『月刊日本』の連載「明日のサムライたちへ⑧ 我々自身が異民族支配に抵抗するために」(平成25年3月号)で書いた通り、浅見絅斎の『靖献遺言』謝枋得の章後半には、南宋滅亡に至る、南宋と金との交渉過程が描かれている。
ツングース系の女真族を統一した阿骨打が、中国北部に金を建国したのは一一一五年のことだった。そして一一二六年、宋は「靖康の変」で金に敗れて華北を失い、都を臨安(杭州)に移す。これ以降が南宋の時代である。
南宋では金との戦争を継続して失地を回復しようと主張する主戦派と、戦争を停止しようと主張する講和派とが対立していた。一一三〇年に金から還った秦檜は講和を唱える。これに対して、一一三五年二月には、主戦派の張浚が宰相に就く。しかし、一一三七年九月に失脚し、国論は講和に傾いていく。一一四二年には、淮河を国境とし、宋から歳貢として銀・絹を金に納めるという屈辱的な購和を結ぶに至る。これ以後、南宋の政権は専ら秦檜一人の手に握られ、一一五五年檜が死んでからも、そのグループによって政治が行われたため、和平の方針は変らなかった。
朱子は、北宋滅亡直後に生まれ、南宋の屈辱の時代に青年期を送り、主戦論を唱えるようになった。浅見絅斎は『戊午讜議の序』にある次のような朱子の言葉を引いている。
「正論を抑えて檜に迎合した人々は、その縁によって急に高官に登り、なかには檜についで政権を握った湯思退のごときものもあり、かくして君臣・父子の間の道義、即ち天地の道理であり人たるの根本であるものは、朝臣の間にこれを知ったものなき有様となり…今日、南北(宋と金)の間に講和が結ばれ、雙方の間に軍事も収まっていることとて、わたくしの耳には、かの金は永遠にうつべき讎であるという声を聞くことがない。片田舎に隠棲の身であるが、これを思って憤歎に耐えず…」
そして、この時代に主戦論を唱えた愛国詩人が陸游である。「書憤」も彼の心情をよく表した詩だ。
書憤 憤りを書す
早歳那知世事難 早歳 那ぞ知らん 世事の難きを
中原北望気如山 中原を北望して 気は山の如し
楼船夜雪瓜洲渡 楼船 夜雪 瓜洲の渡
鉄馬秋風大散関 鉄馬 秋風 大散関
塞上長城空自許 塞上の長城 空しく自ら許せしも
鏡中衰鬢已先斑 鏡中の衰鬢 已に先ず斑なり
出師一表真名世 出師の一表 真に世に名あり
千載誰堪伯仲間 千載 誰か堪えたる 伯仲の間に
一海知義編『陸游詩選』は次のように訳している。
〈若い頃は世の中のむつかしさにどうして気づこうか。北のかた中原地方を眺めやって意気は山のように大きかった。
やぐらを組んだ戦艦が、夜雪のふる瓜洲の渡しで敵をおいはらい、鉄のよろいをつけた馬にのって、秋風のわたる大散関にいたこともあった。
私自身、あの辺境のとりでをかこむ長城のようなつもりでいたが、それもむなしい自負だったのか。鏡にうつる色あせた髪の毛は、もうとっくにしらがまじりになっている。
諸葛孔明が書いた一篇の出師の表は、まこと一世に名をとどろかしたが、あれから千年、誰が一体それと匹敵するだけのことをなしえたか。〉