■木村武雄と周恩来の会見
木村は早い時期から、日中の橋渡し役を演じていた。昭和三十九(一九六四)年十一月二十四日には久野忠治とともに訪中し、陳毅外交部長と会談している。そして、日中国交正常化の二年前の昭和四十五年にも北京を訪れ、周恩来首相と会談している。木村莞爾氏は、次のように振り返る。
「日中国交正常化の影の主役は廖承志です。木村武雄は彼とも交流を温めてきました。昭和四十五年の訪中には私も同行しました。香港まで飛行機で行き、香港から広州へ鉄道で行き、広州から北京に飛びました。その時にアレンジしてくれたのが、当時香港副領事だった加藤紘一君です。

石原莞爾先生の思想を受け継いだ木村武雄は、「東亜大同」の夢を抱くとともに、我が国をどの国とも対等に話し合える国にしておかなければいけないとの考えから、日中国交回復を目指したのです。木村武雄は、それを進めようとすれば、台湾との関係を重視する右翼が反対することも想定していました。だからこそ木村武雄は、右翼を自ら抑えるために国家公安委員会委員長のポストを望んだのです。実際、右翼は騒がなかったのです。
東亜連盟には、アウトローから左翼まで共鳴していました。例えば、アウトローでは「東声会」を結成した町井久之。左翼では、市川房枝、佐々木更三、淡谷悠蔵といった人たちです」
平澤光人氏によると、木村と対面した周恩来首相は、開口一番「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」と尋ねたという(平澤光人「東亜連盟の理念と実践」『永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か』原書房)。木村莞爾氏も、「周恩来首相は東亜連盟の話をしていました。周恩来は、木村武雄がいかなる人物かを全て調べ上げていたはずです」と語っている。木村は、中国が信頼する数少ない日本人の一人だった。
木村は東條政権に盾突き、昭和十七年四月の翼賛選挙では非推薦で当選した。しかし、東條政権からの圧力が強まる中で、木村は同年九月に上海に逃れた。木村武雄は次のように振り返っている。
〈私は太平洋戦争の四年間を、ほとんど中国で過ごした。……軍は思い上がった一部の指導者たちを先頭に南へ北へ戦線を拡大してしまっている。この戦いを〝聖戦〟と呼ぶことを完全に否定するものではないにしても、現実にはおよそ聖戦とはかけ離れた殺戮と蹂躙とが無限にくりひろげられている。私は、この小躯をもって可能なかぎりの正義を貫いてみたいと希った。
私は活動の本拠を上海地区においた。上海は経済の中心地であり、したがってまた日本軍による掠奪行為の最も激しかった地域である。上海の滬西地豊路のチャイナタウンの一角に、私は木村公館なるものを創始した。……私が創始した木村公館は、紡績業者、本屋といった商人たちから会社や店の顧問になってくれとかあるいは略奪から護ってくれと依頼され、そのために日本内地から私の同志、部下たちを呼び寄せて発足させたものであった。いわば中国人のための萬相談所ともいうべき組織となり、お役所(軍)への陳情、公文書や商取引証書の作成、拘留、留置者の貰い下げといったことを業としたわけだが、料金はとらず、年中無休で働いた。……ところが上海在住一年にして、今度は現地陸軍部部長からの退去命令が私に突きつけられたのである。陸軍部の言い草は、「君は日本人でありながら日本人ではない。中国人からは受けがいいが、日本人は君をひどく嫌っている。したがって上海退去を命令する」というのであった〉(『自伝 米沢そんぴんの詩』)
木村は帰国の準備を始めた。すると、第四課長となった辻政信が木村に面会を求めてきたのだ。辻は木村に上海に留まるよう求めた。その理由は二つあった。一つは、木村に日中両国人の間に入って諸々の問題の調整役を引受けてほしいということだった。もう一つの理由は、日本軍百万の将兵のために食糧、特に米を手に入れてほしいというものだった。木村は次のように述べている。
「辻大佐は、私に出ている退去命令を何としても取消させる、という。どうしても私が必要なのである。中国商人にうんと言わせるためには私を上海にとどめておくしか方法がないことを、大佐は熟知していたのであった。大佐は陸軍の幕僚の中では切れ者で知られ、かつては東条軍閥を支持した主戦派の一人であったが、のちには石原思想に感化され、私たちの東亜連盟運動に深い理解をみせていた男である。私は彼のためにひと肌脱ぐことにやぶさかではなかったから、その申し出を引受けたのであった。
私の呼びかけに応じて、上海のキャセイ・ホテルに八十数人の米穀業者が集まってきた。今や一人の米業者も不在だといわれた当時の上海で、である。米業者たちを動かしたのは私と関係の深かった紡績業者たちであった。その結果、私にとっても、ましてや当時の日本軍にとっても信じられぬほどの米、実に六十万トンが集められたのであった。自分たちの恩人である木村さんを助けよう、その木村さんの兄貴分が困っているのだから、敵も味方もない、何とか策を講じてやろうというのが彼らの考えなのだ」
木村武雄自身はこのように書いているが、木村莞爾氏によると米穀業者の協力は汪兆銘の号令によって得られたのだという。
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石原莞爾の魂と戦後政治—木村武雄の生涯②
■「田中さんの人柄に惚れてしまった」
木村武雄は『自伝 米沢そんぴんの詩』で田中を信頼するようになった経緯について述べている。昭和四十五年十一月の山形市長選挙で、社会党などが支持する現職の金沢忠雄に対して、自民党は本田権之助を擁立した。しかし、「本田劣勢」が伝えられていた。そこで山形県県連会長を務めていた木村は、本田勝利を目指して知恵を絞り、山形大学の医学部設置案に目をつけたのだ。木村は次のように振り返る。

〈選挙の直前、東北、北海道の自民党大会を山形県体育館で催す段取りをし、党の三役を担ぎ出した。田中幹事長には事前に「今度の大会は実は市長選のためで、大会で医学部設置の陳情があるので、そのときは、いやだなどと選挙の妨害になるようなことはいわないでほしい」と頼んでいた。役人出身者はこの種の頼みには、決してうんといわないが、田中さんは野人出身である。「よかろう」と返事をしたのである。
大半が山形市の人で、一万人以上の大集会がはじまり、本田市会議員候補が「県民の要望、山形大学に医学部の設置を実現してほしい」と決議を出した。田中さんが立ち「党の三役揃いぶみでこのことを預かり、必ず実現させましょう」と演説した。ほォ、田中という人物は約束を守る男だな、とそのとき思った〉
市長選で本田は落選、木村は医学部設置を諦めかけた。しかし、医学部設置は山形県にとっては大切な問題だと考え直し、医学部設置を実現しようとした。しかし、文部省は一切受けつけず、大蔵省も文部省の要求のないものは了解できないとの姿勢を示した。そこで木村は田中に再び頼み込んだのだ。
〈私は再度田中さんに「長い政治生活にこんなことでケチをつけられたくない。困難なのはわかっている。そこを押して頼む」と強く要望した。
田中さんは私の熱意に負けたのであろう。「わかった、文部省が認めないのなら党の決議案として提出してやろう。そのかわり、これをきっかけに予算編成が大蔵省から党中心になるぞ」という話になった。それを知った大蔵省と文部省は了解をし、無事、山形大学医学部設置案が通ったのである。
私は前にも増して田中さんの人柄に惚れてしまった。そのとき、よし、次期総理に田中さんを担ごう、と初めて決心したわけである〉
佐藤栄作の意中の人物は、田中角栄ではなく福田赳夫だった。だが、佐藤派の木村は田中擁立に動いたのだ。その目的は日中国交正常化にあったのだ。
石原莞爾の魂と戦後政治─木村武雄の生涯①
■「アジアの独立と繁栄は、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まる」
石原莞爾の理想を戦後政治の中で体現しようとした男・木村武雄。彼は佐藤栄作にも、田中角栄にも直言できる数少ない政治家の一人だった。田中政権では建設大臣と国家公安委員会委員長を兼務し、石原莞爾の理想を追い求めた。
明治三十五(一九〇二)年に山形県米沢市で生まれた木村は、明治大学を卒業し、米沢市議、山形県議を経て昭和十一年の衆議院議員総選挙で初当選した。同年、中野正剛の東方会に入党したが、昭和十四年に東方会を脱退し、東亜連盟協会を設立した。終生石原莞爾を師と仰ぎ、その理想の体現に奮闘した。

令和四年一月八日、木村武雄の次男で、山形県議会議員を務めた木村莞爾氏に話を伺うことができた。木村莞爾氏は、木村が尊敬する石原莞爾から名付けられた。冒頭、筆者が「石原莞爾の理想、東亜連盟の理想が、木村武雄氏によって戦後政治にどう活かされたのかを明らかにしたい」と述べたところ、木村莞爾氏は即座に「それは日中国交の回復ですよ」と断言した。
昭和五十二年七月五日、田中角栄は福田赳夫を破り自民党総裁に当選、翌六日、第一次田中内閣が成立した。それからわずか二カ月余り後の九月二十五日、田中は北京を訪問し日中国交正常化を果たした。
〈なぜ木村武雄が田中角栄さんを総理にしたかと言うと、日中国交回復をさせるためですよ。木村武雄は佐藤栄作にそれをやらせたかった。しかし、佐藤は笛吹けど踊らずでした。そこで、木村武雄は田中さんを呼んで「君が総理になってくれ」と言って田中さんを擁立しようとしたのです。木村武雄は田中支持の流れを作るために、政党政治研究会を立ち上げます。官僚政治には人間味がなく、管理と分配のために上から下に統制しますが、政党政治においては国民が主役であり、下から上へ民意をくみ上げようとします。佐藤総理の後継が福田さんならば、官僚政治の流れが続きます。その流れを断ち切るのが、田中総理の誕生だったのです。
木村武雄と田中さんには約束があったのだと思います。「木村は田中総理誕生のために全力を尽くす。田中総理が誕生した暁には日中国交回復を実現する」という約束です。田中さんは外交が得意な人ではありませんでしたが、わずか二カ月余りで日中の国交を回復したんです。木村武雄がいたからこそ、それが可能だったのです〉
木村にとって日中国交正常化は、石原莞爾の理想の体現にほかならなかった。石原は「我らは東方道義をもって東亜大同の根抵とせねばならぬ。幾多のいまわしい歴史的事実があるにせよ、王道は東亜諸民族数千年来の共同の憧憬であった。我らは、大御心を奉じ、大御心を信仰して東亜の大同を完成し、西洋覇道主義に対抗してこれを屈伏、八紘一宇を実現せねばならない」と訴えていた(『戦争史大観』)。
石原が亡くなったのは、昭和二十四年八月十五日。木村は遺骨を分骨して郷里米沢に持ち帰って埋葬した。それから二十二年後の昭和四十六年八月十五日、埋葬した記念として、御成山に記念碑を建立した。木村が書いた碑文には、次のように書かれている。
「先生の歴史は昭和六年九月十八日の満州事変と満州建国に要約し得るが、その中に包蔵された先生の思想はこの歴史よりも遥かに雄大で、岡倉天心のアジアは一なりの思想、孫文の大アジア主義と軌を一にする東亜連盟から世界最終戦争論にまで発展する。その総てが世界絶対平和を追求する石原先生の革命思想の発露である。
岡倉天心は明治二十六年七月、中国に渡って欧州列強の半植民地政策による貧困と苦痛をつぶさに観察して足を印度に延ばし、詩聖タゴールと交ってヨーロッパの繁栄はアジアの恥辱なりと喝破してアジア復興をアジアの団結に求めて印度を追放されたのも、孫文が日本に亡命してアジア主義を提唱して中国の独立を日本の援助に托したのも、石原先生が満州を建国して東亜連盟に踏み出したのも、その真情は総じてアジアの解放にある。
先生はアジアを直視して、アジアの独立と繁栄が、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まるとした。そして先の両国の中間にあたる満州に日華民族の協和する王道楽土を建国し、これを橋梁として多年抗争する両国を東亜連盟で結んで欧米勢力と対決して人類歴史の前史を最終戦争の勝利で締めくくり、かくて世界絶対平和の後史をアジア人の道徳を中心として建設せんとした」
木村はこの石原の精神を自ら体現することを誓ったに違いない。
荒川定英墓参(令和4年1月4日、常瑞寺)
令和4年1月4日、名古屋の平和公園(常瑞寺)に赴き、幕末の尾張藩で活躍した荒川定英のお墓にお参りした。
『国会請願者列伝 : 通俗 初編』には次のように書かれている。
「氏、旧名を弥五右衛門坪内氏の子出でゝ荒川氏を嗣ぐ。…慶応四年正月元日、東軍の先鋒大坂を発す。当夜、氏、単身城を逃れ途に馬を得て、隻騎木津川を亂り、宇治新田より伏見の豊後橋に至り薩藩の陣に入て急を告げ、直ちに洛東知恩院なる藩侯の旅館に到つて変を報じ、再び寺町の門衛に就て状を上つる。朝廷、氏の功を褒して鳥羽口の斥侯となす。乱平らぐの後ち、氏、名古屋県の権参事となる。頗ぶる政績あり、幾ばくも無くして職を辞す」
また『名古屋市史 人物編 第一』には「定英、人と為り剛毅権貴に屈せず、直言して憚らず。頗る材幹あり」と書かれている。


