徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より

●「幕義に従っては叡慮に反する」
 嘉永六(一八五三)年六月のペリー来航からまもなく、慶勝は斉昭へ宛てた書簡で、異国船の即時打ち払いを主張した。
 しかし、翌七月に慶勝が幕府の諮問に応じて提出した建白書では、アメリカの要求に対しては、手荒な対応は避け、信義を正してほどよく断るべきだとの考えを示した。ただし、万一アメリカが承服せず、攻め寄せてきた場合には、国力を尽くして一戦を交えることも致し方ないとした。また、「ご決着」は「天朝」へ奏達した上でなされるべきだと説いた。
 斉昭は、安政元(一八五四)年三月十日、海岸防禦筋御用を辞任した。慶勝が江戸城へ登城し、老中阿部正弘をはじめとする幕閣に面会し、詰問状を突き付けたのは、その直後の四月一日のことであった。慶勝は、外国勢力に対する幕府の弱腰を痛烈に批判し、斉昭の登用を強く要求した。ところが、幕閣たちは慶勝の要求を受け入れようとはしない。そこで、慶勝は同月十一日、十五日と立て続けに登城し、幕閣を繰り返し詰問した。
 これに対して、幕府は、慶勝の幕閣への謁見謝絶、外様諸大名への面会遠慮を命じる内諭を報いた。これに対して、慶勝と幕閣の間を取り持ってきた若年寄の遠藤胤統(たねのり、慶勝の父方の叔父遠藤胤昌の養父)は、正論とはいえ「御激論」は避けるべきであり、自身が尾張藩の正統(生え抜き)ではないことを自覚すべきだと慶勝をたしなめた(「嘉永・安政期の尾張藩」)。
 同年七月、慶勝は国元に戻り藩政改革に取り組もうとした。そこで早期の帰国を幕府に願い出た。ところが、幕府はこれを認めず、慶勝は翌安政二年三月に帰国した。

 安政三年七月には、アメリカ総領事ハリスが、日米和親条約に基づいて下田に駐在を開始した。そして、翌四年七月二十四日、ハリスは、通商条約締結を目指した交渉のため、江戸参府を御三家に内達した。これに対して、慶勝は斉昭の長男・水戸慶篤とともに反対を表明した。しかし、こうした反対論にもかかわらず、ハリスは同年十月に江戸城に登城して将軍家定に謁見し、大統領親書を上呈した。
 翌安政五年二月、老中堀田正睦が条約勅許を奏請するために上洛した。同時に、幕府は通商条約締結について諸大名に意見を求めた。慶勝は腹心の間嶋万次郎(冬道)と尾崎八右衛門(忠征)を京都に派遣し、朝廷の内情を探ろうとした。その上で、慶勝は竹腰正富に対して、交易拒絶を主張した。それは、慶勝が、当初は限定的な交易にとどまるとしても、「夷狄」は増長して、徐々に「蚕食」し、「姦商」を手なずけて、日本の国勢を傾けることは造作もないと考えたからである。
 こうした中で、安政五年三月十六日、松平慶永は側近の中根雪江とともに、慶勝を説得したが、うまくいかなかった。慶永は四月三日、再び慶勝を説得しようしたが、慶勝は「天朝とは君臣の義があり、幕府とは父子の親がある。国家艱難のときには君臣の義に立つべきであり、幕義に従っては叡慮に反する」と主張した(『昨夢紀事』)。
 彦根藩主井伊直弼が同月二十三日に大老に就任すると、事態は動いた。六月十九日、幕府は勅許が得られないまま、日米修好通商条約に調印したのである。同月二十二日、幕府はこの事実を諸大名に公表した。その二日後の二十四日、慶勝は斉昭、慶篤ととともに江戸城へ登城して大老・老中と面会、無勅許調印を責めた。

●井伊直弼による尊攘派弾圧
 しかし、慶勝らは大きな代償を払わねばならなかった。七月五日、幕府は慶勝に隠居謹慎を、斉昭に駒込屋敷への急度慎を、そして慶篤に当分登城停止を命じたのである。翌六日には、慶勝の異母弟で高須松平家当主の茂徳(もちなが)が尾張徳川家を相続することが決まった。
 七月二十一日、明倫堂督学の阿部伯孝(清兵衛)、同教授次座の植松茂岳、清州代官の茜部伊藤吾(相嘉)、木曽材木奉行の間嶋万次郎ら三十七名が連署で、慶勝の無事を熱田宮に祈願している。木村慎平氏によると、阿部、植松、茜部、間嶋は、安政元年から植松を中心に進められた六国史校合事業の中心メンバーだった。さらに八月には、清須宿本陣・林惣兵衛以下六十五名の領民たちが、慶勝の謹慎解除を求める嘆願書を、清須代官の茜部に提出した。
 この時、梅田雲浜ら尊攘派志士は、幕府が勅許なく日米修好通商条約に調印したことに対する反発を強めていた。そして、八月七日の御前会議において、日米修好通商条約を調印しそれを事後報告したことへの批判と、御三家および諸藩が幕府に協力して公武合体の実を成し、外国の侮りを受けないようにすべきとの命令を含む勅諚が降されることが決まったのである(「戊午の密勅」)。朝廷から、幕府に対してだけではなく、水戸藩に対して直接渡されたことに大きな意義がある。これに強い危機感を抱いた井伊は、弾圧に乗り出した。九月七日には、安政の大獄の最初の逮捕者として雲浜が捕まった。
 慶勝派に対する弾圧も、この安政の大獄と連動していたのである。慶勝派とみなされた藩士たちは次々と排斥されていった。同年十一月には茜部伊藤吾が勤向御免となった。翌安政六年九月には、長谷川敬(差控)、田宮如雲(永蟄居)、阿部清兵衛(隠居逼塞)、植松茂岳(急度慎)、尾崎八右衛門(隠居逼塞)、近松矩弘(差控)、間嶋万次郎(隠居逼塞)が処分された。

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