フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
ピオ・デュラン博士は、東亜モンロー主義を国家安全保障の観点から論じた上で、地理的、文化的な観点から論じる。スペイン来訪以前には、フィリピンは東洋大帝国の一部を構成していたと喝破する。
〈国家安全の要求は別としても、なほ他に比律賓がこの地に於けるモンロー主義に讃意を表すべき他の隠れた理由が存在する。
それは、地理的、文化的に見ても東亜の諸国民が一体となつたがいいのである。比律賓に於ける文明は、日本に於ける文明と同様に孔子や老子のやうな聖人の教及び仏教の原理に基いてゐた。西班牙人来訪以前に於ては、比律賓は仏教徒並に支邦人の連合勢力によつて、建設されたる大帝国の一部を構成してゐた。 ジャバのカドー地方に於けるボロ・ブヅール及びアンコール・バットに於て十二世紀初葉スルヤバルマン二世によつて建てられた、素晴らしい霊廟は、今日に於ても幾百万の馬来人が、西洋諸国に対する闘争の最も暗黒な時代に於ても、自らを励ますために仰ぎ見る希望の信号火として立つてゐる。その均整のとれた美、素晴らしい壮大さは、西洋の最も活発にして肥沃な芸術的創造によつてもまだその概念に於て、又実際に於て匹敵するものがなかつた。人間文明の最も動揺したる三千年に互つて、壮大さと素晴らしさとが維持されたことは、馬来人の事業と文化の持続的性質を現すものである。かかる背景を考へれば、比律賓文明の基礎が三百五十年間の西洋支配の影響によつて、完全に蝕まれたとは思はれない。
地理的には比律賓は、周囲の数々の異なつた東洋勢力を巻込むべき渦を為してゐる。支那及び印度の世界総人口の約半分を容れる亜細亜本土を別とすれば、比律賓は北は北海道から濠洲の北岸スマトラまで拡がる亜細亜大陸の海岸を囲む一連の島嶼の一部を為してゐる。比律賓人が好むと、好まざるとに拘らず、その国の生命は、東亜の諸国と固く結びつくことを自然は命じた。
この自然の避くべからざる命令に背くことは種族的自殺を招き、東亜全体の平和と安寧むを危殆ならしめるものである〉(同書152頁5頁~154頁2行目)
「日本の大東亜共栄圏とフィリピン」をテーマとした研究を行ってきたドイツ人研究者のスヴェン・マッティセン(Sven Matthiessen)氏の著作に、『Japanese Pan-Asianism and the Philippines from the Late 19th Century to the End of World War II. : Going to the Philippines Is Like Coming Home? (Brill’s Japanese Studies Library) 』(2015年11月)がある。
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士に関する、同書の記述をいずれ紹介する。
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
伝統文化の保持の重要性を指摘し、「東洋に還れ」の運動を発足することがすべてのフィリピン人の義務だと説いている。
〈しかしこれは如何なる犠牲に於て為されたか、比律賓人は現在彼等特有のものと誇らかに宣言し得るものを所有してゐるか。吾が近隣の東洋諸国は、吾々のことを何と思つてゐるか。西洋諸国の支配は我が国を東洋に合はないものとしたといふ考へで狼狽するやうなことはないのか。支那は現在純粋なる自己の文化及び文明を誇ることが出来る。我が国人の多くが、白人と同じやうに侮蔑感を以て眺める支那人は西洋の標準に従へば無智であるやうに見えるが、その祖先の高貴なる伝統を墨守したのは、称賛さるべきである。日本は西洋の軍国主義を学びこれを一度ならす西洋に対してうまく利用したが、その宗教、言語並に東洋及び自国自身の他の制度を捨てるやうなことはしなかつた。長年英国の支配下に呻吟した夥しく多数の印度人は、英国人がその支配を永久化せんとした為に分割されてはゐたけれども、彼等が大いに誇りとした彼等自身の文化を所有した。長年の極貧と外国の圧政下に在つて、ヒンヅー人は、その先祖から受継いだ制度に対する忠誠に動揺を来さなかつた。南方の泰人は、西洋のものよりも自分自身の習性特風及び生活方法を保持した。ボルネオ、スマトラ及びその他東印度諸島の六千万の馬来種の同胞は幾世紀かの間、西洋の支配下に在つたにも拘らず、シュリ・ビサヤス及びマダパヒットの帝王時代から譲受けた文明の特相を保持し続けた。
東洋を訪れる旅行者は、雪に覆はれた日本の山の斜面にせよ、ゴビ砂漠の焦がすやうな砂にせよ、印度ヒマラヤ山の眩むるやうに高い所に於ても、又東印度度の颶風に暴された海岸等、あらゆる所に於て東洋文化の形跡を見る。しかしながら、一度旅行者が比律賓に達するや、東洋に於ては不似合な、さればとて西洋の背景をなすにも適当でない混ぜものの東洋的なものを見る。この嘆ずべき状態は本質的にくた著しく東洋的なるものの上に西洋文明を強制的に重ねたことに基くが、その非難は住民大衆に対して、為さるべきではなく、寧ろ東洋民族の一部を無気力にせんとして統治し、西洋諸国と自己を同列に置かんとした東洋主義の背教者に対して為さるべきである。
今や比律賓は、幾世紀かの絶えざる闘争の後、喪はれたる自由を再び獲得せんとし居れるを以て「東洋に還れ」の運動を発足するは、すべての比律賓人の義務である。幾世紀かの如何とも為し難い服従の間に強制的に押附けられた、厚く塗られた西洋文明の上塗りは、これを引剥いで、現在及び将来永遠に東洋諸国住民の生命の中に根本的影響を残す古き東洋文化の栄光を明るみに出さればならぬ。〉(同書136頁9行目~138頁12行目)
アメリカが恐れた大亜細亜主義。フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『Philippine independence and the Far Eastern question』(Manila : Community publishers, inc.,1935)。
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
以下は、アメリカナイズされ尽くした現在の日本人に対する警鐘 ともなっている。
〈多数の自国国民を覚まさしめ行動にまで奮ひ立たせた最大の理想家にして愛国者たる著名にして、尊敬すべき支那人政治家の口より出でたるこの助言は、貪欲にして残忍な恐るべき西洋物質主義に反対し、「王道」なる語に現されたる東洋の徳と正義の哲学への訴へを現してゐる。これは自分達が東洋人の血と肉とを所有してゐることを忘れ、種族的誇りを捨て、自己及び祖先の特性を有せず、又西洋人が與ふる一時的にして、皮相な物質的利益の為及び没利害的なりといふ偽善的申込と交換に、東洋を西洋化せんことを提唱し、又白人は有色人種を軽蔑の念を以て扱ふことをよく知つて居りながら、東洋の同胞よりも白人を好むが如き東洋人に対しよき反省の材料を提供するものである。幾世紀かに亘る西洋諸国の圧迫の結果、東洋の弱者をして最も激しい西洋主義者以上に、西洋化されんことを願ふ種族的裏切者と変へて了つた。かかる人々は白人が東洋文明の全機構を毀損し破壊せんとするの手段媒介となる。彼等は高い精神主義の東洋文明には相応しくないものであるが、かかる人々は白人の保護国に於ても蔑まれる。彼等は東洋に於ける白人が内蔵せる商業上に於て拡大強化せんとするの邪悪なる計画、表面上現す追従的尊敬の上に於てのみ繁栄するのだ。彼等は東洋に於ける西洋物質主義に結びついた金の光沢に目眩めき、西洋が支配する以前に於ける巨大な東洋の諸帝国の基礎となつた、東洋人の不屈の精神たる自己放棄の精神を失つてゐる 。寧ろ彼等は西洋諸国の支持が無くなれば、その国は経済的、社会的、文化的に没落するものなりと恥もなく予言するのだ。彼等はその種族的誇りは西洋化された東洋人として名を揚げんとの思ひで窒息させられてゐるので、自国民及び自種族に対し、積重ねられた毎日の侮辱には気がつかない。このやうな孫逸仙の意味深き言葉は、前記の不幸なる東洋主義の裏切者を種族的に本来の地へ還らしめんが為に発せられた言葉であることは疑ひ無い所である。
この種族的裏切者は、比律賓に於けるが如く、夥しく多数存在する所は無いであらう。比律賓人は西洋人の眼を以て自国を眺め、誇らかに西洋の文化文明を吸収した唯一の東洋国家として自らを区別する。〉(同書134頁8行目~136頁8行目)
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)を紹介する。章立ては以下の通り。
第一章 歴史的回顧
第二章 アメリカ政権下の平和的独立運動
第三章 中立の笑劇
第四章 日比同盟
第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義
附録
第一 タイディングス・マクダフイー法
第二 タ・マ修正法
第三 比律賓憲法
まず、「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を数回にわたって紹介する。
〈将来に於ける比律賓共和国の領土保全を護る為に日比同盟をば締結し、中立条約の締結はこれを拒絶するとすれば、その結果必ず東亜諸国民間の関係及び交渉の密接化を助長することとなるであらう。東亜に於ける四独立国たる日本、支那、満州、泰国間に汎亜細亜連合が組織され、以て今や亜細亜諸国間の種族、文化、習慣、伝統の縁を強化する協同及び相互活動を齎す機能を果してゐる。
最も傑出せる汎東洋主義の提唱者は恐らく故孫逸仙なるべき処、彼は神戸に於て為したる演説に於て如何に亜細亜諸国民が白人種により抑圧されたかを述べて次の如くいつてゐる。
「被抑圧亜細亜諸国民が如何にして欧羅巴の力に抗し得るかといふ問題を解決する為には、汎亜細亜主義を研究しなければならぬ・軍国主義的国家は自国民と同様に、他国国民を抑圧するものである。吾が汎亜細亜主義は「王道」に基いて不正を克服せんことを目的とする。諸国家の大衆を同様に開放せんことを企図し、軍国主義に反対する。諸兄日本人は既に『王道』なる諸兄特有の東洋文明に加ふるに西洋軍国主義的文明を採用せられた。諸兄は今や西洋軍国主義の番犬となるか、又は『王道』に基く東洋的生活方法の砦となるか、二者択一の地位に在り。」〉(同書133頁1行目~134頁7行目)
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、津島壽一『芳塘随想 第10集(先輩・友人・人あれこれ)』(芳塘刊行会、昭和38年)の記述。
〈デュランさんは親日家であったが、その根本の思想はフィリピン民族主義者、フィリピン愛国家として教育、政治の部面に活動したのであり、そして、そのためには日本と親しくするのがいいという考えの持ち主であった。従て国語についてもタガログ語を奨励した。デュランさんの議会におけるタガログ語の演説などは堂々たるものであったそうだ。(私にタガログ服の着用を推奨したのも、こういった主張のあらわれだと解釈すべきであろう)
デュランさんは、一九〇〇年五月アルバイ州(Albay)ギオバタンに生まれ、一九二四年国立フィリピン大学卒業後、数年間同大学法学部の教授として後進を指導し、のち弁護士を開業し、また農業方面にも活動した。一九三二年に著書「比国独立と極東問題」を刊行し、この書の中でも親日論を強調した。
日本軍占領中は、内務次官、対日協力会理事長などを勤めたため、ラウレル、ヴァルガス等の要人と共に戦後約十四ヶ月(一九四六―七年中)ばかり獄中生活をしたが、ロハス初代大統領によって釈放された。
議会人としての経歴であるが、大戦前二回立候補したが、一度は親日ということが崇って落選した。が、一九四九年郷里アルバイ地区から下院議員に再選し、ナショナリスタ党の有力な幹部となり、銀行通貨委員会委員長、外務委員会委員として華やかな議会活動をした。が、惜しいことに昭和三十二年(一九五七年)七月来日の際、脳出血に罹り、荻窪の東京衛生病院で三ヶ月間も療養し、帰比後も健康が勝れず、一昨年(昭和三十六年)二月二十八日、マニラ郊外の自宅で他界されたのであった。あの快活であり、率直であり、雄弁家であり、そして親日家であり、世話好きの好紳士を失ったことは誠に痛惜に堪えない。
追記
(一)デュランさんは、戦後二度目の夫人(Mrs. Josephina Belmonte Duran)を迎えたが、その夫人はかってマニラ大学教授時代の教え子であったそうで、教養も豊かに、弁護士の資格を有った立派な方で、デュランさんの逝去した年の十一月、その選挙区(アルバイ)から立って、下院議員(リベラル党)に当選し、現在に至っておるとのことだ。
(二)本項のデュラン氏の経歴等については、同氏と親交のあった山本恒男氏(一九三八年二月─一九四二年七月、正金マニラ支店長)から示教をうけたところによる〉
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、津島壽一『芳塘随想 第10集(先輩・友人・人あれこれ)』(芳塘刊行会、昭和38年)の記述を数回に分けて紹介する。
津島は、明治21(1888)年に香川県阿野郡坂出村(のちの坂出市)で生まれた。東京帝大法学部卒業後、大蔵省に入省、小磯内閣の大蔵大臣を務めた。戦後は、日本国主席全権大使としてフィリピンとの賠償交渉にあたった。
〈「マニラに懐う人々」のうちで、私にとり深い印象をのこした人として、比国下院議員ピオ・デュラン氏(Mr. Pio Duran)がある。
私がデュランさん(以下デュランさんと呼ばして貰う)に初めて会ったのは、昭和二十六年十二月二十八日、元正金マニラ支店長の山本恒男君に伴われて外務省顧問室に私を訪れたときである。
爾来、デュランさんからは、比国の政情や、賠償問題に対する態度その他について、極めて有益な情報と意見を聴くことができた。いよいよマニラヘ出発する時期も近づいた一月十六日(昭和二十七年)には、都内の某所で会食して、これらの問題についてゆっくりと懇談する機会があった。それから、マニラ到着後も、しじゅう私をホテルに訪ずれられ、友人としての立場で何かと面倒を見てくれたものである。
デュランさんは、自他共にゆるす大の親日家である。その夫人の甥二人を養子として薫育されたが、その名前も一人は東郷平八郎デュラン(Togo Heihachiro Duran)他の一人は黒木為禎デュラン(Kuroki Tametoshi Duran)と付けたり、また、この二人を日本の小学校に入れたりしたことによっても、それはうなづけることとおもう。……私のキリノ大統領の晩餐招待のときに急造したタガログ正装の如きもでデュランさんのあっせんにより一日間で間に合わせたのであった。あるときは、マニラホテルの私の部屋へ、極上のタガログ料理を持込んでくれ、団員等と愉快に夕食を共にし、歓談を交えたりしたこともある。とにかく、同氏の厚い情誼には私どもいたく感動したものだ。私のマニラ賠償会談の結末に対しても心から喜んでくれ、離島のときには国際空港に来られて成功を祝してくれたのであった〉(続く)
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述。
〈日本人であるわたしでさえも、終戦を転機に、百八十度転換した母国の激しい変貌にはすっかり戸惑ってしまったくらいだから、忠君愛国の心酔者だったデュラン氏が、愕きそして失望したのも、無理からぬことだったろう。
デュラン氏は、名状しがたい気持で宿舎に戻り、このことを夫人に話したくだりを語りながら、
「ミスター金ケ江、妻に対して、こんなに面目を失墜したことはなかったよ。僕の話を聞きながら笑っている妻の顔を、面目ないというのか、気まりが悪いというのか、まともには見られなかったよ」
と、こぼしたことがあった。
それでもデュラン氏の日本びいきは変ることなく、その後もたびたび来日して、日本商社となにか共同事業を計画しているようだった。そのうちの一つに、氏の郷里がマニラ麻の生産地であるところから、麻を輸出して優秀な日本の技術によって加工する、新しい製品の開発に努力していたが、糖尿病が持病だったデュラン氏は、数年前に、事業の成功を見ずして他界したのである。ヒリッピンでは戦前、戦役を通じて異色の人物だった。
わたしの長男清彦が関西学院を卒業の時、卒論にとりあげたのが、このビヨ・デュラン氏の日比同盟論であったことも、わたしにとっては氏とのゆかりの一つである。
日本へも来日したことのあるファニタ夫人は、デュラン氏の亡きあと、アルバイ州の選挙区の人たちに推されて、下院議員に連続当選しているそうだが、これを見ても、デュラン氏がいかに人びとに人望があったか、想像されるのである。人間の真の価値というものは、その人の死後に決まるものだ、とよく言われるが、このデュラン氏などは、生前よりむしろ死後において、その価値が再認識された一人ではあるまいか〉
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述。
〈…終戦後は、対日協力者としてモンテンルパ刑務所に監禁されていたが、この人について今も忘れられない、一つの思い出がある。
それは、モンテンルパから釈放された氏が、郷里から出馬して下院議員となり、戦後問もなく二番目の新夫人を同伴、来日したことがある。その時は、まだヒリッピン大使館がなくて、ヒリッピン代表部の代表だったメレンショ氏の公邸で会ったことがある。デュラン氏はわたしの顔を見るなり、驚いた声でこう叫んだものだ。
「ミスター金ケ江、武士道の国ニッポンは、いったいどこへ消えてしまったのかね?!」
君主国日本に憧れていたデュラン氏の脳裡にあった、忠君愛国のイメージは、敗戦の虚脱のなかで混迷している日本の姿に接して、はかなくも、音をたてて崩れ去ったものらしかった。その驚きと失望のうちに語るデュラン氏の述懐は、次のようなものであった。
同氏は、かねてから新夫人に向かって、日本ほど素晴らしい国はない、と口をきわめて礼讃し、わがことのように自慢していたという。
「日本の善良な国民は、天皇陛下をうやまうこと神のごとく、たとえば乗っている電車が、天皇のおいでになる皇居の前を通る時は、乗客はみんな起立して、皇居に向かってさい敬礼するし、また日曜日には、ヒリッピン人が教会へお詣りするように、市民たちは朝早くから皇居前の二重橋という所へ行き、そこに跪ずいて両陛下を遥拝し、老いも若きも忠誠を誓うのだよ。こんな国民は世界広しといえども、この日本よりほかにはないんだ。なんと素晴らしい国民じゃないか」
ちょうどその日が日曜日だったので、デュラン氏は夫人を呼んで、
「お前は、三宅坂の教会に行って、ミサのお詣りをしてくるがいい。わたしは、これから二重橋へ行って、両陛下を遥拝してくるから」
そう言って一緒に宿舎を出たデュラン氏が、二重橋まで来てみると、脆ずいて遥拝している敬虔な日本人の姿は一人もなく、そのあたりを若い男女が手をつないで、楽しそうに散歩している意外な光景が限に映り、まるで、マニラのルネタ公園にでも立っているような思いがしたデュラン氏は、思わず眉をひそめて、
「ここが日本の二重橋か……」
と、思わず口走しったというのである〉(続く)
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