東南アジア料理論⑭

スパイス

カレーの起源(14日目)

かつては、インドにはカレー粉というものはなかった。それぞれの志向に合わせて自分でスパイスを調合するのが常識だったからである。カプシカムというトウガラシの一種をはじめ、ジンジャー、ブラックペパー、コリアンダー、カルダモン、シナモン、クローブ、ターメリック、サフラン、タイム、オレンジピール、マージョラム、クミン、フェンネル、ナツメグ、クミンシード、カンゾー、ガーリック、メース、ケシの実――など。ざっと二十種類のスパイスを自分でまぜて作るのが、カレー本来の姿である。 
辛味はトウガラシ、ジンジャー、ブラックペパー、香りはコリアンダー、カルダモン、シナモン、クローブ、クミンなどによる。特に、クミンの若干の苦みを伴う強い芳香はカレーには欠かせない。
ところが、インドでも十年近く前から、既製品のカレー・スパイスパックが利用されるようになっているという。その傾向は、ニューデリー、ボンベイなどの大都市で顕著だ。共働き、核家族化が進み、料理に時間をかけられない女性が増え始めたからである。
さて、既成のカレー粉を使うにしろ、自分で調合するにしろ、いわゆるカレーの色を出すには、熱帯アジア原産のショウガ科の多年草植物、ターメリックが必要になる。
このターメリックは、特別な宗教的意味を持っているとされる。ヒンドゥー教徒たちが、お祈りのときに顔にターメリックをつけことは、インドを旅したことのある者には珍しい光景ではあるまい。額につける黄印は、「ポットゥ」とか「ティカ」と呼ばれる吉祥の印である。ターメリックの物語は、インド文明の黎明期にまでさかのぼらねばならないのだ。その色が金色の太陽光線と似ているところから、アーリア民族の太陽崇拝と結びつき、神聖な植物として、宗教儀礼用に用いられわけである。
同時に、ターメリックにはもともと多様な医学的効用があると考えられてきたのである。いまでは、止血剤、健胃、皮膚病、食欲増進、鼻血止め、切傷の塗り薬――など様々な効用が指摘されている。インドの伝統医学「アーユルヴェーダ」においても、中国の漢方においても、ターメリックは特に重視されてきた。ここでも我々は、食と宗教の医療の深い結びつきを見る。
驚くことに、近年ではターメリックの中の黄色色素であるクルクミンが、がん予防食品として注目されている。名古屋大農学部の大沢俊彦教授は「最初に動物実験で、マウスの皮膚にクルクミンを塗ると皮膚がんの予防になることが分かったのです。その後、大腸がんに対しても予防効果があることが発見されています」と語っている。
九五年には、台湾大学病院がターメリックを使ったがん治療法の臨床試験について当局から許可を得たとして、実際に試験を始めることを明らかにしている。すでに、インド、アメリカ、ハンガリーの医師らがターメリックを使ったがんの治療法の研究をしているが、臨床試験を行うのは初めてのことである。
かように特別な医学的効用が実証され、神聖な植物とされてきたターメリックが料理に用いられるようになったのは、しごく当然ともいえるだろう。
ところで、カレーの語源については、汁またはスープを意味するタミール語から転じたという説とともに、香り高いとか、おいしいを意味するヒンズー語タリカリーから出たとの説もあって、不明な点がなお多いが、通常カレーは、アジア原産のスパイスと南米産のトウガラシが出会うことによって誕生した複合スパイスだと定義されている。こう定義すれば、カレーの誕生はインドにトウガラシがもたらされた十七世紀以降の話となる。
だが、あくまでこれは狭義のカレーである。「カレー」を構成する辛味、香り、色を持つ食べ物(広義のカレー)ということなら、もっと古くからあると考えていい。
寺島昇・貴子両氏は、中国の古い文献などにもあたり、綿密な調査を経た上で、「ウコン(ターメリック=筆者)がカレーの要素として用いられたかどうかについては確証がないものの、ウコンの使用じたいが古く遡るので、おそらく料理にも用いられたと考えてよいであろう」と書いている。そして、両氏は「香辛料の組み合わせによって味つけする『カレー』なるものの成立は、紀元前の十世紀くらいまでの間ということになろうか」と結論づけている(『カレー、醤油』(日本放送出版))。
ただ、両氏も指摘している通り、インドにおけるカレーの誕生は、東南アジアの多様なスパイスなくしては起こり得なかった。
「スパイスの目的と歴史」で書いた通り、東南アジアのスパイスが遠く西方にもたらされる際、インドが経由されていた。当然、インドの料理にも古くから東南アジアのスパイスが用いられたはずである。
トウガラシとターメリックに劣らず、東南アジアの多様なスパイスこそがカレー成立を支えているわけで、東南アジアでもインドと同じようにカレー的な食べ物の歴史は古いと考える方が自然だろう。特にタイでは、独自のカレー文化が育った。タイではカレーのことを「ケーン」(ゲン)と言い、ターメリックを入れたカレーとしてケーン・カリーがある。これは、イエロー・カレーと呼ばれているが、これ以外にタイには二種類のカレーがある。
グリーン・カレーとして知られるケーン・キャオワンとレッド・カレーとして知られるケーン・ペッである。前者は、小さくて激辛の緑トウガラシ「プリッキーヌー」を使い、後者は赤トウガラシをベースにしている。ターメリックよりも、むしろトウガラシ依存型のカレーである。
ただし、タイのカレーの味は奥が深い。スパイスだけでは成り立たない。味を整える際には、やはりナンプラが必要だし、独特の酸味やまろやかさを演出するために必要な食材が別にある。これらについて、以下の章でふれていく。

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