看取すること出来るので、我が亜細亜こそ凡そ精神的なる意味に於ての一切の高貴と偉大の源泉であり、釈迦、キリスト、マホメット等の宗教的天才は実に亜細亜の上代に於て此世に出現し、又印度、波斯等の多種多様なる民譚も東洋精神の衷なる魂の力を物語つて居るもので、民話に於ても亦亜細亜は世界の母である。 続きを読む 新亜細亜文化の建設を夢見た歌人・村田光烈

非同盟諸国会議、イランの核平和利用権を支持


2012年8月31日、イランの首都テヘランで開かれた非同盟諸国首脳会議は、イランへの欧米による「一方的な制裁」を非難するとともに、イランに平和的な核エネルギー利用権があるとした共同宣言を採択した。共同宣言には、イスラム教徒に対する嫌悪、差別への批判も盛り込まれた。
2015年に開催される首脳会議の議長国はベネズエラ(⇒アメリカに物申す男)が務めることも決定した。

ゴールド・ディナール(動画01)

投機資本主義と米ドル支配を終わらせる最後の切り札、ゴールド・ディナール。その理論家のUmar Ibrahim Vadillo氏の動画。
[tube]http://www.youtube.com/watch?v=w__Tx9pncFo[/tube]

ゴールド・ディナールを提唱したマハティール元首相の紹介動画。
[tube]http://www.youtube.com/watch?v=Z0FFraZTU2A[/tube]

アマンリゾーツ創設者エイドリアン・ゼッカー

 アマンの日本での存在感が急速に大きくなってきた。2014年に「アマン東京」を開業、さらに2015年には「アマン東京」の別棟として、カフェ「ザ・カフェ byアマン」をオープン。大手町タワーの麓に広がる「大手町の森」の中のカフェだ。「大手町の森」には、アラカシ、コナラなどの高木、ヤマツツジなどの低木をはじめ、81種類、56000本の植物が植えられている。さらに、2016年3月には、サミット開催地の伊勢志摩に「アマネム」がオープン。
 アマンリゾーツの創設者エイドリアン・ゼッカーは、1932年にインドネシア人の母とオランダ人の父の間に生まれた。スカルノ時代の1965年、土地国有化政策に直面したゼッカーはシンガポールへ逃れ、ジャーナリストとしてマレーシアやシンガポールで仕事をするようになる。
 5年後の1970年、彼はホテル業界に入った。就いたポストはリージェント香港の財務担当兼副社長であった。1986年以降、リージェントの経営パートナーのラファエル氏と共に共同創設者として、ラファエルホテルズの経営にも乗り出している。

http://www.amanresorts.com/より
 やがて、彼はプーケットに立派な別荘を設けた。ところが、自分が別荘に居ない間の管理の問題に直面した。そこで、彼は1987年、アマンリゾーツを設立、プーケットの別荘を「アマンプリ」というプライベートヴィラに改造することを決意、翌1988年、リゾートホテル第一号として「アマンプリ」がオープンした。以来、タヒチ・ボラボラ島、インドネシア・バリ島、同・モヨ島、フィリピン・バリマカン島等に順調に高級リゾートホテルを設けた。きめ細かいサービスを重視するとともに、贅沢なスペースを確保した。高い宿泊料金は業界の常識を覆すほどであった。その中でも、バリ島のアマンキラはインド洋を眺める水の宮殿をイメージして建てられた。3段階棚田形式のプール(3-tiered pool)は伝説的存在である。 続きを読む アマンリゾーツ創設者エイドリアン・ゼッカー

アジア通貨危機報道・15年目の真実─読売新聞・林田裕章記者の報道を振り返る

いまから15年前の1997年、タイのバーツ下落に端を発したアジア通貨危機によって、マレーシア経済も苦境に陥った。このときマハティール首相は、通貨下落の引き金を引いたヘッジファンドなど投機家筋を厳しく批判するだけではなく、通貨取引規制を断行し、自国経済を死守した。後年、マハティール首相の採った政策は、世界のエコノミストの間でも評価された。
ところが当時、投機家筋サイドに立った欧米のメディアだけではなく、日本のマスメディアもその尻馬に乗って、マハティール首相を執拗に攻撃していた。特に顕著だった読売新聞シンガポール特派員の林田裕章記者の報道を振り返り、その意図について改めて考察する材料としたい。

①マレーシア孤立の危機 欧米敵視の株価策裏目 ASEM巡り東南アに亀裂
『読売新聞』1997年9月5日付朝刊、6面
【シンガポール4日=林田裕章】マレーシアが外交・経済両面で孤立の危機に陥っている。欧米の投機筋を締め出すための株式市場規制策が裏目に出て、株価下落に歯止めがかからないほか、来年四月のアジア欧州会議(ASEM)へのミャンマー参加問題をめぐっても、他の東南アジア諸国連合(ASEAN)各国との亀裂が表面化した。
七月のタイ・バーツ暴落をきっかけにした東南アジアの経済不安が続く中、マハティール首相は三日、株価の急落に対抗するため、優先的に国内投資家から株式を買い入れる目的で、六百億マレーシア・ドル(約二兆四千七百億円)にも上る基金を設置する方針を明らかにしたが、この際、「外国からの資金に頼る必要はない。問題はわれわれの力で解決できる」と述べ、欧米への敵意をあらわにした。
しかし、この基金設置政策については、欧米の機関投資家の間から、「マレーシアの国際市場での信用を落とすだけだろう」との反応が続出しているほか、フィリピンのデオカンポ蔵相も三日、「マレーシアの政策は害はあっても益はない。外国からの投資の冷え込みが長期間にわたることさえあろう」と語った。
実際、四日のクアラルンプール株式市場は一時一〇%近くの暴落となり、三日に外国投資への規制緩和など、マレーシアと反対の経済政策を発表したインドネシア・ジャカルタ市場と、明暗を分けた。
一方、ロンドンで開かれるASEM第二回首脳会議へのミャンマー参加をめぐって、クック英外相が一日、訪問先のシンガポールで「人権侵害の続くミャンマーの参加は認められない」と述べたことに対し、マハティール首相は、「ミャンマーへの差別はASEANへの差別だ。ミャンマーの参加が認められなければ、ASEANは首脳会議をボイコットすることになりかねない」と語った。
しかし、英国がミャンマーを拒否するだろうことは、ASEANにとっては織り込み済みで、インドネシアのアラタス外相は三日、「ASEMへの参加は国家単位のものであって、欧州連合(EU)との会合ではない」と指摘、先走るマレーシアにクギを差した。 続きを読む アジア通貨危機報道・15年目の真実─読売新聞・林田裕章記者の報道を振り返る

神への感謝とタイ舞踊

タイ舞踊は、約1000年前にクメール人によってインドから輸入されたとされる。タイ古典舞踊の80%は、ラマキェンというラーマーヤナから取材した内容とそれに付随した挿話である。
インドからもたらされた舞踊は、タイ王宮の保護を受け、タイ国民の温和な性格などに培われて、独自の舞踊として発展した。仏塔をイメージした金の冠をかぶり、絢爛豪華な衣装を身に着けて踊るタイ舞踊について、かつて榊原帰逸は、インドほど急調の強いものでもなく、中国のように喧噪なものでもなく、優雅な静けさを持ったものであるということができると指摘していた(榊原帰逸『アジアの舞踊』わせだ書房新社、1965年、133、140頁)。タイ舞踊では、タン(Tun)という親指だけをはなし、他の指を揃えてそらした形と、チープ(Cheep)という親指と人差指をつけ、他の3本をそらして1本1本離した形の2種を使い、体全体で意味を規定する。
「タイ舞踊」(秋元加代子タイ舞踊団)は、次のようにその宗教性を強調している。
「タイの舞踊は元来、神に感謝を表す儀式で踊りを捧げるのを目的として踊られてきました。タイの民衆は山や川、森などの自然界に宿る神々を信じ、神々を喜ばせるために踊ったり歌ったりしていたと言われています」(秋元加代子タイ舞踊団)

女神との交感とジャワ舞踊

ジャワの伝統舞踊は、マタラム王国の宮廷舞踊と密接に関わっている。王の即位記念日にしか見ることのできない秘儀として伝えられたブドヨ・クタワン(Bedoyo Ketawang)の神秘性は、「ニャイ・ロロ・キドゥル」の伝説と深く結びついている。
「ニャイ・ロロ・キドゥル」は、物質的富よりも精神的価値を追求して宮殿から追放された中部ジャワの王女デウィ・ラトナ・スウィディが、南海を護る女神となったもので、マタラム王国の初代の王、スノパティ(Senopati)王は、彼女から国家の危機を救う神秘的な力をもたらす舞踊として、ブドヨ・クタワンを伝授されたという。
ブドヨ・クタワンは、大編成のガムランをバックに、花嫁姿の9人の踊り手による神秘的な舞踊である。
王は踊り手の中央に座り、女神と交感したという。そして、女神の化身でもある9人の娘の中から側室を選んだ。戦前までは、この踊りの踊り子は幼時から王宮に隔離して育てられたともいう(『日本経済新聞』1992年7月6日付夕刊)。 続きを読む 女神との交感とジャワ舞踊

自然と儀式と音楽の関係

フィリピンの作曲家で、民族音楽学者のホセ・マセダ氏は、東南アジア音楽の特徴である「音の連続性の概念」と密接に関わる東南アジアの時間論について、次のように述べている。
「東南アジアの大部分では、一日の時間は時計の時間では測られない。太陽年は知られてはいるが、それは一年ずつ加算することはしない。惑星や恒星の動きとは別に、時間は鳥の渡りや、植物の開花、乾季の虫の声といった自然事象で測られる」(『ドローンとメロディー』新宿書房、1989年、14頁)
この自然事象で測られる時間概念こそ、リズムや反復の用法、音楽形式の長さやその終わり方、終止形に反映しているというのだ。つまり彼は、アジアにおける人間と自然の関係に注目しているのである。 続きを読む 自然と儀式と音楽の関係

「神と人間の交霊」としてのアジア舞踊

一口にアジアの舞踊といっても、極めて多様である。ジャワやバリのみならず、それぞれの地域で伝統的舞踊は様々な形で発展を遂げてきた。それでも、東南アジア、アジアの舞踊には、一つの重要な特徴が見られる。それは、神と人との交感の手段という側面にほかならない。
東南アジア史の権威アンソニー・リード氏は、「インドの影響がなかった地域でも舞踏は精霊や神々と交信し祭への参加を誘う手段であった。…ジャワの人間が王の前に出る場合またはそこを退出する場合、ブギス人が誓いを立てる場合、戦争が布告される場合、アモク(amok)をかける場合などには踊りが伴った。これらから見れば、舞踏はおそらく感情を高め、エネルギーを集中し、日ごろ劇場で表現されているような神々や精霊の力を身につける手段と見なされていたと考えられる」と指摘している(Anthony Reid著、平野秀秋・田中優子訳『大航海時代の東南アジア〈1〉貿易風の下で』法政大学出版局、平成14年、273頁)。 続きを読む 「神と人間の交霊」としてのアジア舞踊