「アジア的価値観」カテゴリーアーカイブ

『皇極経世書』で宇宙論的歴史観を展開した邵雍

 若林強斎先生の『雑話筆記』には、「易ノ先天の図も邵康節・朱子ノ手ヘワタツテコソ明ニラツ……」とある。
「邵康節」とは、北宋時代の儒学者、邵雍のこと。彼は李挺之から『易経』の河図洛書と先天象数の学を伝授された。先天象数とは、易卦の生変に関する学説に基づく次序や方位によって八卦、六十四卦を配した図。
邵雍は『皇極経世書』で壮大な宇宙論的歴史観を展開した。
なお、『皇極経世書』については川嶋孝周氏による『易學案内―皇極経世書の世界』がある。

「日満支の統一」は共通の原理で!─山田光遵『東洋国家倫理の原理と大系』

 山田光遵は昭和16年に刊行した『東洋国家倫理の原理と大系』(中文館)において、「興亜論」の一節を割いて、以下のように主張した。
 〈日満支三国が精神を同じうする事の為にはこの三国を通ずる精神の把握に先立つて、この三国を通ずる教の問題を考察せねばならぬ。精神は教から浸み出るものであるからである。日満支の文化の交流はすでに数千年の古に始まる所である。就中孔子教は支那をして支那たらしめたると共に日本をして日本たらしめた中枢的精神文化である事を思ふ時、日満支を通ずる精神を論ずるに当つて、先づ儒教に注目せねばならぬ。……然しながら現代我が国教学の中枢精神は儒教倫理そのまゝのものではなく、況んや全体主義の如き国家的利己主義ではなく、儒教倫理が中枢となりながら、而もそれが世界人類の不動の平和を目標とする所の八紘一宇の倫理にまで積極化、大乗化せられたものである事は刮目して見なければならぬ点であつて、アジヤの倫理は正にかゝる意味に於ける八紘一宇の倫理なる事を確信しなければならぬ。而してこの八紘一宇の同家倫理は結局興亜の原理として、日満支の統一原理として働くべきものであるが、それは各三国を離れた、或はそれらを超越してそれらを總括すると謂つたやうな原理ではなくて、各三国の内に内在し、それらを貫く枢軸であり、而もそれらに共通の原理たるべきでありて、彼の国際公法的な、外的強制的結合原理であつてはならぬのである。……即ち支那は支那として、満洲国は満洲国として、日本は日本として生々発展しつゝ而も一となつてアジヤ精神の中に活きて行かねば合体の意昧をなさぬのである。 続きを読む 「日満支の統一」は共通の原理で!─山田光遵『東洋国家倫理の原理と大系』

人類文明と儒家─杜維明の志

 杜維明については以前に「杜維明の思想」で言及したが、中村俊也氏は『新儒家論―杜維明研究』において、以下のように結論づけている。

 
 〈杜維明は、論著における結論として次のように述べる。それは、「共同して奮闘し、共同して価値を創造する」という観点の導く方向である。(三九五─一〇)
 「西洋文明が突出しているところは、まさしく、中国の伝統、儒家を以つて特色とする文明が有しないところにある。彼等の法律、個人主義、科学技術……これらはすべて、私達が学ばなければならない。しかし、百五十年以来、この文明は今度は私達の文化伝統となった。この文化伝統は、私達をして自己の伝統文化に対し断絶せしめた。(三九五─一一) 続きを読む 人類文明と儒家─杜維明の志

アジア的価値の現代的意義─黄心川氏の主張

 中国の思想家、黄心川氏は、アジア的価値観の意義について次のように説いている。
 〈東西の倫理観には集団意識と個人主義、家族本位と個人本位、内聖外王と自己完成、理想主義と現実主義、義を重んじ利を軽んじることと利のみを図る……等々の違いがある。
 東洋の倫理観は人間本位を重んじ、人間の活動を価値判断の基準とすることを強調するなどの特徴と、調和的な人間関係をもっているなどの長所を有している。しかし、専制主義であって民主的精神に欠けるという欠点もある。西洋の倫理観は現実と科学を重視し、実証性を強調するという特徴をもっているが、個人本位で、利のみを図るという欠点もある。
 東洋社会の改革と発展においては、西洋の倫理モデルを踏襲することはできないし、数千年の伝統的倫理観をそのまま保持するわけにもいかない。東洋の伝統的な倫理思想の集団意識、理想主義、調和的な人間関係を広げる基礎のうえに、西洋の倫理思想のなかの科学と現実を重んずるという長所を受け入れ、伝統的な倫理思想の家族本位や専制主義などの弊害を克服し、東洋社会の改革と発展をうながすことが必要である。このことはすでに世界の多くの学者たちの共通認識となっている〉(『東洋思想の現代的意義』(本間史訳、農山漁村文化協会刊)の「二 東洋哲学の起源と発展およびその現代的変容と社会的意義」)

東アジア共同体の真の意味

 アジアの歴史的伝統には普遍的な価値がある。このことを確認する上で、極めて示唆に富む指摘をしているのが、「東アジア共同体論の課題と展望」と題した小倉和夫氏の論稿である。ここで小倉氏は、次のように書いている。
「……現在別の新しいアジアという概念が必要となってきているのではないか。それは、人権や民主主義といった、いわゆる世界的ないし普遍的な価値の問題と関連している。こうした価値が西洋的なものではなく、むしろアジアの歴史的伝統のなかにすでに存在していたことを根拠だてるという意味で、アジアという概念が使われる時代に突入しているのである。
すなわち、世界的な、あるいは普遍的価値を生んできたと考えられている空間から、「西洋」という記号を剥奪する、そのための概念としてアジアという概念が登場しうる時代に突入している。言いかえれば、アジアこそがこれからの世界に、ある意味では人類普遍の価値観を普及させていく、ひとつの原動力となりうるのだというかたちのアジア論である。……こう考えると、東アジア共同体が機能的に成立しつつあり、東アジアにひとつの経済的な共同体が生まれていく方向が出てくるとすれば、その東アジア共同体は、東アジアの各々の国、あるいは東アジア共同体そのもののために存在するのではなく、国際社会、世界全体のために存在することになる。アジアが世界全体のために責任をはたしていく、そのための核として機能していくところに東アジア共同体の真の意味があるといえるのではなかろうか」
同論稿は、2010年6月に刊行された『平城遷都1300年記念出版 NARASIA 東アジア共同体? いまナラ本』に収録されている。

稲村公望「マハティールに見捨てられる日本」英訳

以下は、『月刊日本』2013年4月号に掲載された稲村公望先生のインタビュー記事「マハティールに見捨てられる日本」の全文英訳です。

The Japan That Dr. Mahathir Abandoned (?!)

INAMURA Kobo, Visiting Professor, Graduate School, Chuo University

(This is an excerpt from the April 2013 issue of Gekkan Nippon magazine.)

 

Japan, once the up-and-coming star for the countries of Asia

 

NIPPON: As someone who has struggled against neoliberalism, why is it that you have long taken note of the things that former Malaysian Prime Minister Dr. Mahathir has to say?

 

INAMURA: It’s because Dr. Mahathir’s words have included a strong message that can make we Japanese remember something important that we ourselves have forgotten.

Japanese society westernized after the war, and neoliberalism took hold with the end of the Cold War. As a result, the culture and civilization that the Japanese people themselves developed, along with the shape of the country supported by them, has been disappearing. Dr. Mahathir constantly offered words of encouragement: “Japanese, take pride in Japan’s traditional values!” “Use the power of Japanese civilization to develop the world!”

If I could speak without fear of being misunderstood, I would say that at one time Japan was like the big brother on which Malaysia could depend. In their younger days, it was a splendid older brother, and the younger brother learned many things. Once the older brother got his own household, however, he strayed from the path. His family didn’t have the power to stop it. The younger brother frantically cried out, “Brother, open your eyes!” The older brother should have quickly taken note of his younger brother’s strenuous cries.

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東洋思想と資本主義─金日坤『東アジアの経済発展と儒教文化』

 いよいよ強欲資本主義の限界が露呈されつつあるが、金日坤氏は『東アジアの経済発展と儒教文化』(1992年)において、次のように指摘していた。
 「人類は今、新しい経済体制のモデルを作っていかなければならない。これはおそらく、今まで制度外の条件として除外してきた、愛の動機、人間尊重、相助共生の原理を経済システムに内部化することによって可能になるだろうと思われる」
 「根源からの解決と接近の基本方向は、欲望の節制と心のコントロールを内部化した経済発展だと思われる。この基本方向は、今まで分離して認識されてきたココロとモノとを一体化し、すべての事柄においてその均衡化あるいは調和を保つことだといえる。簡単にいえば、近代化モデルではモノだけを重視し、儒教ではココロだけを重視していたのであるが、これを一体化し、経済では内部化して、両者の間に均衡、調和をもたらすことである」

許紀霖教授の「新天下主義」とは何か

 許紀霖教授の「新天下主義」とは何か。
 以下、『中央日報』2013年06月21日に掲載された「中国が主張する「新天下主義」…閉鎖性を警戒すべき」を転載する。

 〈アジア時代を迎え、国家主義的な限界を越えた普遍的な価値とは何だろうか。国際政治の冷厳な現実の中、アジアの価値をどのように制度化できるだろうか。
最近ソウル大アジア研究所が主催した「世界の中心アジア、普遍的価値を探して」という討論会で、専門家が公開論争を行った。アジアの普遍価値と実現案を集中模索した専門家の視線はやはり中国に向かった。
ソウル大人類学科の金光億(キム・グァンオク)名誉教授は「中国共産党の長期執権を通じた政治的安定の上で市場経済を接続するという“中国式モデル論”が西欧民主主義と資本主義に対する代案として、中国と西欧および周辺国の間の現実的な妥協原理として提示されてきた」とし「しかしこのモデルは依然として国家という枠の中に閉じ込められている」と指摘した。
白永瑞(ベク・ヨンソ)延世大史学科教授(国学研究院長)は中国を理解するキーワードに「帝国」と「儒教」を提示した。白教授は「(中国が)帝国でなく帝国主義になるのを警戒しなければならない」と強調した。帝国だが帝国主義ではないアジアの価値として、白教授は「新天下主義」に注目した。 続きを読む 許紀霖教授の「新天下主義」とは何か