副島種臣と佐賀開進会

 副島種臣は、明治十四年十月に設立された佐賀開進会とも関わりを持っていた。
 同会は、士族反乱の系譜をひく憂国党、国権論を重視する共同社、米倉経夫らの民権派の三派が合流して設立された。
 その主義書は次のように謳っている。
 「我輩ハ開進党ナリ、蒙昧ヲ開キテ善良ニ進ムナリ、凡事漸ニスベキアリ急ニスベキアリ一途ニ拘ベカラズ、漸ニスベキトキハ則漸ニスルヲ以テ漸進党ト謂レテモ可ナラン、風俗教化ノ如キハ漸ヲ以テ成ルモノナリ、更革ノ際ハ急激ニスルコトモアルベシ、急進過激党ト謂レテモ不可ナラズ、尚モ小民社約ノ困難ハ解カシメンコトヲ要ス、此小民ナルモノハ後ガ後程多クナルモノナリ、今ヨリ後人口繁桁セバ土ニ開クベキノ資ナクシテ而食ヲ仰グノ取ルベキナケン、此時ニ当テ流離顛沛ヲ余所目ニ視流スハ人類同儕ノ意ニ非ズ、夫人生ルヽ時ヨリ国民ノ名ヲ被ラザルハナシ、宜ク亦撰挙被撰挙ノ権ヲ有スベキナリ、此理ヲ以テセバ社会党ナリ、我国アリテヨリ君父アリ、栄貴ノ二字ヲ君父ニ譲ルゾ忠孝ノ本意ナレ、斯クテハ王党トアルモ何ノ不可カ之有ン、道義ヲ以テ起チ道義ヲ以テ処ル、我道義ハ天ノ賦スル侭ノ自由ナリ、仁ニ当テハ師ニサヘモ譲ラズ純然タル自由党ナリ、此数党備テ而後ニ開進党ナリ、偏言偏行ハ完璧ニ非ルナリ、且我輩之ヲ観ル王者党ナシ決ヲ多類ニ取ル、苟も此義ヲ推セバ天下ノ公道成ル」
 この主義書は、副島が口述したものを筆記したものである。また、米倉の日記からは、米倉のグループと副島の関係の深さが窺える。
 同会が設立された当時、副島は北海道開拓使官有物払下げ事件に憤慨し、同会メンバーを糾合しようとしていたのである。

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