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愛国交親社と杉田定一

 愛国交親社は、杉田定一とも関係を有していた。飯塚一幸氏は「自由党成立後の杉田定一」において、次のように書いている。
 〈杉田と林包明はすでに(明治一五年)一〇月中には東京を出ており、一一月二日か三日には四日市から汽船に投じて三河国碧海郡上重原村の内藤魯一の許へと向かっていたのである。内藤は杉田・林よりも早く帰郷しており、その後の東京の模様について杉田・林より詳しく聞き取り打合せを行ったものと推察される。この路程で杉田は尾張の庄林一正にも会談した。杉田は、庄林が中心となって急激に農民の組織化に成功しつつあった愛国交親社に強い関心を抱き、同社社則の提供を依頼した。明治一五年七月、愛国交親社は指導組織の改編を行い、郡ごとに幹事長・副幹事長各一名の他、書記・出納係・剣術取締・機械係などを任命し、その下部組織として社員五〇名ごとに「組」を編成して幹事・同補助を置き、さらにその下部に末端組織として社員一〇名ごとに「伍」を編成して伍長を任命した。庄林は、恐らくこの際の改正社則を、杉田の依頼に応じて一一月二七日付の書簡に同封して送っている。残念ながら杉田定一関係文書中には社則は見当からないが、同年九月の「愛国交親社行列之図」が残されている。杉田は、南越自由党の発展を策すに当たり、愛国交親社の経験を何らかの形で生かそうと考えたのではないか。また、杉田と内藤魯一・庄林一正との接触は、板垣洋行問題後の自由党の会議において話題となった、愛知県での実力行使と関連性があるのかも知れない」

玄洋社路線を主導した庄林一正

 愛国交親社には、当初から玄洋社路線に接近する思想的萌芽があった。それを主導していたのが、庄林一正である。
 長谷川昇氏は「変革期における庶民エネルギーの源泉─博徒─草莽隊─『愛国交親社』の系譜に探る─」(『思想』1979年9月号)において、『岐阜日日新聞』の記事に基づいて、愛国交親社の性格を次のように整理する。
 〈一、この組織は、その「社則」に定められている如く「政談演舌会」や「其の筋への建言」を目的とする明らかな「政治結社」であった。
 二、しかし、この組織は実際には「政談演舌会」などを通じて理論的に庶民を組織化してゆくのではなくて「社則」にも定められていない〝撃剣指導〟を通じて村毎に道場を設けることによって驚異的な組織率(例えば東春日井郡の村々では金戸数の六〇─七〇%の参加数を示す)をあげていく。
 三、この組織は、「大野仕合」・「撃剣大会」・「社長の上京送迎」などの際に大規模(数千人に及ぶ)な大衆動員を行い、社号の入った高張提灯を先頭に一種の示戚行進のようなことを挙行する。
 四、この組織は、社長直属の本部幹部の他に、各郡毎に郡幹事長・副幹事長及び剣術取締・同補助・機械係などを置き、更に各村毎に幹事(百人頭)・幹事補(五〇人頭)及び剣術取締・機械係などを任命し、末端組織は一〇名毎に伍に組織されて伍長(一〇人頭)を置くという、「講」もしくは「細胞」に類する様な組織に編成されている。そして役職に任ぜられた者にはその末端に至るまで、大げさな「辞令」が発行されている。
 五、この組織に民衆を加盟させるための「組織者」(これは、本部直属の者、又は郡幹事長に付属する者で弁の達者な者が当てられた)は、次の様な言葉を並べて農民を説得して歩いた。そしてこの「組織者」の説く処が、とりもなおさず「愛国交親社」の主義・主張を表示するものとなっている。新聞の報ずるところによればそれは次の様なものである(いずれも「岐阜日日新聞」より引用)。
 a、「我社に加入する者は何人に限らず其筋より二人扶持の俸米を宛はれ、尚腕力ある者には帯刀を許さるべし」
 b、「明治二十三年に至らば、我政府は国会を開設せられ、社会の財産は一般人民の頭数に平等に分賦せらるれば、此の時に及びては愛国交親社員たるもの苗字帯刀御免となり加ふるに八石二人口を賜る」
 c、「本社に入れば徴兵を免ぜられ、……但しは士族に取立てられる」
 d、「我政府は明治二十三年後は必ず外国と戦争を開く事あるべし、故に我々は今日よりあらかじめ戦争の準備をなさゞる可らすぜとて頻りに撃剣をなし、……又此程発布になりし商標条例は……如何にも苛酷の収歛なれば……我々愛国交親社たるものは必ず……此条例を廃止する様嘆願する〉

 長谷川氏が注目するのは、内藤魯一と庄林一正の路線の違いである。長谷川氏は「愛国交親社創立趣意書」が内藤魯一を領袖とする「三河交親社」の趣意書と末尾の数行を除いて同文のものだと指摘した上で、次のように書いている。
 〈筆者の内藤が民権政社たる性格を方向づけるために最も力を込めて書いたと思われる「開明文化ノ実ヲ挙ゲ……人民所有ノ権理(利)ヲ伸張シ、一身一家ノ幸福ヲ保チ」という一節を、庄林一正は自らの筆で故意に抹殺して、「欧米強国ト対峙シ、国権ヲ挽回スルノ外他志アラザルナリ、夫レ苟モ我国ノ衣ヲ衣、我国ノ食を食スル者ニシテ誰カ斯ノ志ヲ同クセザル者アランヤ」と書き換えている。これは明らかに〝西欧型自由・平等思想〟への抵抗の姿勢を示している。庄林はのちに「愛親社」(明治二十一年に結成された「愛国交親社」の後身)を率いて、頭山満の「玄洋社」・遠藤秀景の「盈進社」と共に対外硬の路線を明確にしてゆく。その右傾化の道を辿る原点はすでに「愛国交親社」の中に用意されていたのである〉

坪内家と愛国交親社①

 『各務原市史 通史篇 近世・近代・現代』(322、323頁)には、自由民権運動と坪内家の関わりを示す資料(少林寺文書の中にある「本国・加州富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒」)が引かれている。

〈一 同十三庚申 旧二月廿六日 新四月五日、尾州愛国交親社ニ入社、其後美濃幹事長也、社員凡二千五百人ナリ、同十七甲申 旧二月三日 新二月廿九日 ヨリ本部尾州愛知郡名古屋社長庄林一正自由党ト喧嘩一件ニ付名古屋裁判所ニ呼出シ、後トケイ(徒刑)人ト成ル、又 旧閏五月廿七日 新七月十八日、名古屋警察署ヨリ廃止ニ相成候本社愛国交親社ヨリ 旧閏五月廿九日 新七月廿日 到着、尤即刻出ナリ、美濃国厚見郡加納町六町目[ママ]浄土宗西方寺ニ於テ取締所明治十四辛巳年 旧五月廿五日 新六月廿一日 初会日也、尤三日以前ニ御届済也、毎月届跡ニテ撃剣也、毎月新暦一日十一日ハ撃剣計リ也、是ハ初ニ届置申候テ一々不届也
同年 旧九月卅日 新十二月廿一日 迄ニテ、翌月ヨリ岐阜誓安寺エ転ズ、尤門前ニ大看板立ツ、愛国交親社ト書ス、□五尺五六寸 巾一尺二三寸位ナリ
同年 旧十月廿日 新十二月十五日ヨリ岐阜桜町 稲葉ナリ 壱番地浄土宗西山派誓安寺、俗ニ藤ノ寺ト云、今日ヨリ愛国交親社支店集会ノ始メ也、毎十五日跡ニテ剣術有之、毎月三日前ニ御届、表ニ高張大挑灯[ママ]交親社四半幟立、毎月五日廿五日ハ撃剣計リ、是ハ初ニ一度届置也
同十五壬午年 旧五月廿三日 新七月八日 端書ニテ岐阜警察署ヨリ村戸長ヨリ相違ス 旧五月廿九日付 新七月四日付 来ル六日午前第八時出頭之趣キ也、高国三州留守ニ付、帰邑後 旧五月廿三日 新七月八日 岐阜稲葉入口、北門警察署ニ出頭、柴田正直ニ面会、今般集会条例改正追加布告ニ付、条例ニ触ル廉往々有之候間、岐阜支社ノ儀、今明両日ノ中ニ解散取払可申上旨御受申上候也、前顕交親社之廃止ハ明治十七甲申年 旧閏五月廿日 新七月十二日 美濃組社中監督伊藤初治郎、東美濃ニ於テ暴動ノ叛デ在風聞、依テ新加納村交番所エ届、翌日名古屋エモ届ル、本社附東ミノニ魁首有之由右ニ付廃止ナリ、届ク捕縛ニ成ル、未ダ暴動ニハ不相成、併押カリ等アル由是本社ニ背キタル也〉

【書評】里見岸雄博士『天皇とプロレタリア』

 展転社から里見岸雄博士の『天皇とプロレタリア』が普及版として復刻された。『月刊日本』平成30年7月号に掲載した書評を紹介する。
 〈安倍政権が推進する新自由主義とグローバリスムによって、ますます貧困と格差が拡大しつつある。ところが、いわゆる保守派の多くはこの問題に沈黙している。本書は、そうした保守派に対する鋭い批判の書として読むこともできる。
 資本家の横暴に対する「無産階級」の反発が強まり、やがて昭和維新運動の台頭を迎える昭和4年に刊行された本書は、国体の真髄を理解しない為政者や「観念的国体論者」に強烈な批判を浴びせている。〉(後略)

明治政府の警戒感を高めた初岡敬二

 木戸孝允は、すでに明治二(一九六九)年九月時点で、古松簡二、河上彦斎、大橋照寿、初岡敬二の四人に対する警戒感を高めていた。
 初岡は秋田藩勤皇派の代表的人物であり、幕末から活動、藩校明徳館の本教授を務めた。戊辰戦争で苦戦する中で上京し、公務人として政府出兵のため強力な要請運動を行った。
 明治二年七月初め、初岡は招魂社大祭にキリストを踏みつけている武者像の大幟を秋田藩から献納しようとした。幟には「天涯烈士皆垂涙、地下強魂定嚼臍」と書かれていた。しかし、軍務局から献納を却下されている。
 九月になると、初岡は「奸可斬、夷可払」とうたいながら剣舞するという事件を起こした。いわゆる「剣舞事件」である。ここで言う「奸」とは、木戸孝允、大村益次郎、後藤象二郎を指したものと解釈されたのである。実際、同月大村は暗殺されている。
 宮地正人氏は、次のように書いている。
 〈このような対立は月が進むにつれてより深刻なものとなり、ますます維新政府の権力基盤を不安定化させてゆく。「集議院廃セラレザレドモ、公議人ハ皆帰休ヲ命ゼラレタル由、弁官ニテ議ヲ発スレバ集院之ヲ討テ非トシ、集議院建白スレバ弁官害アリトシテ不行、毎事ニ途ニナリテ不一揆、政事是ガ為ニ壅滞シ、両党相争ノ姿アリ、不可両立勢也卜云」と、一八七〇年一月段階では受けとめられるようになる。まさに「両党相争」の事態である。これが同年九月段階にいたると、権力基盤の不安定化は極限状態に達する。同月一〇日集議院が閉会、その後の見込が立たなくなるのである〉

中沼了三から十津川郷士への通信─洋癖批判

 宮地正人氏の「廃藩置県の政治過程」によると、明治二(一八六九)年六月十日、十津川郷士に以下のような通信があったという。
 「朝廷ニハ追々御変革ニて、議院は頗る正論、屹度国家ノ柱礎と相成申侯、洋癖は大ニ折れ侯……段々有志ノ者ニも沸騰ニ付、驕奢ノ体は大ニ相折れ」
 洋癖と驕奢に対する批判の高まりを示すものである。
 これを書いたのは、崎門学派の中沼了三らしいと見られている。中沼は、明治四年には明治政府から排除される。

森田節斎撰「小楠公髻塚碑」

 楠木正行(小楠公)は、父正成(大楠公)との桜井での決別の後、父の遺志をついで、南朝の復興につくしたが、四条畷の戦いで、一族郎党百四十三人とともに討ち死にした。
 小楠公らが出陣に先立ち如意輪寺に奉納した髻(もとどり)は、その後、御陵の西方の小高き所に埋めて石の五輪塔を建て、霊をまつった。安政4(1857)年、この五輪塔を廃して碑を建て、上方に「正行公埋髻墳」、下方に「精忠兼至孝至節在天聞五百年前月今仍照髻墳 芳山司職免堂撰」と刻した。
 慶応元(1865)年、髻塚に対して、正成の18世の子孫にあたる津田正臣によって「小楠公髻塚碑」が建てられた。碑の選文をしたのが、森田節斎であった。

小楠公髻塚碑文
 正平3年正月車駕吉野に在り、賊将高師直大挙来り冠す。楠左衛門尉其の族党百四十三人と行宮に詣で、陛辞し畢り、後醍醐帝陵に拝訣し、如意輪寺に入り各髻を截り、姓名を壁に題す。然して後、進み戦うて克たず、皆之に死す。今茲に乙丑の秋、益(註節斎の名)備中より郷に帰り、将に談山に登り遂に芳山に遊ばんとす。会 津田正臣石を建て以て左衛門尉の髻塚を表せんと欲し、来りて文を益に請う。益曰く、余旦に二山に遊ばんとす。子姑く之を待てと。己にして談山に登り藤原大織冠の廟に謁す。規模の宏敞殿宇の壮麗人をして敬を起さしむ。芳山に登るに及んで首めて某所謂髻をうずめし処を問えば、蔓草寒烟の中に在って過る者或は知らざるなり。是に於て益低徊去る能わず潜然泣下して曰く、左衛門尉と大織冠とは皆王朝のじん臣なり。而して大織冠は大熟を一撃に斃し天日を将に墜ちんとするに回し、位人臣を極め子孫蔓行し百世に廟食す。左衛門尉は即ち賊を討ちて克たず、身を以て難に殉ず。南風競わず宗族殆ど尽く。今其遺跡を求めんと欲してにわかに得べからず。嗚呼何ぞ其幸不幸の異なるやと。巳にして益涙を拭いて為へらく。其幸不幸異なると雖も、其功未だ嘗て同じからずんばあらざるなり。夫れ大織冠回天の績は偉なり。然るに之を左衛門尉父子の大節と比するに、彪炳日月と並び懸り、綱常を無窮に存ずる者未だ其のいずれが愈されるを知らず。故に曰く、其幸不幸異なると雖も其功未だ嘗て同じからずんばあらざる也と。益既に帰る。正臣復来り促す乃ち前言を挙げて之に告ぐ。且つ曰く、方今夷猖蕨九重宵肝士力を国家に効すの秋なり。事成らば即ち大織冠と為りて百世に廟食し、成らずんば則ち左衛門尉となりて節に死し名を竹帛に垂る。豈に大丈夫平日の志願に非らずやと。正臣躍然起て曰く、是以て左衛門尉髻塚を表すべしと。遂に書し以て之に与う。正臣字は仲相監物と称す。世々紀藩に仕え、楠中将十八世の裔と言う。
 慶応紀元冬十月大和処士森田益撰 伊勢三井高敏書

大久保利通らにとって不可欠だった神祇官再興・祭政一致の思想

 明治維新が成ったときから、天皇親政の國體恢復を願う純粋勤皇派と、権力の奪取・維持を最優先する者たちとの間には隔たりがあった。神祇官再興や祭政一致についての考え方においても、両者は異なる考え方を抱いていたのではなかろうか。
 安丸良夫氏は『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)において、次のように書いている。
 〈岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正統化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけだった。小御所会議で、「幼冲ノ天子ヲ擁シテ……」と、急転回する事態の陰謀性をついて迫る山内容堂に、「聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ。今日ノ挙ハ悉ク宸断ニ出ヅ。妄ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ窃取セントノ言ヲ作ス、何ゾ其レ亡礼ノ甚シキヤ」(『岩倉公実記』)と一喝した岩倉は、こうした立場を集約的に表現したといえる。
 神祇官再興や祭政一致の思想は、こうして登場してきた神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギーだったから、その意味では、この時期の岩倉や大久保にとって不可欠のものだった。しかし、冷徹な現実政治家である岩倉や大久保と、神道復古の幻想に心を奪われた国学者や神道家たちとのあいだには、神祇官再興や祭政一致になにを賭けるかについて、じっさいには越えることのできない断絶があったはずである。このことを長い眼で見れば、神祇官再興や祭政一致のイデオロギーは、政治的にもちこまれたものなのだから、将来いつか政治的に排除される日がくるかもしれないと予測することもできよう〉

高山彦九郎の精神と久留米藩難事件

平成30年4月15日、同志ととともに久留米城跡に聳え立つ「西海忠士之碑」にお参りした。
 
碑文は、真木和泉のみならず、明治4年の久留米藩難事件に連座した小河真文、古松簡二らを称えている。
 碑文の現代語訳は以下の通りである。
「明治維新の際、王事に尽くし国のために死んだ筑後の人物は、真木和泉・水野正名のような古い活動家をはじめ小河真文・古松簡二など、数えれば数十名をくだらない。
 これらの履歴については伝記に詳しく述べられており、ある者は刃の下に生命をおとし、あるいは囚われの身となって獄死するなど、それぞれ境遇・行動は違っていても、家や身を顧みないで一途に国家へ奉仕した忠誠心においては変りなかった。だからこそ、一時は政論の相違から明治政府に対抗して罪を得た者も、今では大赦の恩典に浴し、その中でも特別に国家に功績のあった者は祭祀料を下賜され、贈位の栄誉をうけている。このような賞罰に関する朝廷の明白な処置に対しては国中の者がこぞって服し、ますます尊王の風を慕うようになっている。まことに国運が盛大をきわめるのも当然のことである。
 こんにち朝廷では国民に忠義の道を勧められているが、この趣旨をよく体得すれば、国民として何か一つなりとも永遠に残る事業をなさねばならない。しかもわれわれにとっては、勤王に殉じた人びとは早くから`師として仰いだ友であり、またかっては志を同じくして事にあたった仲間である。いまここに彼等を表彰してこれからの若い人への励ましとすることは、たんに世を去った者と生存している者とが相酬い合うというたけでなく,国家に報いる一端ともなるものである。
 このような意味から、場所を篠山城趾にえらび、神社の傍に碑石を建て、有栖川熾仁親王から賜わった「西海忠士」の大書をこれに刻記した。思うに、この語句は先の孝明天皇の詔勅の文からとられたものであろう。世冊この碑を見るものは、おそらく誰でも身を国に捧げようという感奮の念にかられることであろう。昔、高山彦九郎は、九州方面で同志を募るためにしばしば筑後を訪れ、久留米の森嘉善ともっとも親密な仲となり、ついに彼の家で自殺する結果となった。これはまったく、二人が勤王の同志として許し合う間柄であったからである。このために二人を併せて追加表彰することにしたが、これによって筑後の勤王運動の源泉が遠い時期に在ったことを知るべきである。
    明治25年10月      内藤新吾識」

 
 碑文が、時代を遡って高山彦九郎のことに言及していること(*抜粋意訳には抜けている)が、極めて重要だと考えられる。
 明治2年に、久留米遍照院で有馬孝三郎、有馬大助、堀江七五郎、小河真文、古松簡二、加藤御楯らが、高山彦九郎祭を行った事実を考えるとき、彦九郎の志が久留米藩難事件関係者に継承されていた事実の重みが一層増してくる。

日本の歴史を棄てた明治政府

 平泉澄先生は「日本精神について(下)」(『日本』平成十八年正月号所収、二~三頁)において、次のように述べている。
 〈明治五年に教育制度が発動されてをります。驚くべきことに明治五年の学制には日本の歴史を教授するといふことが出てをらない。一国の教育がその国の歴史を無視してなされるといふことは実に驚くべきことであります。
 これは明治元年の大精神には断じてないことであります。明治元年の大精神が四、五年ですっかり崩れてをります。明治維新の精神はその時は日本の古典を用んとして、一方に支那の漢籍、一方に西洋の学問、それを両翼として進まうといふことを新定学制に示されてをります。
 実に偉い精神でありますが、これは間もなく崩れて、明治五年の学制においては日本の歴史は教育から棄てられてしまった。その後小学校においてその非を悟って、国史を加へましたのは明治十四年のことであります。十四年に初めて日本の初等教育に日本歴史が入って来たのであります。これは明治天皇の特別の御注意を戴いて出来たことださうであります。
 しかしそれ以上の学校においては、まだ日本歴史は加へてをりませぬ。中等以上の学校においてはバーレーの「萬国史」が用ひられてをりました。その後高等の学校に初めて日本歴史が入って来たのは明治十六年であります。これはドイツ語の先生のグルートといふ人が注意をしたので、初めて国史が入って来た。ただし大学にはまだ国史は出てをりませぬ。大学において国史、日本歴史が一科として立てましたのは明治二十一年になります。
 さうしてその翌二十二年に国史科が新設されてをります。この時に渡邊総長の意を受けて色々案を立て、これを実施する上において努力しましたのがドクトル・リースの力であります。その時までは国語を棄てようとしたほどでありますから、日本歴史を棄ててしまって、外国人から注意されなければ日本の歴史は閑却してしまってゐた〉